そろそろ新しいメニューでも追加してみたらどうだ、と言ってきたのはじいちゃんなりの気遣いだったんだと思う。いつも通りにうまく振る舞っていたつもりだったけど、バレバレだったんだろうなと苦笑しながらその提案に素直に頷いた。

 ランチも終わって静かになった店内でひとりカウンターに座って、いままでのきまぐれメニューの中でそこそこ好評で且つコスト的に無理のないものってなんだろうって考えながら手元のノートにメモを取っていく。
 人気かあ、う〜ん。直接声かけてもらったのは加藤のおばさんとそのお孫さんに好評だった野菜ドリアと、田所のおっちゃんにうちの息子の嫁に来い!とまで言わせた親子丼、それから灰谷兄弟(特に兄)に支援されたガパオライス…あの辺りかなあ。個人的には和風ハンバーグが気に入ってて、かつ現状メニューにスタンダードなハンバーグがあるから、和風ハンバーグだとそこまで大幅に仕入れのネタを変えなくて済むしいいと思ってるんだけど。なにより…イザナくんが美味しいと言ってくれたメニューだし。あのときは嬉しさのあまり、慌てて裏に逃げてくぅ〜!なんてガッツポーズしてしまくらいだった。少し気持ちを落ち着かせてから、もう少し色々感想を聞いちゃおなんて浮き足立ってホールに戻ったらイザナくんいなくなっちゃってたのが残念だったけど。

 だからあの日も、本当は和風ハンバーグをもう一回食べてもらおうと思ってた。また美味いって言ってくれるかな、なんて思って。それで今度こそはちゃんと感想聞かせてもらおうって。そんな私の卑しいきもちが神さまにバレてしまったのか、提供するどころか怒らせて帰ってしまう悲惨な結果となってしまった。

 イザナくんに怒られてからもう1週間ほど経つけれど…情けない話、いまだにどうしてあんなにイザナくんを怒らせてしまったのかわかっていない。知らないうちになんか癇に障ることを言ってしまったに違いないけど、どの発言が引き金になったのか見当がつかない。最低だ。
 ただ、私にもイザナくんのことで引っかかってることがある。“愛しの蘭くん“と言われたこと。確かにガパオライスは蘭くんが熱心にリクエストしてくれていたメニューだったけど、どちらかというと私は前回イザナくんに食べてもらえなかったから今度こそは、って気持ちでまたやろうと思っていた。だけど、あんな口ぶりじゃまるで私が蘭くんのこと好きだから彼の要求に応えたみたいだ。イザナくん、私が蘭くんに好意を寄せてるとでも思ってるのかな……いや、そんなことないか、あるわけないな。こういう考えに至るところがイザナくんに言われた通り、調子に乗ってる証拠なんだ、きっと。仲のいい常連さんが出来たと、舞い上がっていたのだ。うぬぼれるなと手のひらに指で文字を書いて飲み込む。うん、自惚れるな。
 ペンも進まず考えれば考えるほど項垂れていく頭をそのままにしていると、からんころんと乾いた音がした。慌てて顔をあげる。

「あ、いらっしゃいませ…ってあれ、鶴蝶くん」
「ちはっす……」

 鶴蝶くんが神妙な面持ちで店の入り口に立っていた。私と目が合うなりしっかりと腰を曲げて挨拶をしてくる。一人で来るなんて珍しいなと思ったけどすぐに、二人で来るわけないかと心の中で苦笑しながら、こんにちはと挨拶を返した。あれ以来イザナくんが来ることはもちろんないし、多分、この先ももうずっと彼はここには来ないんだろうと思う。来店を告げるベルが鳴るたびに心臓を跳ねさせてしまうの、いい加減やめないといけないな。

「どうしたの?あ、テイクアウトかな?」
「あ、いや、違くて……なまえさん、あの、お願いがあるんですけど」
「お願い?」

 その場から動こうとしない鶴蝶くんをちょいちょいと手招きして、自分の座ってるカウンターの隣の席に誘導した。その間もずうっと、見たこともない曇った表情をしていてどうしたんだと心配になったけれど、その理由は彼の“お願い“の内容を聞いて知ることとなる。

「イザナくんが風邪!」
「先週くらいから体調悪そうではあったんですけど、今日起きたらすげぇ体熱くって、でもオレ、看病とかしたことなくて…病院には死んでも行きたくねえって言うし、どうしたらいいか」
「まじかぁ…」
「迷惑だってわかってるんすけど、イザナのことお願いできるの、なまえさんしかいなくて」

 口早にそう言ったかと思うと座ったばかりのイスからすっくと立ち上がり、そして深々と頭を下げるので私は慌てて同じように立ち上がって頭なんか下げなくていいよ!と下から両手で鶴蝶くんの頭を押し上げた。少しだけ顔を赤くさせて困惑してるのを見ると申し訳ないことをしてしまったかもしれないなと思ったけど、私が思うにたぶん鶴蝶くん頑固だからちょっと力技でいかないとずっと頭下げっぱなしだったと思うし…ごめんね、鶴蝶くん。

「私も心配だし、看病するのはもちろん構わないんだけど…えっと、その、イザナくんはたぶん、私にされるのイヤだと思うよ」
「いや、そんなことないです」
「でも私…その、色々あってイザナくんのこと怒らせちゃって…」
「詳しくは知らないですけど、何かあったのは知ってます。その上で、なまえさんにしか頼めないって思ってます」
「ええ〜…?」

 鶴蝶くんの目は本気だった。本気で私にしか頼めないって、きっとそう思ってる。どうしてそう思うのか私にはちっともわからなかったけど、困ったひとは誰でも助けろってじいちゃんの教えをこれまでも守ってきたつもりだし、頭下げてまでお願いしてる鶴蝶くんのことを無碍に出来るわけもないし、…なによりイザナくんのこと、心配だし。もしかしたらこの前のことを謝れる最初で最後のチャンスかもしれないし。
 わかった、と頷くと鶴蝶くんは唇をきゅっと引き結んだあと、また深々頭を下げようとするのでまた両手で無理やり頭をあげさせなければならなかった。律儀な男だ!

