来店を告げる古びたベルの乾いた音色は、もうすっかり聞き慣れた。その音に反応してこちらを見やる女とジジイの顔もまた、同じく。ただ今日は、普段は嗅ぎ慣れないなんとも形容し難いにおいが漂っている気がする。あまりいいおいにとはいえないそれに、眉間に僅かに力が入るのを感じた。

「相変わらず閑古鳥鳴いてんな」

 然程広くもない店内はオレ以外に客は誰もおらず、がらんとしている。たいてい幹部の一人や二人、というか主にモッチーか灰谷兄弟が屯しているもんだが、今日は誰もいねぇのか。そう思いながら退屈そうにカウンターの端に座っているなまえの隣に腰を下ろすと「さっきまでランチのお客さんで賑わってたんですう、やっと落ち着いたんですう」と口を尖らせながらこちらにメニューを差し出してくる。まもなく15時に差し掛かろうというこの時間はもうランチタイムが終わっているから、通常メニューだ。今更メニューはいらねえ。受け取らずに取り敢えずコーラを頼むと、よっこいしょなんてババくせえ声を出したなまえが立ち上がってカウンターの中に入る。

「今日のきまぐれ、なんだった?」
「本日のきまぐれランチは〜なんちゃって ガパオライスでした!」

 この店のいいところ、というか都合のいいところはいくつかあるが、その中のひとつは価格が安いところだ。そんなに懐が潤沢なわけではないが、腹は減る。そんなオレたちの胃袋を満たすのにこの店はうってつけだった。特に日替わりランチならぬきまぐれランチは、この女が色んな料理にチャレンジするための数量限定メニューだ。どれも素人に毛が生えたレベルだから、と言う理由で他のメニューよりいくらか安い。オレたちはそれを頼むことが多かった。安いし、味もそんなに悪くなかったから。

「ガパオライス?」
「うん。バジルとかパプリカとかをひき肉と炒めたやつをごはんに添えて、その上に目玉焼きをどーん!とのっけるタイの料理です!」
「フーン」
「前にタイ料理のお店で食べたのが忘れられなくてさ、作ってみたんだけど」
「出来は?」
「私としてはもうちょっと改良がいるかな?って感じだったんだけどね、でもね、聞いてよイザナくん!」
「なに」
「あのね今日灰谷ズが来てくれてたんだけどね、驚くことにね、ふふ!」
「長ェ」
「あは、ごめん。それでね、あの蘭くんがさあすっごい褒めてくれたんだよね!普段結構辛辣じゃん、あのこ!」

 語尾にいくつも「ね」がつく喋り方を聞くと、ずうっと昔の記憶、妹が嬉しい出来事を逐一報告してきたときのことを思い出す。目の前の女は、妹どころか年上だが。思わず溢れてしまう笑みを隠しもせず、なまえはどれだけ蘭に褒められて嬉しかったかをしみじみと伝えてくる。

「アイツだって褒めることくらいあんだろ」
「いやね、“美味しい“とは言ってくれないんだよ。コンビニよりマシとか竜胆のメシには及ばないとか、そう言うのばっかりで」
「へえ」
「わざわざウチに食べに来てくれるってことはある程度おいしいと思ってくれてるのかな…と勝手にポジティブに思ってるんだけど」
「まァ確かに蘭が食いモンを褒めるのはあんま聞かねえかも」
「でしょお?でもそんな!蘭くんが!今日は確実に美味いって言ったんです!」
「へえ、よかったな」
「しかも!これからモッチーくんと合流するからって、テイクアウトまでしていってくれたんだよ、すごくない?」
「おーすごいすごい」
「ふふん、お陰様で今日きまぐれランチは完売です!」

 なんかちょっと自信ついちゃったなあ、と氷とスライスレモンをいれたグラスと瓶コーラをオレの前に置きながらなまえが興奮気味に顔を紅潮させて、やたら嬉しそうに笑う。
 普段蘭がこの女にどんな言葉をかけてるか知らねーし、蘭がどんな風に褒めたかも知らねえが、たかが言葉ひとつ貰えただけでそんなに喜ぶようなことなのだろうか。メシ屋やってると、そういうの気になンのか。それともこの女、もしかして蘭に惚れているのか?そう思うとこの喜びようにも納得がいく。あんなおさげのイカれ野郎に惚れるなんて案外趣味が悪いんだなと思う一方で、唐突になにかが胸に痞えているような違和感がして、そそくさとコーラに手を伸ばす。ストローはいらねえからと薄い紙のパッケージに包まれたままのそれをカウンターの内側に滑らせて、とくとくと黒い液体をグラスの中に注いでいく。ぱきぱきと音を立てて、氷に亀裂が入る。その音が何故か己の内側からも聞こえたような気がした。

「モッチーくんとか竜胆くんは普通に美味しいって言ってくれるしそれも十分嬉しいんだけど、なんかこう、あの難攻不落の蘭くんに言われると余計嬉しいというか…認めてもらえた感じ?っていうのかな」

 どうでもいい、そんなこと。オレはそんな惚気を聞くためにここに来たわけじゃない。メシ食いに来てんだけど。
 口にこそ出さなかったが、そんな苛立ちに近い何かが迫り上がってきて気を緩めたら口から溢れてきそうだ。くだらねえ世間話はそんなに嫌いじゃなかったが、今はもうこれ以上は聞きたくないと思っていた。なまえの独り言にも近い言葉は無視して、ぐっとグラスを呷る。いつもなら忽ちに甘ったるい味が舌の上に広がってるはずなのに、いまは炭酸の刺激が喉奥を突き刺す感覚しかわからなかった。炭酸のせいなのか、少し息苦しい。コーラで流せるかと思った胸の痞えはまだそこに残ったままだった。

