「それでも君は彼を呼んだんだね。小生の忠告を単なる言葉の威嚇とでも捉えたのかい?
まあいいさ。
さあ待ってみるとしよう。彼が君の呼びかけに応えるかどうか」
不安と焦燥から、毒薬でもあおった様に胸に爪を立てるシエルの手を取り、
葬儀屋は長い銀髪を掬って耳にかけ、その手の甲に口づけた。
「お止しよ。自分で自分の体躯を傷つけるのは。待っておいで。
小生が君に、愛しいヨカナンの首を捧げてあげよう。
そしてその永遠に腐らぬ生首に、幾らでも口吻をくれてやるがいい」
シエルは高雅な貌を顰めたが、手は口吻されるがままに任せて言う。
「僕はサロメのような舞などしていない」
「君は十分に小生を楽しませてくれているよ?その儚い命の舞を」
葬儀屋はくくっと笑うと、長椅子の豪勢な織物を長く黒い爪で模様に沿って引っ掻いた。
その裂けた布地の間から、黒い羽毛がふわりと宙に舞う。
それが今まで手にかけてきた悪魔の翼なのかと、
シエルは舞い落ちる漆黒の羽を身を凍りつかせて見つめていた。
セバスチャンは砂と埃に塗れた街で、脆い土を練り積み上げただけの家の屋根に立ち、
行商人が行き交う通りを眺め下ろしている。
人々は厳しい日差しを避けるために頭に白いヴェールを被り、駱駝に積荷を載せて引きつれ歩く。
この土地の衣装ならば、無くなった左腕を隠すのにはうってつけかもしれない、
そう考えながら、道行く男たちの長くゆったりとした、
ガラベイヤと呼ばれる白い民族衣装を眺める。
何度かヒトと魂の契約を結び、腕を取り戻し腹を満たそうかとも考えた。
しかしどうにも食指が動かない。
どの魂にも何ら心動かされる事も無い。
金剛石の眩い光を放つ不曉な精神と、
碧玉のような深い憤りと哀しみに満ちたあの魂に比べれば、他は余りに味気なく見えた。
声がする。
名を呼ばれた気がする。
その名に自分を縛り付けるものはない。
あれは、死神のモノなのだ――
天敵であり悪魔を狩る死神に、誰が喜んで近づくわけがない。
たった一個の魂のために。
白い民族衣装を身に纏った自分の横に、
胸にも届かない小さな少年が黒いヴェールとチャドルを身につけ、寄り添って歩む、
そんな光景を一瞬夢見て、セバスチャンは頭を振った。
「セバスチャン……」
「また君はその名を。来る日も来る日も飽きもせずに。彼は来なかったし、これから先もきっと現れない。
きっとどこぞで魂を喰らって、さっさと魔界に帰ったのかもしれない。
それが賢明な判断というものだ。小生も無益な殺傷をしないで済む。
でも君は――そうやって待ち続けるんだねぇ」
「……ただ一度会って訊ねたいんだ。
何故僕の為に、命を賭け腕までも犠牲にしたのかと。何も得るものも無いのに」
葬儀屋は窓辺に腰掛け外を見つめるシエルに近寄り、
頬を手の甲で撫でてから、柔らかい肉を軽く摘む。
「笑顔がなくなってしまったねぇ、すっかり。
小生は君の幸福な姿を見たかったというのに」
「無理をしてでも笑ってほしいか?」
葬儀屋は頭を振って力なく微笑んだ。
「では一度だけ彼に会わせてあげるよ。
そして君のその問いの答えを見せてあげるさ。おいで」
葬儀屋はシエルを抱きかかえ、死神の鎌で空を裂いた。
眼も眩むような白い光が消え去ると、
今にも崩れ落ちてきそうな葬儀屋の店の看板がシエルの視界に入った。
「何故お前の店に?」
「ここに置いといたからさ」
ぎぃっと軋む音を立てて葬儀屋が店の扉を開くと、
中はいつも通り棺や人体標本、