「じいちゃあん!ちょっと出掛けるから店よろしくう!」
「あ?どこ行くんだ」
「看病してくる」
「ボーイフレンドか?」
「そんなんいないの知ってるでしょ。イザナくんのだよ、風邪引いてるんだって」
「…あ?あのクソガキ?」

 コーヒーカップを拭いていた手を止めてカウンター越しに身を乗り出してくる。あの一件からじいちゃんはイザナくんにカンカンに怒っていて、いっぺんしばき倒してやりたいと常々言っていた。別に私は大丈夫だと言っても聞く耳を持たず、「もし今度呑気な顔して店来やがったらつまみだしてやる」と息巻くほどだった。

「大丈夫だよ、鶴蝶くんもいるし。いざとなったらじいちゃん仕込みの護衛術もあるし!」
「…本当に大丈夫か?」
「うん、大丈夫。死んでも病院には行きたくないって言ってるみたいだしさ」
「ハンッ、成長しねえな。…まあ、気ィつけろよ」
「我が家直伝のさつまいも粥食らわせてくる!」
「おう。熱々のかましてやれ」

 急いで出かける準備をしている最中、鶴蝶くんがじいちゃんに「イザナには絶対変な真似はさせません」と言っているのが聞こえた。それに「うちの可愛い孫に手ェ出しやがったらオレがオマエんとこのチーム潰してやるからな」と釘を刺しているのも。たぶん2人とも本気なんだろうけど、なんだかそのやりとりが面白くて私はこっそり笑ってしまった。



 鶴蝶くんのバイクに少しどきどきしながら乗せてもらい、おうちに行く前にスーパーに立ち寄った。包丁だとかお鍋だとかの調理器具は普段ほとんど出番はないものの最低限は揃ってるというので、食材と風邪薬、それから家にないらしい体温計も買って、あとは冷えピタとか対風邪っぴき用アイテムも適当にカゴに放りこんだ。一応コーラも入れておこう。
 2人が一緒に住んでいるというアパートに着くと、すぐに鶴蝶くんは外にいるからなにかあったら呼んでくださいと私をひとり残して出て行ってしまった。鶴蝶くんの家なんだからそこまでしなくてもいいのにと言っても、頑なに譲らなかった。それから「イザナにもし万が一何かされたらすぐに声をあげてください」とも。大丈夫だよ、イザナくん優しいから。そう言うと一瞬面食らったような顔をしてから、はいと言って笑った。今まで見た中で一番優しい顔をしていた。

 外はまだ陽が輝いている時間だったけれど、部屋の中はカーテンが締め切られているせいで薄暗かった。必要最低限のものしか置かれていない部屋の中の窓際に置かれている簡素なベッドの上。そこのふとんがこんもりとしていて静かに上下しているのが、なんとなくわかる。頭まで布団をかぶっているようで、端っこから少しだけ銀色の髪の毛がはみ出ていた。寝ているのかな。起こしてしまわないよう音を立てないように気をつけながら、買ってきたものを袋からそっと取り出す。
 失礼しまあすと冷蔵庫を開けるとお腹に溜まりそうな食料はなく、ミネラルウォーターと飲みかけの麦茶、それと封の開いた10本パックのヤクルトが入っていた。これを仲良く2人で飲んでるのかと思うとかわいいな。なんだかほっこりした気分になりながらポカリやらゼリーやらを仕舞ったりしていると、掠れた声が聞こえた気がして、動きを止める。どくんどくんと心臓が跳ねる音がいつもより大きく聞こえる気がした。

「…かくちょう…?」
「あ……えっと…お邪魔してます、なまえです…」
「は…?」

 そうっと立ち上がって声のした方に近づくと、布団から顔が半分覗いていた。やはり寝ていたみたいで、こちらに顔を向けながら開ききっていない目を擦っている。寝起きなのと恐らくこの薄暗さのせいとで、初めは私だと気付いていないみたいだったけど、段々と脳が覚醒しこの暗さに慣れて自分の目の前に誰がいるのか理解していく様は、彼の長いまつげに縁取られた目が大きく見開かれていくことから容易に読み取れた。
 ようやく同じ空間にいるのが私だと認識したイザナくんは、勢いよく起き上がってベッドの隅に逃げるように体を寄せて私を睨みつけている。静かだった部屋にシーツの擦れる音とギシギシとベッドが軋む音が響く中、ピアスつけてないの新鮮だななんて考えていた。ちなみに風邪っぴきにはあるまじき、上半身に何も着ていない状態でお過ごしになられていらしたらしい。ベッド下に脱ぎ捨てられたであろうシャツが拉げていた。

「テメェ…なんで…」
「イザナくんが風邪ひいたって聞いて、看病しにきました」
「は?勝手なことしてんじゃねーよ……つうか顔、見たくねえんだけど」
「うん…そうだよね、ごめんね。でも今日だけ我慢して」
 