「…ってごめん、イザナくんにはどうでもいいよね。んで、イザナくん、今日はなに食べ、」
「ガパオライス」
「…もう、私の話聞いてた?売り切れちゃったんだって。イザナくんにも食べてもらいたかったけど。ごめんね」

 別になまえが謝る必要はない。ランチタイムは終わってんだし、なまえの話だって聞いていた。売り切れたって、知ってる。オレがそう言うことでなまえを困らせることもわかってた。その上で言った。自分でも意味のわからない行動だと思う。なんか今日のオレ、変だ。なんでこんなに虫の居所が悪いんだろうか。それとも店内に満ちたこの生臭いにおいのせいか。答えなど出るはずもないまま、もう一度グラスに口をつける。今度はちゃんと、いつも通りのしつこいくらいの甘味を感じた。

「……じゃあ、ナポリタン」
「特盛り?」
「オレはモッチーじゃねえ」
「ふふ、はあい」

 伝票にオーダーを書き込みながら「そういえば今週モッチーくん見てないな、元気?」と尋ねるのに対して、一度呼吸を落ち着けてから、適当に返事をした。アイツはいま他所のチーム潰しに行ってると素直に答えたらどんな顔するか気にもなったが、それ以上にガミガミ面倒なことを言われそうなので最低限に留めるのが正解だったと思う。


 オレら天竺の面子がこの店を知る契機となったのは、モッチーが「とんでもなくウメェナポリタンの店を見つけた!」と騒ぎだしたからだった。蘭と違って、アイツがどこの店の何が美味いだなどという話をするのはそこまで珍しいことでもなかったし初めは誰も興味なんざなかったが、いつもの比ではないくらいあまりにその店のナポリタンが如何に美味であったかを熱く語るので、奢ってくれるなら行くと最初に言いだしたのが竜胆だった。竜胆が行くならと蘭が続き、その翌日、獅音と灰谷兄弟に両脇を抱えられるようにして鶴蝶が連れていかれた。オレも何度か声をかけられてはいたがアイツらとガキみてえに仲良く揃って飯を食う気にはなれなかったし、別に腹に溜まれば何でもいいと思っていたから、わざわざ店に赴く必要もねえだろ、と思っていた。――が、現実はどうだ。オレはいま、自らこの店に来て、飯を食っている。一度ならず、何度も。とんだ笑い草だった。
 以前、どうしてオレらをあの店に誘ったのかとモッチーに尋ねたことがある。コイツの性格上、好きなモンは独り占めするタイプだと思っていたからだ。オレら以外にも、時折下の奴らを連れて行っているようだったし。もしオマエの口コミのお陰で人気店にでもなったらどうすんだよ?と茶化すように聞いたら「そらぁそうだけどよ、あんまりにも客の気配がねーから潰れられたら困ると思ってな」と返された。確かに、この店はお世辞にも賑わっているとは言えなかった。揶揄いついでになまえにそれを指摘すると「ぜぇったい店の名前のせいだと思わない?」と。
 店名――『純喫茶 緒亜詩洲』。確かにダセェ名前だった。地域の人が自然と集まる店を目指してその名をつけたらしい。「名前はともかく、なんで漢字にしちゃったんだろ…」と嘆くなまえの後ろで、漢字のがかっけえからに決まってるだろと声をあげるのを聞いて、この店のオーナー…もとい、なまえの祖父だというジジイも昔は不良だったらしいというのはマジな話っぽいなと感じた。にしても緒亜詩洲はねえだろ、スナックみてえだし。ダセェ。
 しかしオレからすると、その静けさがこの店に足を運ぶ理由でもあった。居心地がいいというのだろうか。ジジイが同族だったからか、オレらみたいなのを追い出したり邪険に扱うこともなかったし。さすがにトップクのままで来るとなまえに怒られるが。他の客が怖がるからと。じゃあオマエは怖くねーのかと聞いたら「最初はちょっと怖かったけどウチの店のごはん美味しそうに食べてるの見たら大丈夫になった!」とバカみたいな回答を寄越されて、オレはそれを聞いて思わず笑った。拍子抜けしたんだと思う。この店を贔屓にするひとつとして、この女と話すのも、案外悪くなかった。
 まあもし経営難にでもなろうもんならウチのヤツら全員引き連れて行きゃあなんとでもなんだろ。それぐらいは協力してやってもいいと思っている。

「はいお待たせしました、どーぞ」
「…オレぁモッチーじゃねえって言っただろ」
「特盛はもっと多いよ〜」
「うぇ」

 銀の皿にこんもりと盛られたナポリタンが目の前に置かれる。十分多いだろ、と思うがまあ食い切れない量ではない。皿を手前に少し引くと、たちまちトマトソースの香ばしいにおいが鼻孔をくすぐり、猛烈な空腹感を覚えた。ここのは麺が少し太めで、ジジイ特製だというソースは甘みが少し強め…らしい。モッチーはこの甘味がポイントなのだと散々力説していた。オレはこれが甘めなのかどうか比べられるほどナポリタンに詳しいわけじゃねえからよくわからないが、まあ、悪かねぇと思う。たまに食いたくなる味だ。なまえはこの味を引き継ぐのにまだ苦労していると言っていた。今のところこのナポリタンを作れるのはジジイだけだと。