 イザナくんの言葉に胸がつきんと痛んだけれど、それしきのことで私がここに何をしに来たかを見失ってはいけない。とりあえず目のやり場に困るからなにか着てもらわないととあたりを見回して、無作法なことだと重々承知の上で、ハンガーにかかっていた適当なシャツを引っ掴んでそれを今にも唸り出しそうなイザナくんの頭に被せた。「これ鶴蝶のなんだけど」と文句を言われたけど、知らない。服着てないイザナくんが悪いもん。どうやら汗を吸った服が気持ち悪くて脱いだまま着替えることなく寝ていたみたいだ。汗かいてるってことは快方に向かってるんだろうからいいことだけども、だからといってそのまま半裸なのはいかがなもんか。普段からこうなのかな。
 うまいことシャツを着せることはできたものの、いまだに起き上がったままガンを飛ばしているイザナくんにもう一度横になってもらうべく手を伸ばそうとすると、もうこれ以上どうやったって距離を広げられないというのに、どうにかして私の手から逃げようとぎゅうぎゅうと狭い端っこに居座る。寝起きで髪が少しボサボサなのもあって、野良猫が毛を逆立てて威嚇しているみたいだと、イザナくんが聞いたら容赦ない猫パンチ…ではなくガチヤンキーパンチが飛んできてもおかしくないことを考えながら、このままじゃ埒があかなさそうなので先に熱を測ってもらおうと買ってきた体温計の封を開けてそれを差し出した。イザナくんは私の顔と手元の体温計を交互に見たあと「これ測ったらかえれ」とギロリとより鋭く睨んできたけれど、いくら怖い顔で睨まれようとも私としては少なくともご飯食べて薬飲んでもらうまで見届けないと帰れない。素直にそう伝えるとまた舌打ちをして、乱暴に私の手からそれを奪って脇の下に挟んだ。案外素直に従ってくれたことに、ちょっとだけ拍子抜けする。よっぽど私に早く帰ってほしいんだろうな、そりゃそうだよな。
 少しだけ暗い気持ちになりながら脱ぎ捨てられていたシャツを拾い上げて洗面所のカゴに放り込んでいる間に、遠くの方で電子音が鳴るのが聞こえた。いまどきの体温計ってこんなにすぐ測れるのかと驚きつつ、イザナくんのもとに戻って受け取った体温計のディスプレイを確認する。

「37.8か…まだ結構高いね」
「…もういいだろ、かえれ」
「ごはんと薬がまだです」
「うぜぇ……ならさっさとしろ」
「はいはい。ご飯できるまで大人しく寝ててください」

 ベッドの隅っこにいるイザナくんに横になるようにぱんぱんとベッドを軽く叩くともう何度目かわからない舌打ちをしつつも、今度は大人しくそこにころりと寝転んでくれたので、その体に捲れていた布団を肩まですっぽりと被せた。
 憎まれ口叩いてるけど、やっぱりしんどいんだろう。私のせいで余計な気疲れと体力使わせちゃって申し訳ない気持ちになりながら、ちょっとだけ待っててねと小さい子にするみたいにおでこの辺りを撫でてみる。体温計で測ったのよりもうすこし熱い気がするなあと思っているとイザナくんに名前を呼ばれて、慌ててぱっと手を離した。調子に乗るなって怒られたばかりなのに、やっちゃった。

「わ、ご、ごめ、」
「それ………もうすこし」
「え、それ?」
「デコの…手…」

 つめてえから、と言いながらゆっくり目を閉じるのを見て、さっき手洗ったばかりだから私の手が冷たいのが気持ちよかったんだなと気付いた。拒否されるのではなく求められたような気がして、そんな呑気なこと思ってる場合じゃないのについ嬉しくなってしまう。私の手がぬるくなるまではこうしてあげよう。それでぬるくなったら冷えピタ貼ってあげるからね。
 イザナくんが苦しんでいる側でこんな浮ついた気持ちを抱いてしまったことに後ろめたさを感じながら、再びイザナくんの額にそっと手を置いた。手のひらに感じる熱は確かに彼のものなはずだけれど、果たして本当に彼のだけだろうか。倍のはやさで私の手、ぬるくなってしまうかもしれない。 
 疚しい気持ちを抱える一方で、イザナくんは「まだ…」とだけ呟いてからまた眠りに就いたようだった。まだ手を置いておけのまだなのか、それとも他の言葉に繋がるまだなのかわからないけど、イザナくんが眠るための助けになれてたならいいな。初めて見たはずのイザナくんの寝顔はとても暴走族の総長だとは思えないほどあどけなくて、そして懐かしい気持ちにもなって、ずうっと表に出さないように我慢していたのについに誰の目もなくなった薄暗い部屋の中で、ひとり顔を綻ばせてしまった。私、本当に、ダメだな。こんなんじゃまた怒られちゃう。




「ごはん、食べれる?さつまいものお粥作ったんだけど」
「さつまいも…」
「ちょっとでも食べたほうがいいと思って。さつまいも、きらい?」
「べつに…」

 1時間くらい経ったところでイザナくんがトイレのために起きてきたので、そこを見計らって声をかけた。トイレから出てきたイザナくんを待ち受けていた私をまだいんのかよとげんなりした顔で見下ろしてくるから、だからぁ!と口を開こうとするとそれ以上は聞きたくないといわんばかりに手をぴらぴらと振ってベッドに戻っていったので、私も大人しく口を噤んでキッチンに戻る。少しだけ温め直してからお茶碗にさつまいも粥をよそって、ポカリの入ったコップとお盆に載せたそれを枕元まで運んだ。

「はい、どうぞ」
「……別に、腹へってない」
「ちょっとくらい食べないと」
「いらねえ」
「でも食べてくれないと私帰らないよ。はやく帰ってほしいんでしょ?」
「…チッ、しつけえんだよてめ、」

 今日何度目かわからない私たちの押し問答を制したのは、ぐぎゅるるるというド派手な音だった。確かに私もすこしお腹は空いていたけど、こんなに豪快な音を鳴らすほどじゃない。じゃあもしかして、と私と同じようにすっかり大人しくなったイザナくんをそうっと伺い見ると、ものすごくバツの悪そうな顔をして目を伏せていた。心なしか、少し顔に赤みがかっている気もしたけど、風邪のせいだよねと誰に弁明するわけでもないのにそう決めつけて、見なかったふりをした。