「ちゃんとピーマン抜いといてもらったよ」
「るせェ」

 頼んでもないのに、オレがナポリタン注文するとこの女はわざわざピーマンを抜く。初めてモッチー達に連れられて来たときはもちろん入っていたが、その日は食う気がしなかったから全部鶴蝶の皿に放り込んだのは確かだ。だけどこの女にもジジイにもピーマンを抜けと言った覚えはなかった。でもそれ以来オレのナポリタンからは緑色が消えた。食えねーわけじゃねえし、入ってたらまた鶴蝶に食わせりゃいいだけだ。まァ、別に入っていなくても、一切支障はないが。余計なことしやがって、と心の中で呟いてから両手を合わせた。食べる前と後に手を合わせないと、なまえが口酸っぱく言ってくるのが鬱陶しいから。





「今日ンとこ、なんてチームだっけ?」
「へひははらはろ」
「モッチー汚ねえよ、いまタマネギ口から飛んだぞ。食い終わってから話せや」
「んんッ……今日の、セキガハラみてえな名前じゃなかったか?」
「セキガハラ?なんかそんな戦いあったよな?」
「総長が通称“隻眼のツトム“っていうヤツらしくて、隻眼の隻に我の原で“隻我原“だったはずだぜ、確か」
「フーン。なんか隻眼のツトムって鉄腕アトムみたいじゃね?」
「お、さすがだな兄貴ぃ。目ェ潰れる前は“鉄腕のツトム”だったらしいぜ」
「げ、マジ?メッチャ意識してんじゃん、ダサ〜」

 まァなんにせよそのツトムくんとやら聞いたことねー名前だけど。
 ソファにふんぞり返って蘭が鼻で笑う。全くだ。オレらの中でもムーチョくらいしかその名を聞いたことがないレベルの弱小チームのヤツらが、ウチの下の一人を袋叩きにした。たかが下っ端一人のために動いてやるような甘さは天竺には必要ねえが、刃向かってくるヤツらを野放しにするのはそれはそれで癪だと、あちらの挑発に乗ってやることにした。
 その前の腹ごしらえにと鶴蝶を連れて緒亜詩洲に寄ったら、既にモッチーと灰谷兄弟がそれぞれのテーブルでメシにありついていたというわけだ。なまえはオレの姿を見るや否や、カッと目を見開いて「忘れてた!」と慌てて店外に走った。カタギのヤツが入って来たときにオレらにビビらねえよう、ドアプレートを“closed“にひっくり返すために。「だからトップクはやめてってば〜!」と息巻かれたけど、どうせ客なんざ来ねえんだし問題ないだろ。そう揶揄するとなまえはムッとしながらメニューで軽くオレの頭を叩いて「今日のきまぐれはなんちゃって和風ハンバーグです!」と声をあげたのでじゃあオムライスで、と返すと「きまぐれ一丁〜!」と勝手にオーダーを入れられた。テメェの耳はどうなってんだと言うのも面倒だから何も言い返さなかったが。

「つーかよぉ、マジわかんねーんだけど勝ち目のない勝負挑んで何になんだろうな?時間の無駄じゃね?」
「さあな。鉄腕アトムでも連れてくんじゃねーの」
「ウケる。アトムに勝てっかなあ、十万馬力だろ?アイツ」
「なに、今日はロボットと喧嘩するの?」

 キッチンの中から出てきたなまえがオレらが注文したものを出した後、アイスコーヒーを2つ持って灰谷兄弟のテーブルに置いた。くだらねえやりとりを右から左へ聞き流しながら手を合わせる。

「まっさかぁ〜オレら喧嘩なんてしねぇよ?」
「へえ、カッコイイ服着ておいて言い訳する気なんだ」
「え、なまえちゃんこのトップクカッコイイと思う?」
「うん、私が男だったら一回は着てみたかったかも」

 「うちにもどっかにじいちゃんのがあるらしいんだけどね〜」と笑うなまえと蘭を視界にいれたとき、以前にも感じた胸の辺りの違和感に気付く。息が詰まっているような感じがして、鼻から大きく酸素を吸い込んでそれらを全て吐き出すと鶴蝶が顔をあげた。今にも余計なことを言ってきそうなツラしてるもんだから「黙って食え」と釘を刺すと、ぐっと押し黙って目の前のメシに視線を落とした。

「てかさなまえちゃん、今度またあのナントカライスつくってよ」
「ナントカ…あ、ガパオライスのこと?」
「それそれ〜」
「あ。そーだ、なまえちゃん聞いてよ。兄貴この前モッチー用にテイクアウトしたヤツ、結局自分で食ったんだぜ」
「ちょお竜胆、それは言わねえお約束だろ〜」
「テメェ灰谷!売り切れだって言ってたじゃねーか!」
「モッチー声デケ〜」
「メーワク〜」
「表出ろやテメェらクソ兄弟!」
「ええ、そんな喧嘩の火種になるくらいならまたやろうかな」
「いやでもさ、まじで美味かったんだよなァ」

 空いた皿を持って肩を竦めているなまえの横顔を見る。本心か世辞かわからない褒め言葉を口にする蘭に照れたように笑いながら「そんなに褒めたって今日のお会計安くならないからね」とおどけている。口の中のハンバーグを咀嚼しながらこの前の高揚したような笑顔を思い出していると、ふいになまえの顔がこちらに向けられて目があう。思わずまだ口に入れて間もない挽肉の塊を、喉の奥に押し込んでしまった。

「ん?どしたの、イザナくん」
「あ?」
「いや、こっちじっと見てるから。あ、ごはんおかわりする?」
「別に。いらねえ」
「あれ、そう?そのハンバーグ、ごはんにあうと思ったんだけどな」

 なまえの言う通り、確かに米の進む味だった。食おうと覚えばおかわりだって余裕で平らげられると思う。ただ、咄嗟にいらないと言ってしまった。なまえの目がオレに向けられたとき、一瞬だけ胸の痞えが消えたような気がしたから。意味のわからない現象につい驚いて、思わず否定してしまった。
 最近、時折感じる。自分の体が自分の意思に反しているような感覚。「お食事の邪魔してごめんね」と小さく頭を下げてから向けられた背に声をかけたのだって、無意識だった。両手に皿を持ったままのなまえが不思議そうな顔をして振り向く。

「なまえ」
「うん?やっぱりおかわりす、」
「これ」
「…それ?」
「米に合う。…美味い」
「えっ………!」
「イザナ…?」
「うそぉ、いま大将美味いって言った?」
「うん、言ったよ兄ちゃん」

 その思いつきが頭の中になかったわけではない。オレが蘭みたいに美味いと言ったら、なまえはどんな顔するのかって。でも、今それを実行するつもりはなかった。だから正直、己の思ってもない行動に自分自身も困惑していたが、オレ以外のヤツらの反応はどうだ。なまえは間抜けに口を開けながら短いスパンで何度も瞬きを繰り返し、鶴蝶は今にもどうしたんだと肩を揺らしてきそうな面持ちで心配するみたいに眉間に皺を寄せている。灰谷兄弟は二人揃ってなまえと同じくぽかんとあけた口を隠すように片手を当てて信じられないといった顔をしている。その向こうのモッチーは口に大量のナポリタンを詰め込んでいるせいでふがふがと意味を持たない声を発していた。
 …なんなんだ、テメーらは。オレは驚かれるようなことも、心配されるようなことも、口ン中にモノが入った状態で声をあげたくなるようなことを言った覚えもない。この和風ハンバーグとかいうやつ。ポン酢と大根おろしなんて合うのかよと訝しんで食ったけど、案外さっぱりしていて悪くねえと思った。ただそれを口にしただけだろ。なんでどいつもこいつも鳩が豆鉄砲を食ったような顔してやがんだ。特になまえ。オマエ、蘭に言われたときみたいな顔で笑えよ。なんで動揺してんだよ、意味わかんねえ。腹の中が食い物以外の、なにかぐるぐるとした得体の知れないもので満たされていくような感じがした。

「…なんだよ」
「あ、いや、ううんごめん、びっくりしちゃって。ありがとね!でも会計は負けないよ〜?」

 そう言うと上っ面だけの笑顔を貼り付けたなまえは逃げるみたいにオレに背を向けてそそくさとカウンターの奥、キッチンの中に入りやがった。

「なあ、大将が美味いなんて言うの、珍しーね」
「別にそんなことねーだろ」
「オレも、珍しいと思った。でもそれくらいなまえさんの作るメシは、」
「鶴蝶ぉ、それ以上無駄口叩くンじゃねーぞ」
「あ…わ、悪い」

 段々といまの状況を飲み込んでいくと、すっと体温が下がっていくのを感じた。予感が確信に変わる。やはりなまえは蘭に惚れているのだと。でも、だからなんだと言う話だ。オレには関係ない。別に、好きに乳繰りあえばいい。一瞬なくなったと思っていた胸の重苦しいような不快感が、さっきよりも増してそこにあるのがわかる。この不快な感覚を早く発散させたい。どうすればいいのかわからないが、兎に角誰も彼も手当たり次第ぶっ飛ばしていけば気分が晴れるかもしれない。隻我原…だっけか?丁度いい、オレを満足させられる相手とは到底思えないがせめてこの靄を晴らすくらいはしてくれよと願いながら、鶴蝶が何か言いたげに口をパクパクさせて狼狽えているのを尻目に皿の上に残った最後の一切れを箸で摘み、口に運ぶ。奥歯で挽肉を噛み砕こうとした刹那、誤って舌を噛んだ。じわりと鉄のような味が広がる。クソが。

「……まじぃ」

 テメェの血の味がするものなど美味いわけがない。思わずついそう口に出してしまったが、なまえは生憎未だキッチンの中だから聞かれることはないだろう。…それに聞かれたところで、別にオレには関係ないことか。こっちは金払ってんだから美味いと言おうが不味いと言おうがオレの勝手だ。何を聞かれてなくてよかったと、アイツのことを気にしてんだか。クソくだらねえ。

「なあ、イザナ、」

 鶴蝶が絞り出したオレの名前は随分情けない響きで、なんだかおかしい気持ちになる。そんな顔するなんて、オマエの目にはよっぽどいまのオレは様子がおかしく映ってるんだろうな、笑える。

「なんでもねえ。オレは先に行ってるぜ」
「あ、ああ…わかった」

 相変わらず喉元に言葉が引っかかったままの鶴蝶に支払いを任せて、先に一人で店を出る。皿を下げに来るであろうなまえの顔を見たら、なにかまた、自分の意にそぐわない余計なことを口にしてしまいそうな気がしたから。余計なことってなんだよ、と一人苦笑する。オレ自身もわからねえが、とにかくいまは馴染みの店の居心地が頗る悪かった。
 カランコロンと古めかしいベルの音を鳴らしたときに締めに両手を合わせるのを忘れたことを思い出したが、別にそんなこと、どうでもいいことじゃないか。何をオレは律儀にあの女の言うことを守ってんだ。アホらしい。




 隻我原のヤツらが天竺に刃向かうに足る理由。それは鉄腕アトムを用意出来たからなどではなく、その辺の小せえチームを統合したことによる数の増強だった。確かに指定された場所には元々聞いていた数の倍以上、しかも天竺から寝返ったヤツらまでいた。凪が何人抜けようと全く構わないが、オレを裏切るとは余程地獄を見たいらしい。