「えっと……おかわりあるからね」
「うぜぇ」

 じゃあ向こうにいるから食べ終わったら声かけてねと言って立ち上がろうとすると、オイ、と掠れた声が引き止める。でも、なあにと返した言葉はイザナくんが盛大に咳き込んだ音で掻き消されてしまった。両手で口を抑えて蹲るみたいに体を丸めて咽せるイザナくんの背を、なんの意味もないかもしれないけどはやく治まれ、と優しくさする。痰の絡むような刺々しいそれは聞いてる私まで苦しくなるようだった。
 暫くして咳が落ち着くとイザナくんこちらをちらりと一瞥してから、何も言わずに肩まですっぽりとふとんを引き上げてミノムシのような状態になった。そのままじゃごはん食べれないじゃん、と思っても黙ったままじいとこちらを見上げるだけで、腕が生えてきそうな気配は一切見られない。まるでその姿は巣で親鳥が餌を運ぶのを待っている雛鳥のような…それはその…そう言うことなんでしょうか。

「えっと…食べさせようか?」
「……フン」

 やっとわかったのかよと言いたげに鼻を鳴らされて、なんだか心がむずむずする。私は別に構わない。ただ、イザナくんはそれでいいのかと問いたいのが本心だった。けれどそれは悪手だと悩むまでもなくわかっていたので、何も言うまい。甘えてくれているみたいで私としてはその、嬉しいですし。
 さすがに蓮華はなかったので、使い捨てのプラスチックのスプーンの先に少しだけ粥をのせて口元まで持っていくと案外素直にあ、と口が開いた。本当に餌付けしてる気分だ。なんだか胸のあたりがくすぐったい。

「どう?口に合うかな?」
「……」
「はいはい、運ばせていただきます」

 美味いも不味いもうぜぇも帰れもなんの感想も返ってこなかったけれど、その代わりにまた口が開いたのでどうやら食べられなくはないらしい。まあ今はとにかく胃になにかいれてもらえればそれでいいので無心でひたすらイザナくんの口にさつまいも粥を運んだ。さつまいもの甘みとしお味が丁度いい塩梅に出来てると思うんだけどなあ。うっかり味見で半分くらい食べちゃいそうだったくらいだ。

「これ、私が風邪引くとじいちゃんがいつも作ってくれてたんだ。イザナくんはそういうの、ない?」
「……ない。オレ、家族いないから」
「え、そうなの?」
「ん。ほとんど施設かネンショーだったし」
「そっかあ。でも風邪引いたときにしか食べないものとかなかった?私、ポカリは風邪引いたときにしか飲んだことないよ」
「ない。風邪引いたからって普段となんも変わらねえし」
「そっかぁ…」

 余計なこと言ってないでさっさと食わせろ、とばかりに無言で口を開けるから私はそれ以上はなにも言わず、黙々と粥運び係を続けた。
 イザナくんに家族がいないということをはっきり聞いたことはなかったけど、鶴蝶くんと出会ったのが施設だったことは前に聞いたことがあった。少年院に入っていたことも、そこでモッチーくんや灰谷ズ、獅音くんと出会ったっていうのも、灰谷ズにはだいぶはぐらかされたけど、たぶん本当なんだと思う。少しでもイザナくんの昔のことが聞けたらいいなって気持ちで尋ねてみたけど、私の興味だけで気軽に触れていい話じゃなかったかもしれない。反省。

「はい、これで最後」
「ん」
「完食!お粗末さまでした」

 イザナくんは首を小さくぺこりと下げる。多分、ご馳走さまのノーハンド版だ。私も同じように食べてくれてありがとうの気持ちを込めてぺこりと首を下げた。なにやってんだと小馬鹿にするみたいに鼻で笑われたけどどうということはない。今の私は、綺麗に空になったお茶碗を見てるだけで最高にいい気分だ。お腹が空いてただけかもしれないけど、完食してくれてよかったと自然と口角が上がる。その様子をイザナくんに見つめられていたのには気付いていなかった。

「………なあ」
「あ、おかわり?まだもう少しあるよ」
「ちげぇ」
「うん?」
「……」
「え…な、なに?」
「………うまかった」
「え、ほんと?!よかった!」

 まさか一番嬉しい言葉を貰えるとは思っていなかったからつい大きい声を出してしまって、慌てて手で口を覆った。うるせえって怒られちゃう、と思いながらそっとイザナくんの様子を伺ってみると、元々ぱっちりとした目をうんと大きく見開いて固まっていた。あれ、私いまそんな顔させるような変なこと言っちゃったかな。それかまた怒らせてしまった?その表情からうまく感情を読み取れなくてひとりそわそわしていると小さな声が聞こえてくる。

「…それ」
「それ?」
「それ…その顔…」
「へ?」
「オレは…それが、見たくて…」
「えっ」

 イザナくんはそれきり、何も言わなくなってしまった。どういう意味?顔が見たいってどういうこと?どうしてそんなに驚いてるの?聞きたいことはたくさんあったけれど、それを口にする勇気はなくて、薬を持ってくることを口実に逃げるように空いた皿を台所に持ち帰る。お茶碗に水を溜めながら、変に脈打つ胸のあたりをぎゅっと掴んだ。なんか、イザナくんの様子がさっきとは違う気がした。風邪のせいもあるかと思うけど、それ以外にも、なにか。
 ごはんは食べてくれたのだし、あとは薬さえ飲んでくれればイザナくんのお望み通り私は帰らないといけない。たぶん、はやくそうした方がいい。薬飲んでもらって、この前のことを謝って、そのあとは鶴蝶くんにお願いしよう。というかそもそもこれくらいのことなら鶴蝶くんにもできるはずなのに、わざわざどうして私なんかにお願いしたんだろう。ぐるぐるといろんなことが頭の中を巡って仕方がない。それらを打ち消すように小さく頭を振ってから、ミネラルウォーターのペットボトルと薬を持ってイザナくんの元に戻る。