「オイオイ勝算があるから向こうについたんだよなァ、テメェらよぉ?」

 名前も顔も知らない裏切り者の前髪を引っ掴んで無理やり上体を起こさせると呻き声とともに歯をガチガチと鳴らして、女々しく涙まで流しながらこちらを見上げている。数揃えりゃウチに勝てると思って裏切ったんだろうが、そんなわけねーだろ。テメェらみたいな取るに足らないクソ虫を寄せ集めたところで何もひっくり返せやしねえってことがなんでわからないのか。こんな脳足りんがウチにいたことが恐ろしくてたまらない。まあ自分から消えてくれてありがてーわと思いながらその顔面に拳を何度もぶつける。
 嗚呼、ダメだ。一向に靄が晴れる気がしない。何度殴っても、蹴り飛ばしても、踏みつけても。こんな吹けば飛ぶような凪ばかりじゃこの体の中で渦巻いているモンは発散できるどころか、余計に苛立ちが募るばかりで逆効果だと思いながら、気を失ったらしい男から天竺のトップクを脱がすように近くにいたヤツに指示する。裏切り者がいつまでも袖通したままでいいわけがないからな。そうやってひん剥いたヤツらを積み上げるように重ねさせて、その上に立つ。辺りをぐるりと見回してみるがまだまだあちらさんの数はそこそこ残ってるし、大将はいまだ控えてらっしゃるらしい。こんな凪どもにいつまでかかってンだと呆れながらその場に腰を下ろして、ぐっと踵の辺りに力を込めると足元から呻き声がする様は少し愉快ではある。座り心地は最悪だが。

「なあ大将ぉ、聞きたいことあンだけど」

 声のする方に顔を向けると、金髪の頭を踏みつけながら蘭が振り返る。どうやらこの辺にいるヤツらは殆ど灰谷兄弟が片付けたらしかった。時折あがる叫び声はきっと竜胆がどこかしらのヤツの骨をブチ折った合図だろうなと思いながら蘭に再び視線を戻す。

「くだらねェことだったらコイツらと同じ目に遭わせるけど」

 右足を振りおろすように勢いよく踏みつけると丁度そこにあった男の手の甲に踵がめり込む感覚がした。小せえ骨の数本は折れただろうか。痛みで暴れて座れたもんじゃなくなったので男の小山から降りて、腹いせに蘭に踏みつけられている男の腹を思い切り蹴飛ばした。蘭は特に意に介さず「ひゃ〜イタソ〜」なんてほざきながら肩を竦めている。

「で?なんだよ」
「大将ってさ、なまえちゃんのことどー思ってんの?」
「…なまえ?」

 眉がピクリと動くのを感じた。なんでそこでアイツの名前が出るんだと思いながら、大声を上げてバカみたいに真っ向から突っ込んでくる男の米神に振りかぶった爪先を打ちつける。面白いぐらい吹っ飛んでいったのを見て蘭が「ホ〜ムラ〜ン」なんてゆるい声を上げた。

「別にどうも思ってねーよ、ただの喫茶店の店員だろ」
「うーん、まあそうなんだけどさ」
「つーかよ、アイツ、オマエに惚れてるっぽいぜ?」
「ええ?」

 目を丸くした蘭が間抜けな声を上げる。まるで初耳みたいなリアクションだ。なんだ、色恋には聡い方なのかと勝手に思ってたが、案外そうでもないのだろうか。あんな見るからにオマエに惚れてんのによ。なんとなく拍子抜けだな、と思いながら小さく笑うと蘭が首を捻る。

「なまえちゃんが、オレを、好きぃ…?」
「ああ。オマエに美味いって褒められたってずっと喜んでた」
「あーうん…まァ確かに喜んでたけどさ」
「いいじゃん、セフレにでもしときゃあオマエの気に入ったメシ、いつでもタダで食えンじゃねえの?」

 そう口に出すと、なにひとつとて面白いことはないはずなのに腹の底から笑いが込み上げて止まらなかった。これはオレの意思か、はたまた最近よくあるオレの体が勝手に吐き出したものか。オレがオレでなくなるような感覚、それにはいつもあの女が絡んでいる気がした。
 急に大声で笑い出したオレに傍にいた蘭も、周りのヤツらも皆一同動きを止めてこちらを見ている。嗚呼、不快だ、腹立たしい。オレを見るんじゃねえクソども。もうこんなつまんねえ場はとっとと終いにしよう。
 いまだ周りのヤツらは固まったままの中で歩みを進めているのは、自分以外の時が止まっているような感覚だった。向こうのアタマ…隻眼のツトムくん、だっけか?片目だけじゃカワイソーだからもう片方の目もお揃いにしてやるよ。

「オイ、後はオレがやる。テメェら全員引っ込んでろ」





 もうずっと昔のことを思い出していた。ガキの頃にもこうしてやたらガタイのデカいヤツらに囲まれて袋叩きにされたこと。

 まだ体も小さかったし武器をもってるヤツもいたからその時はなす術がなくただひたすらに暴力を一身に受けるしかなかった。辛うじて死こそ免れたものの全身ボロボロで、それでも足は動いたから視界も霞んでいた中なんとか歩いて、歩いて、歩いて、どこにいるかもわからないまま気を失って、そうして次に目を開けたときにオレはふかふかのベッドに横たわっていた。一瞬雲の上にでもいるのかと錯覚してここは天国かとも思うほどに呆けていたが、まさか。そんなわけはない。

 知らねえ天井。知らねえ部屋。知らねえにおい。目をまんまるにさせてオレを見下ろしている知らねえ女。「じいちゃん!起きた!生きてる!」と騒ぐ女にうるせえと拳骨を落とした知らねえジジイ。いますぐこの知らないものだらけの場所から逃げ出さなければと思うのに、うまく体が動かなくてベッドから転がり落ちそうになるのを何回も女に受け止められた。女に受け止められるなんてクソダセェ、こんな体じゃなければ思い切り突き飛ばしてやりたいところだったが、知らねえ体温にも関わらずそれに一瞬しがみついてしまいそうになったのも事実で、ダサくて情けない思いでいっぱいになりながら大人しく布団の中に押し戻されるしかなかった。
 女曰く、オレはコイツらの家のゴミ捨て場に頭から突っ込んで気絶していたんだという。最初にオレを見つけたという女は自分がどれくらい驚いたかというのを体をめいっぱい使って表現して見せた。拾われるような形で保護されてからどれくらいの期間か定かではないが、そうしてオレはアホみてえにずっと笑ってる女といかついジジイの世話になった。喉をやられたせいかうまく声が出せなくて名乗ることすら出来なくても、ヤツらは特に気にせず代わりにオレを勝手に「チビちゃん」と呼ぶことで支障なく過ごした。誰がチビだと心の中では非難轟々だったが、声を出そうとしても掠れた音しか出なくて、結局威嚇するみたいに唸ることしか出来なかったことは覚えている。それと、何度も病院に連れて行かれそうになっては、あんな辛気臭いところに行くのはまっぴらごめんだと暴れる度にジジイに気絶させられたことも。どうやって落とされてるかわからないが、意識が戻ったときには体中綺麗に処置されていた。あのジジイはどういうわけか手練だった。
 メシを運ぶのはあのアホ女の仕事だった。空腹じゃないと言えば嘘だったが得体の知れないジジイと女から施されるメシなど食えるかと固く口を閉じて布団に包まっていると、女がずうっとオレに話しかけて来て迷惑極まりなかった。うるせえと言う代わりに親指で首を切るジェスチャーをしてみたらムッとした顔をして「ちゃんと食べるまでここにいるから!」と椅子を持ってきてベッドサイドに居座るから、オレは根負けして、仕方なく、食べた。枕元でずっとぺちゃくちゃとどうでもいいことを延々やかましく喋られるのは耐えられそうにないし、仕方なく。
 いちいち何を食べたかまでは覚えてないが、多分、どれも美味かった。美味くて、あったかかった。あと、ココア。女がやたらにこにこしながら運んできたそれはオレの知ってるココアと同じようで全く違った。あんなに美味いのを飲んだのは初めてだった。甘くまろやかで、少し独特なにおいもしたが、胸のあたりまであったかくなるような気さえする…そんな柄にもない表現をしてしまうような、もはや得体の知れぬ飲み物だった。自分とそんな歳も変わらねーような女がどうしたらこんなうまいもんを作れるんだと恐ろしくなったほどだ。
 ホイップクリームの乗っかったそれを初めて口にしたとき、思わず美味いと口に出した。声が出るようになっていたことに自分でも驚いたし、女も同様に驚いていた。それがこの家に拾われて初めて発した言葉だった。そして、それを聞いた女はそれはもう目を爛々と輝かせて、それからというものアホみたいに毎日ココアを持ってくるようになった。流石に毎日は飽きるけど、毎度嬉しそうにオレが飲むところを見守るこの女を何故か無下に出来なかった。そのせいで気付いたときには腹の肉が少しつまめるようになっていたことはオレしか知らない。

 生傷やアザはまだ体中に残っていたが、ようやく自分の意思通りに少しずつ体が動くようになった頃、ぬくぬくとした布団の中で天井を見つめながら考えていた。このままここにいたら、オレがオレでなくなってしまうような、そんな一抹の不安があった。この場所が居心地いいのは確かだが、こんなぬるま湯に浸っていたら毒気もなにもかも、オレがオレであるためのなにか全てが抜かれてしまいそうだった。それが恐かった。
 だから、ジジイのメシを食い、女のココアを飲みながらくだらねえ話を聞き終えたあと。皆が寝静まったしんと静かな暗い夜に、オレは何も言わずに家を抜け出した。心が痛まないわけではなかった。オレに痛む心がまだあったのかよ、と自嘲しながらもこんな無償の愛みてえなもんを受け入れることが出来なかった。血も繋がってない、知り合いでもない、ゴミ同然のただのガキを、あんな風に迎えるやつらなどいるはずもないと。
 去り際、一度だけ振り返った。こんな童話に出て来そうな煉瓦造りの家だったのかと思いながら、まんまるい月が咎めるみたいにオレを見下ろしているような気がして慌てて暗がりに飛び込んで逃げ出したこと、決して忘れたわけではなかった。けれど、今の今まで記憶の奥底に沈めていたように思う。どうしてこのタイミングで思い出したのかはよくわからなかったが。