「はい、お薬。手だして」
「………」

 大人しく差し出してくれた手の上にラムネみたいな薬を3錠のせるとすかさず口の中に放り込むので慌ててペットボトルのフタを開けて渡した。ごくりと喉を鳴らしながら薬と一緒に半分くらいまで一気に水を飲んだイザナくんは、ペットボトルから口を離したあともずっと黙ったままで、少し戸惑う。なんて声をかけたらいいかと迷っていると静かな部屋に、彼の声がぽつりと響く。もう何度も呼ばれ慣れたはずの自分の名前なのに、イザナくんに呼ばれただけで心臓がうるさくて仕方ない。久しぶりだからかな、だけどそれだけでこんなになるだろうか。

「…バカじゃねえの」
「え?」
「看病なんてしてなんのつもりだよ?恩でも着せたつもりか?」
「……」
「こんなことしてまで店に来てほしいとか?そんなに経営苦しいのかよ。飲食業ってのも大変なもんだなァ」
「…イザナくん」

 私を嘲るみたいな言葉を並べてるくせに、吐き出せば吐き出すほど、イザナくん自身が傷ついていっているみたいだと、なんとなくそう感じた。俯く彼の表情は銀のカーテンが隠してしまっていてよく見えないけれど、ぽとりと落とされた「なんでオレなんかに、」という彼の言葉は酷く苦しげな響きを孕んでいた。なんでって…なんでって、そんなの。

「私が勝手に、そうしたいって思うからしてるだけだよ」
「…家族でも恋人でもないなんでもない、赤の他人にか?」
「そう」
「どーだか。なんか魂胆が、」
「ないってば!」
「は?」
「恩なんて感じなくていいし、来たくないなら店にだって来なくていい。そんなためにここに来たんじゃない。イザナくんが心配だって、ただそれだけでした余計なお世話ですみませんでした!」

 こんなこと言ったらうぜぇと言われることも、いかに私のことを鬱陶しがっているかもよぉくわかっていたけど、止められなかった。情けなく声が震えてしまいながらも一息でそう伝える。イザナくんも流石に捲し立てられて驚いたのか、大きく見開かれた瞳をそのままにこちらを見ている。視線を逸らすことなく見つめ返していると、揺れるアメジストの中に私の影が映っているのが見えた。
 永遠のようにも刹那のようにも感じられた沈黙は、はは、と力なく笑う彼の声で幕を閉じる。片手でその双眸を覆い隠したかと思うと呆れたような溜め息を吐いた。

「…風邪なんて、その内勝手に治んだよ」
「うん」
「今までだってそうしてきたし、オマエにこんなことされなくてもなんとかなる」
「…うん」

 やっぱり、余計なことしやがってと怒られるのかな。また調子に乗るなと怒られるんだ、きっと。イザナくんの言葉を待ちながら、視線と肩を落とす。だけど、続けられた言葉は私が想定してたものとは全く違ったものだった。

「…でもよぉ、目ぇ覚めてオマエがいるってわかったとき…なんかわかんねーけど、すげえほっとした」
「えっ」
「なんでオマエみたいなアホ面見てそう思うんだろうな」
「アホ面て……」
「アホ面だよ。バカみてえににこにこ笑いやがって」
「し、失礼な…」
「……あのときもそうだった」
「…あのとき?」

 思いもよらぬ言葉たちに状況がうまく飲み込めないけど、しっかりと彼の言葉を拾わなければいけないことはわかる。顔をあげてまっすぐにイザナくんを見据えると、ちらと一瞬私に視線を向けてからすぐに顔ごと背けられてしまった。それでもイザナくんの言葉は続く。

「………おぼえてる」
「なにを…?」
「なまえに、前にもこうしてもらった」
「前にも…って、」
「拾っただろ。ゴミみてーなガキをさ」
「うそ、覚えてたの?」
「……ん」
「そっか。…やっぱりチビちゃんだったんだね」
「またその名前でよんだらころす」
「はは、こわいこわい!」

 6年くらい前くらいだったか、私が中学生の時、ウチの店のゴミ捨て場に男の子が頭から突っ込んで気絶してた、恐らく一生に一度の珍事があった。あまりにも体中ボロボロで全然目を覚まさないから死んでしまってるんじゃないかと半泣きになったのを覚えてる。結局それは杞憂に終わり、目を覚ましても一言も喋らず名前すら教えてくれない私よりも小さな男の子を私たちは勝手にチビちゃんと呼んで、心配する親も帰る家もないと反抗期のそれか本当の話かわからないことをいう彼がある程度元気になるまで、暫く一緒に過ごした。兄弟のいない私にとってはなんだか弟が出来たみたいで嬉しくて、そう長くない人生の中でもチビちゃんと過ごした時間は今でも特別なものだといっても過言ではなかった。
 そんなチビちゃんとの別れは突然で、ある朝忽然と姿を消してしまった彼を心配したけれど、名前も、どこに住んでいるかもなにもわからない私たちには探しようがなかった。アイツなら大丈夫だろというじいちゃんの言葉に頷くしかなかったけれど、どこか心の隅にずうっとチビちゃんのことが引っかかっていたように思う。
 そして、最近のこと。よく店に来てくれるようになったヤンキーくんの中に、チビちゃんに似てる子がいる気がすると気付いたのは彼らが通うようになってから暫く経ってのことだった。見れば見るほどチビちゃんに似ている気がするしというか本人なんじゃないかと思い始めて、冗談まじりにそれをじいちゃんに話してみたら同じことを思っていたというから私たちは顔を見合わせて笑ったものだった。
 それで、いつだかのときにチビちゃん疑惑の本人に尋ねてみたことがある。前に会ったことない?って。そうしたら「ナンパかよ」なんてはぐらかされてしまって、知らねえの一点張りだったから他人の空似だったのかな、ってそれ以上聞くことはなかった。だけどやっぱりイザナくんはあのときのチビちゃんだった。まあ、私もじいちゃんも、わかってたけどね!