「死ねや黒川イザナァ!」
「オイ…人が感傷に浸ってるところ邪魔すんじゃねーよ」

 汚ねえ男の声に現実に引き戻される。そうだった、オレ、囲まれてたんだったけな。背後から迫ってくる気配に身を翻して受け流すと、やたら派手な髪のサイドに綺麗に剃り込みをいれた男が勢い余ってみっともなく地面に転がった。その拍子に手から離れたナイフが砂埃舞う中、カラカラと音を立てて地を滑っていく。オイオイ物騒だなァと思いながら辺りを見回す。もうろくに動けるのはコイツだけらしい。倒れてる中にはウチのトップクを着てるヤツがいる。そういえばあそこに転がってるヤツがオレをここに連れて来たんだったな。モッチーくんが話があるらしいです、だなんて見え見えの嘘をエサに、リンチと言ったらお決まりの廃工場にオレを案内したんだった。どう考えても罠なのはわかっていたが面倒くせえから大人しく付き合ってやった。この前の隻我原ン時といい、最近ウチにこういうゴミが混じりこんでて困ったもんだ、どっかで洗い出さねーといけないかもな。
 手間かけさせんじゃねェよと肩を落としながら倒れたままの男に馬乗りになり、脂ぎった汚ねえ顔に手を伸ばした。オイオイ、前歯のど真ん中一本なくなってカワイイことになってんじゃん。生え変わりには随分遅ェんじゃねえの?

「無様だなァオイ」
「ひ…ッ」

 この前潰した“隻眼のツトム”の兄貴分、って言ってたっけか?ご丁寧にお礼参りに来たらしいが、返り討ちにされちゃあ面目立たねえな。しかもこっちは1人だぜ?マジ勘弁してくれよ、情けなくてオレが泣けてくる。まあ、美しき兄弟愛?師弟愛?まあなんでもいいが、手土産に可愛い弟分とお揃いのかわいいお目目にしてやるよと両手の親指の先にぐっと力を込めた。獣みてえな悲鳴を聞きながら赤く汚れた指をのたうち回る男の服で拭き取る。
 …バカみてえに明るい笑い声を聞くより、汚ねえ悲鳴を聞く方がオレには合ってる。オレはこれでいい。この生き方がオレだろ。



「あー……腹減った」

 廃工場を後にして、ふらふらと行く当てもなく歩く。モッチーにオマエんとこの下っ端に裏切り者がまだいたから他にいねえか調べとけと連絡をしていると、ぐるると腹の虫が大きな声を上げた。そういや昨日の夜からなんも食ってねえなと腹に手を当てると、催促するみたいに一際大きな音を鳴らしやがるから食べ盛りのガキかよと笑いそうになる。まあ一応オレだって大人数と元気に遊んできたわけだしそりゃ腹も減るか。
 通り道にコンビニがあったのでそこに立ち寄り、弁当コーナーの前に立つ。丁度夕方の品出しが終わった後なのか棚にはぎっしりと弁当が並んでいたが、不思議とどれも食指が動かなかった。
 結局なにも買わずに店を出たオレの行く先は、なんとなく決まっていた。別にあの店じゃなくてもよかったけど、いまの手持ちでこの生意気な腹の虫を黙らせるにはあそこがうってつけだと思っただけで、それ以外に特別な理由はない。誰に言うわけでもなく、言い訳がましい理由を心の中で呟いていた。



「……」

 煉瓦で覆われた外壁に蔦が絡まった店を眺めたまま、そこから足を動かせずにいた。どんな顔して、なんて声を掛ければいいのか。そんなくだらねえ気掛かりが頭に浮かんでは消える。なんでメシ食いにきただけなのにこんなに後ろめたい気持ちになるのかわからない。別になまえになにかしたわけでもないし、第一どうしてオレはこんなになまえのことを気にして行動してるのかもわからない。あんな、ただの店員の女のことを、なんでいちいち考えてんだ。
 …メシを食う気分じゃなくなった。萎えた。帰る。
空腹以上の何かを抱えている気がして、店を通り過ぎて歩き出す。腹が減ってる割に心なしかいつもより体が重てえなと若干苛つきにも似たなにかを感じながら歩みを進めていると、見覚えのある間抜け顔が前方から歩いてくるのが見えた。最悪だ。その場から急いで離れたいと、アイツの視界に入りたくないと、咄嗟にそう思って踵を返そうとしたのに、雑踏の中「あ!」と声が上がったのが聞こえた。聞き慣れた声だった。

「イザナくん!」
「チッ」

 完全に見つかっていた。道行く人を避けながらパンパンに詰まった業務用スーパーの袋を両手に携えたなまえが駆け寄ってくる。見つかりはしたがその気になれば簡単にこの場から逃げおおせたはずだ。なのに、足が動かなかった。なにがそんなに楽しいのか意味もわからずアホみたいににこにこと笑いながら駆けてくるなまえをじっと見つめることしかできなかった。「なんか久しぶりな気がするね」と言うなまえの声にはっと我に返って、慌てて適当な返事をする。

「最近忙しかったの?」
「…なんで?」
「うーん、なんかみんな最近来るの減った気がするから」
「ハッ、売り上げでも落ちたかよ?」
「もう!そういうのはいいんです!」

 わざとらしく拗ねた風に口を尖らせたなまえが、チラチラと窺うようにこちらを見上げてくる。その口は、何か言おうとして開いては閉じ、また開いては閉じるを何度もバカみたいに繰り返している。言いたいことがあるならさっさと言えばいいのにこの女はなにをまごついているのだろうかとその様子を黙ったまま見ていると、観念したように目を伏せてぽそぽそと呟いた。

「今日は…うちの店、寄る?」
「……」

 寄ろうとしてたけど、帰ろうとしてた。オマエのメシが食いたいと思った気がしたけど、オマエにはなんとなく会いたくなかったから。心の中ではそう答えていたが実際には声にすることはなく、かといってなまえの問いかけに他の回答を返すことも出来なかった。その沈黙に、なまえは耐えられなかったらしい。勢いよく首を左右に振って、慌てた声を出す。