 イザナくんは知らないだろうけど、私がきまぐれランチを始めたきっかけは、元を辿るとイザナくん・もといチビちゃんの言葉だったりする。私の一番のおすすめメニューは、実はきまぐれランチではなく、時間をかけてよ〜く練ったお手製ココアなのだ。(少しだけシナモンを入れるのがポイント!)普段あまり注文されないし、知ってる人もほとんどいない、私的には裏看板メニュー的な感じだ。そう思ってるのは私だけだと思うけど。
 もっとチビちゃんと仲良くなれないかなってと思って初めてココアを作ってあげた時、普段は表情があまりなかったり仏頂面だったりする彼があんまりにも目を輝かせて、信じられないって顔で私のお手製ココアを美味しいって言ってくれたことは昨日のことのようにありありと思い出せる。ていうかそれが初めて彼が私たちの前で発した言葉で、喋れるんかーい!って驚きと、まっすぐに褒めてもらえた喜びはいまでも忘れることは出来ない。
 たかがココアではあるけれども、誰かに美味しいって言ってもらえるのがこんなにとびあがるほど嬉しいことだってのを教えてくれたのはチビちゃんだった。それからは小遣い稼ぎくらいにしか思ってなかった店の手伝いが楽しく思えるようになって、もっと色んな料理をつくって色んな人に美味しいって思ってもらいたいって考えるようになって、それできまぐれランチが生まれた。いまの私があるのって結構チビちゃんのお陰だったりするのだ。

「……勝手にいなくなって、わるかった」
「ううん、心配したけど元気でいてくれたならよかったよ。それに、またお店来てくれたじゃん」
「いや…はじめはあのときの家だって気付いてなかった。あんな蔦に覆われてなかったろ」
「あ〜…うん、確かにそうだね。ある時から急成長し始めたんだよ、あれ」

 イザナくんの言う通り、彼がうちにいた頃にはなかった蔦はある時からどこからともなくメキメキと伸びてきて、そのせいでだいぶ景観が変わったのは確かだった。虫とか増えそうだし私は撤去しようよって言ったんだけど、じいちゃんはあの蔦の絡み具合にいたく情趣を感じているようでちゃんと世話するから見逃してくれと、捨てられていた子犬を拾ってきた子どもの言い訳みたいなことを言うのでおかしくて許してしまった。まあ、元々じいちゃんの店だしね。お客さんの迷惑にならなければそれでいいかと思う。

「………あと」
「うん」
「……この前も、わるかった。傷つけた」
「ううん、私がイザナくんの癇に障ること言っちゃったんだよね。私こそ謝らなきゃ、本当にごめんなさい」

 そう言って頭を下げると、すぐにやめろという声とともに熱い手が私の腕を掴んだ。驚いて顔をあげるとほぼ同時に、掴まれた腕を強い力で引かれたせいで体勢を崩し、膝を折ってベッドに手をつき上半身乗り上げるみたいな状態になる。イザナくんの顔が思いのほか近くにあって、息を呑む。熱のせいか少しだけ潤んで見えるその瞳は、たぶんずっと眺めてはいけないものだと思った。

「オマエが謝ることじゃねーよ」
「でも、」
「でもじゃねえ」
「ええ…わかった」
「まあ…詫びになるかわかんねえけど、協力してやるから」
「え、協力?なんの?」
「あ?そんなん…知らねぇけど、なんかあんだろ。蘭をどうにかしてえみたいな」

 まただ。また不自然に蘭くんの名前が出てきた。前の“愛しの蘭くん“発言のこともあるし、よくよく考えてみればあの日イザナくんに怒られる直前、蘭くん…というか灰谷兄弟のことだったけど、話題に出した気もする。以前、脳裏を過ったイザナくんが私が蘭くんのこと好きだと思ってる説がいよいよ濃厚になってきたのではないか。さっきの蘭くんとどうにかするために協力してやるって発言だって、私と蘭くんがくっつくように協力してくれるって意味なんじゃないの。だとしたら勘違いだ。その誤解は、解いておきたい。

「あのさ、イザナくん」
「…んだよ」
「もしかしてイザナくんが怒ったのって、その…私が蘭くんの話したから、だったりする?」
「は?」
「え、あれ…」
「なんでオレが、そんなこと…」
「…あ、うん、そう、そうだよね!変なこと言ってごめん!いまのなし!」

 ヤバイ!メッチャ気まずい!そんですっごい恥ずかしい!穴があったら入って掘り進んで地球の裏側まで行ってしまいたいくらい今すぐこの場から消えて無くなりたい!
 私のクソ自意識過剰発言のせいで、イザナくんは苦虫を噛み潰したような顔をしたまま黙り込んでしまった。私はといえばこの最悪な空気をどうにか少しでも変えたくて、なんとか別の話題を絞り出す。必死すぎて声が大きくなるし、無駄に身振り手振りも大袈裟になる。この恥ずかしさが掻き消えますようにと足掻くしかなかった。実際は掻いてるのは足ではなく手だから、手掻く、かも。いやそんなことはどうでもいいな。

「え、ええっと…あ!他になんか食べたいものとか、ある?!ゼリーとかなら買ってきてるけど!コーラもあるよ!」
「………」
「い…イザナくぅん…?」
「………ココア」
「え!?」
「ココアだっつってんだよ」

 話題変えがうまくいったのかわからないけど、イザナくんはいまだに何か考えているような表情はしているものの、私の悪足掻きにはちゃんと返事をしてくれた。ただ、その答えは予想外のものだった。まさかここでココアを所望されるとは思っていなくて、店から持ってきてもいないし、もちろん買ってきてもいない。この家にあるだろうか…いやたぶんないよななんて思っていると、一瞬の沈黙を埋めるようにイザナくんが「バカのひとつ覚えみたいに飲ませてきただろ」と吐き捨てる。多分それは、美味しいと言われてからほぼ毎日チビちゃんにココアを作っていたことを指しているに違いない。だって、美味しいって言ってくれて嬉しかったんだもん。そう返すとイザナくんが小さく笑った気がした。

「えっと、急いで買ってくるからちょっと待っててくれる?」
「…なら、いい」
「いや、でもココアならすぐそこのコンビニにもあると思うし、」
「いい、行くな」

 今日はイザナくんに引き止められてばっかりな気がするな、と思っていると念押しするみたいに「ここにいろ」と強い語気で制してきたので、私は素直にはあいと返事をして持ち上げかけていた腰をまたその場におろした。そんなこと言われたら、行けるわけなかった。

「じゃあ今度ご馳走するからさ、元気になったらまたお店来てくれる?」
「ハッ…100杯注文するから覚悟しとけよ」
「ひえ〜」

 私の間抜けな悲鳴を聞くとイザナくんは悪戯が成功した子どもみたいに満足げに笑って自分の手元に視線を落とした。両手の指先をぴたりと合わせてなにかを考えているみたいに黙り込む。

「………そうか」
「うん?」
「ムカついてたんだな、オレ」
「え?」
「オレはあの店でメシ食いながらオマエと話すの、嫌いじゃねえ」
「うん」
「でも……他のヤツがオマエと楽しそうにしてンの見るのは気分悪ィ。特に蘭」
「…うん」
「オマエが蘭に褒められてバカみてえに喜んだくせに、オレのときは驚くのも…ムカついた。胸ン中ぐちゃぐちゃ掻き回されてるみたいな気分だった」
「だって、イザナくんが褒めてくれると思わなかったんだもん。でもすごい嬉しかった、ほんとだよ」
「…フン」

 たぶん、蘭くんに褒められた時よりももっと。その言葉は口にしようか迷って、結局飲み込んでおなかの中に仕舞いこんだ。
 イザナくんはそれから「寝る」と一言吐き出してからごろんとベッドに体を横たえたので、私は仰向けになった体に肩までしっかりとまた布団をかけ直してあげた。いつの間にか日が陰り始めているようで、段々とこの部屋にも暗さが増してくる。イザナくんが眠ったら帰ろうかなと思っていると、すこし重たげなまばたきをしたイザナくんが天井を見つめたままぽつりと私の名前を呟いた。

「なまえ」
「なあに」
「別にオマエがいなくても…なんとかなったけどよ…まあ、礼は言っておく」
「あんまり役に立てた気ぃしないけど、どういたしまして」
「…ンなことねーよ」

 ゆっくりとまぶたが降りていく。心なしか口調も少しおっとりした感じだから、正直起きているのか寝ているのか曖昧なところだった。それでも、その口から吐き出されている言葉は多分適当なものじゃなくて、きっと本当に彼が思っていることなんだと、なんとなくそう思う。…私が、そう思いたいだけかもしれないけど。

「あと…やっぱさっきの…なしな」
「さっきの?」
「ん、協力するってやつ……頼まれても、ぜってェしねえから」
「んふふ、わかった」
「だから……」
「うん」
「あいつじゃなくて、おれに、しろ…」

 それなら、きょうりょくする。
 そう言って布団の端から伸びてきた骨張った手がなにかを探すみたいに宙を彷徨う。私はそれを両手で捕まえて、黙って頷いた。声には出せなかった。もしかしたら熱に魘されているだけかもしれないし、寝ぼけているだけかもしれないのに、私だけその言葉を間に受けて一人で浮かれてしまったら悲しいから。
 暫くして規則的な寝息になっただろう頃合いで、握っていた手をそっと布団の中に戻した。その手から伝わる体温が心なしかさっきよりも高くなっているような気がしたから、少しでも熱が和らぐように額の冷えピタも新しいものに取り替えよう。起きてるときに変えてあげればよかった、睡眠の邪魔をしませんようにと思いながら貼り替えるけど、特に起きる気配はなさそうだ。それくらい深い眠りに就いてるなら、次に目が覚めるときにはもう熱下がってるかもね。
 少しだけ安らかな寝顔を見つめて、それから、ひとつ深呼吸をしてそこに顔をそっと寄せた。

「……間接的だから、許してね」

 いつもじいちゃんがしてくれた、早く治りますようにっていうおまじない。冷えピタの上から、そっと額に口付けた。1秒にも満たない、本当に一瞬のことだったのにも関わらず心臓がいまにも口から飛び出してしまいそうなほど脈打っていて、その場から逃げ出すように台所に引き返した。

「最低だ、私…」

 風邪っぴきだからって、なんてことを。じいちゃんが孫にするのとはわけが違うってわかってたはずなのに、やってしまった。己の愚行に一気に自己嫌悪に苛まれて、冷蔵庫にしがみつくみたいにしてその場にしゃがみこんだ。今の私、イザナくんと同じくらい、いやそれ以上かもって思うほどに体が熱を帯びていた。風邪移っちゃったかも、暫く店はじいちゃんひとりで頑張ってもらわないとかな、なんて冗談を考えて気を紛らわせないとどうにかなってしまいそうだった。





 ランチも終わり、お客さんのいなくなった店内でカウンターに座りじいちゃんが入れてくれたコーヒーを飲みながらノートと睨めっこする。
 取り敢えず新メニューは和風ハンバーグと、もう一品追加することにした。その代わりそのタイミングで、きまぐれランチを一旦お休みしようかと思う。じいちゃんもいい歳だし、いつこの店を私が乗っ取る…あいや、引き継ぐ時が来てもいいように、そろそろレギュラーメニューを完璧に作れるようになった方がいいと思うから。この店の看板メニューでもあるナポリタンのじいちゃんのあの味を未だに再現するに至っていないのは問題だ。じいちゃんはこんなもんじゃねえか?と言ってくれるけど、私は何かが足りないと思っている…けど、その何かがわからなくて困っている。今度ナポリタン愛好家のモッチーくんに食べ比べして貰って、意見を頂戴してみようか。まあそんなモッチーくんも最近は見かけないけれども。というかあのヤンキーくんたち、すっかり姿を見ない。鶴蝶くんがイザナくんが快復したという報告とお礼を言いに来たとき以来だ。ウチの店、飽きられちゃったのかななんてちいさく溜め息を吐いていると、店の電話が鳴った。