「あ、忙しかったら別にいいの!全然!ごめんね、」
「………いく」
「え?」
「行く…オマエがうっせえから」
「え…あ、うん!やった!いつもの倍美味しくするから!」

 わからない。なんでそんな顔をするのか。オレが店に行くことが、そんな顔で笑うほどに嬉しいのか。そんなに喜ぶほど客が来ねえのか?蘭の野郎、行ってやりゃあいいのによ。それとも、他に別の理由があるのだろうか。いくら考えても答えの出ないことがぐるぐると頭の中を駆け巡る。そんなオレの苦悩を知る由もないなまえは「トップク着てるってことは、これから喧嘩しに…ん?あ、いや、もうしてきたな〜?」なんて呑気なことを言いながら肘のあたりにビニール袋を引っ掛けたまま、オレの腕のあたりの汚れを払う。砂がパラパラと舞って、やっぱり!となまえがしたり顔で笑う。

「いちいちうっせーよ。さっさとそれ貸せ」
「え?」
「それ、腕の」
「それ…ってあ、これ?持ってくれるの?」
「早くしろ」
「ええ〜大丈夫だよ。これくらい自分で、」
「しつけえ」

 焦ったくなってなまえの両手から袋を半ば無理やり奪った。なまえが目をまるくさせてオレを見上げる。何か発そうと口を開いたのが見えたけどそれを無視してとっとと歩き出すと、なまえが小走りで隣に並んできて「持ってくれてありがとう」と顔を綻ばせる。そのときに、なんとも言えない充足感を得た気がした。これは一体なんなんだ。わけわかんねえ。




「イザナくん、何食べる?」
「なんでもいい、オマエに任せる」
「飲食店きてなんでもいいなんてアリ〜?」

 買ってきた食材を冷蔵庫やらなんやらに仕舞いながらなまえが笑う。「じゃあ私のおまかせでいいのね?」と振り返るので黙って頷くと「イザナくんのためにスペシャルメニューにするね!」と腕を捲り上げて、ありもしない力こぶを作って見せた。サービスだと言って出されたコーラに口をつけながら、することもないから、カウンターの中を忙しなく動くなまえの姿を目で追う。

「さっきは持ってくれてありがとね、実はちょっと買い過ぎてたから助かっちゃった」
「別に」
「みんなやさしいからほんとに不良なのって疑っちゃうよ」
「…みんな?」
「前に蘭くんも手伝ってくれたんだよ〜竜胆くんが手怪我してたから、渋々って感じだったけどね」

 すっと血の気が引いていく感じがした。みんな優しいよねなんて言ってるが、結局オレを引き合いにして蘭の話したいだけじゃねえの?そんな話聞きたくねえ。全身が粟立つのを感じる。また、蘭。オマエの口からその名前を聞きたくない。その声でアイツの名前を聞きたくない。ぐるぐると、皮膚の下でどす黒い感情が渦巻く。ああ、きもちわるい。いやだ、黙れ、何も言うな。そんな顔で笑うな。

「あ、そうだ!来週の水曜にまたガパオライスしようと思ってて、よかったらイザナく、」
「ハッ、愛しの蘭クンのリクエストってか?」
「え?」
「……あー…どーでもいいわ」
「…イザナくん?」
「どうでもいいつってんだよ」
「あ……」
「オレがテメェのメシのためにわざわざ来ると思ってんのかよ?調子乗んじゃねえぞ」
「ええっと…うん、そうだよね。…ごめんね」
「テメェのアホ面見てるとイライラすんだよ」

 一瞬泣きそうな顔をしたなまえがぐっと唇を噛み締めた後、もう一度「ごめんね」と言って無理やり笑ったのが死ぬほど不愉快で、何故か鼻の奥がつんと痛んだ。メチャクチャなこと言われてるのになに謝ってんだよクソが、と思いながら強く奥歯を噛み締める。

「オイクソガキ、いい加減にしろよ」

 恐らくオレたちのやりとりを聞いてたのであろうジジイがキッチンの中から今までに見たことのない形相で出てくる。あークソめんどくせえ。

「……ウゼェ」

 体が熱い。指先が針で刺されたみたいにチクチクと痛み、頭がガンガンと内側からハンマーで殴られているようだった。見えない誰かの手に首を絞められているみたいに苦しくて、息が浅くなる。臓器が全部ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられているみたいに気持ちが悪くて、自分の手を突っ込んで不快に脈打つ心臓をひき抜いてしまいたいくらいだった。
 前にも、この感覚を味わったことがある。あれは、真一郎が、万次郎のことを――。

 こんなところにはいられないと席を立とうとした刹那、ジジイの武骨な手がオレの腕を掴んだ。それを振り払おうとした反動で肘がコーラの瓶にぶつかり、中に残っていた茶色い液体がカウンターテーブルに広がって、気泡が弾けた。なまえが驚いたように声を上げる。

「あっ…!」
「……クソが」

 あんな顔、見たことがなかった。いつもアホみたいにヘラヘラ笑ってる女の、あんな悲しそうな顔。オレが、そうさせた。人間の悲痛な顔はもう何度も見てきたし、これまでに罪悪感など一度たりとて抱いたことはない。なのに、どうして胸がこんなに痛い。クソ、もう二度と、会いたくない。顔も見たくない、声も聞きたくない。なまえの存在を己の中から消し去りたいと思うのに、オレの名前を呼ぶなまえの声が脳裏にこびりついて離れない。
 乱暴にドアを押して店の外に出ると、いつの間にか大粒の雨が地面を叩きつけていた。雨でもなんでもいい。頼むからこの訳のわからないクソみてえな感情をオレの中から洗いながしてくれと願った。

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