「はぁい、お電話ありがとうございます、純喫茶おあし…」
『あ〜もしもしぃ?なまえちゃんですかぁ?』
「…ん?あれ、蘭くんですか?」
『うん、蘭くんです。先日はウチの大将が大変お世話になったそうで』
「ああ、いえいえ…てかなんで店の電話にかけてるの?私前に携帯の連絡先教えたよね?」
『そこは、まァ…諸事情で。そんでさ、そこって貸し切りでパーティーとか出来ないの?』
「貸切はまだしも…パーティーって、ウチ、一応喫茶店なんだけど」
『え〜?ま細かいことはいーじゃん。お祝いしたいんだよね、なまえちゃんと大将がくっついた記念の』
「…えっと、くっついてないけど」
『あー?んー、まあ、時間の問題だろ』

 誰がそんなウワサを流したのか知らないけども、私とイザナくんくっついてないし、というかあの日以来イザナくんとも会ってすらいないけど。貸切するのは構わないけどその記念パーティーとやらを開催するのは考え直した方がいいんじゃない、と口を開きかけたときだった。
 店のベルがぶつかりあう音が聞こえて、そちらに顔を向けようとするとほぼ同時くらいに、手の中から子機がなくなった。あれ、と思いながら振り向くと真後ろにイザナくんが立っていて、驚きやらなんやらでひょんと心臓が跳ねる。じ、と無表情のままこちらを見下ろす彼の手にはついさっきまで私の手の中にあった子機が握られていた。どうやらイザナくんによって掻っ攫われたらしい。

「あ、イザナくん…」
「風邪。なおった」
「あ、うん、よかった」
「それで、考えた」
「なにを?」
「なまえ」
「はい…?」
「オレがオマエを娶る」
「…え?なんて?」
「娶る」
「めっ…え、え!?」
「答えは」
「え、めと、娶るはちょっと気がはや…」
「そんなこと聞いてねぇ。ハイかイエスだろ」
「ハエス…」
「よし。…オイ聞いたか蘭。なまえはオレのモンになった。だからオマエらこの店、モッチー以外出禁な。全員に伝えとけ」

 そんなぁ〜!と子機から悲痛な声が上がったのが聞こえたけどイザナくんは問答無用で通話を切ったようだった。ん、と子機を突き出してくるのでそれを受け取るけれども、正直何がなんだかよくわかってない。め、娶るって、あれだよね?妻にするてきなあれだよね?長さの単位のことじゃないよね、たぶんね。そんなね、ダジャレ言ってる場面じゃないもんね、ね。…なんだか段階をかなりすっ飛ばしてる気がするけど、つまりはイザナくん、私のこと好きってことなのかな。あの時の言葉は熱のせいでも寝ぼけていたわけでもなかったってこと?

「あの…イザナくん」
「何」
「私のこと…すき、なの?」
「……」
「え、えっと……」
「男ならビシッと決めろやクソガキ!」
「チッ……うるせえジジイだな」

 カウンターの中から野次を飛ばしてきたじいちゃんにもの凄い顔を顰めつつ、私の目をじっと見つめてくるイザナくんのピアスがちいさく揺れる。うわ、うわうわ。すごいいま、ドキドキしてる。私これから告白される?初めて告白されるかも!ヤバ!

「…オマエは誰にもやらねぇ」
「それって…つまり?」
「調子乗んなバーカ」

 調子に乗るな。前に言われたのと同じ言葉でも、そこに篭ってる感情がまるで違くって心がくすぐったい。あの時は酷く悲しい気持ちになったってのに、今は笑みが溢れて止まらなかった。そんな私を見て「アホみてぇな顔」なんて言うけれど、イザナくんだって今まで見たことないやさしい顔をしている。その顔は私以外には見せないで、なんて小さな独占欲が顔を覗かせてしまうほどに。それにそんな“アホみてぇな顔“が好きなこと、私知ってるんだからね!

 居た堪れなくなったのか妙に浮ついた雰囲気を切り裂くみたいに「勝手に出禁なんざされちゃあウチの売り上げが下がるなあ」とわざとらしくぼやくじいちゃんに対してムッとした顔で「オレがアイツらの分も注文すりゃ問題ないだろ」と拗ねたみたいに言うのが可愛くて、たまらずほっぺたにチューをした。実は私からのキスがこれで2回目だなんてイザナくんは知らないんだろうな。
 むふふと口の端から溢れる笑い声をそのままに、硬直しているイザナくんに体をそっと寄せてみると突然金縛りが解けたみたいに腰に腕を回して引き寄せられる。そしてほっぺたを潰すみたいに片手で私の顔をむんずと掴み、上を向かさせて自然と飛び出す形になっていた唇に自分のを押し当てた。それから耳元に顔を寄せて、丁寧に、確かめるみたいに私の名前を呼ぶ。

「……好きだ」

 どんなに小さく、今にも掻き消されてしまいそうなか細い声でも、私の心臓を震わせるには十分だ。感じたことのない高揚感にめまいがしそう。
 再び近づいてくるイザナくんのきれいな顔に思わずきゅっと目を瞑ると、すかさず「店ですんじゃねえ!」とごもっともなじいちゃんの怒号が飛んでくるけれど、それをガン無視して無遠慮にもう一度キスしてくるイザナくんに笑いながら、取り敢えずこれから注文されるであろう100杯のココアの最初の1杯目をお出ししましょうかと考えた。イザナくんは昔のように気に入ってくれるかな。美味いと言って、笑ってくれたらいいな。いまの私が始まった、あの時みたいに。



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