そして何の用途だか判らない胡散臭い物で埋まっている。
葬儀屋は店内にシエルを取り残して奥に姿を消し、暫くして箱を携え戻ってきた。
「それは?」
「君の兄上の魂の記録。シネマティックレコードだよ」
葬儀屋が微笑みかけ箱を開けると、
白く光る映写フィルムのようなものが巻かれて入っている。
「どうしてそれを?」
「本来なら死神が回収して、死神図書館に入れるべきものだけどね。
小生は、いわばそれを横取りしたのさ。ずっと手元に置いておきたかったからねぇ」
葬儀屋はフィルムを手にとり、愛しげに見つめた。
「ではお前は死神では?」
「もうそれは廃業さ。いや死神に逆に指名手配されていると言った方がいいか。
小生の元に、この死神の鎌とシネマティックレコードを奪いにやってくる死神は全て、
二度と返しはしないが、ね?」
くくっと声を立てた葬儀屋の凄惨な笑みを見つめて、
シエルは身震いしそうになりながら悪魔の身を案じている。
「大丈夫。今回は彼を手にかけない。それは君がそこまで想いを断ち切れずにいるからだよ。
ただしこれきりだけどね」
そう言って葬儀屋は、シエルの右眼に手を触れた。
薄っすらと痛みが走って、シエルは顔を歪める。
「何を……」
「小生との契約の証の匂いが残る限り、彼は用心して近づかない。
だから消すのさ、一時的にね」
痛みが去ると、葬儀屋はシエルのシャツのリボンを解き、
ボタンを外していく。
まだ十分に成熟していない細い鎖骨と白い胸元が露になると、
葬儀屋は黒く長い爪を立てて、
薄桃色に彩られた胸の突起のすぐ近くに小さな傷をつけた。
「これは?」
「彼へのご褒美を用意するのさ。獣を捕らえるには餌が要る」
小さく縦に開いた傷から、一筋の鮮血が流れ落ちる。
何をされるのか見当もつかずに、シエルが眉を寄せ怪訝な顔で葬儀屋を見つめていると、
彼は手にしたフィルムの先を傷に寄せた。
「う……っ」
フィルムは小さな蛇のようにうねりながら、するするとシエルの胸の内へと侵入していく。
その途端にシエルの心に、一気に溢れん程の感情と記憶が押し寄せて、
胸に手を当て床に蹲る。
「さあ、呼んでごらん、あの忌まわしき名前を」
想いが駆け巡る。
自分がここにいて、自分が瞳に映る。
互いに互いの身だけを案じて。その命がある限り、絶望だけはすまいと――。
切り裂かれる。
僕の腹が。
いや、僕の大切な人の腹が。
僕が悲鳴を上げる。
喉が裂けるような悲鳴が聞こえる。
絶望が全てを覆う。
全てが終わった後、僕の腹から引き出される指輪。
ファントムハイヴの末裔だと示すための――。
シエルは親指の指輪を握り締めた。
ここへ、来い。
僕のために。
セバスチャン――
「どうしてわざわざこんな真似を?」
「ひひ……漸く来たねぇ」
店の片隅の黒い影からかつんと音が鳴る。
くすみ一つない磨き上げられた革靴の先が見え、
黒いスラックスと、スワローテイル、
そして銀色の懐中時計の鎖が影から抜け出してくる。
「気配まで消して、私を誘き寄せて?」
「この子のたっての望みでね……」
「そのために契約まで解消したのですか?」
「小生はソロモンの裁きの王道をやったまでさ。
一人の赤子に二人の母親。どちらもが所有権を主張した時、全てを譲った者に軍配があがっただろう?」
完全に影から抜け出たセバスチャンは、床に蹲り苦しむシエルを見下ろした。
「人一人に魂を二つ委ねれば、気が狂ってしまう。貴方だってご存知の筈だ」
「彼の最愛の分身と一つになれて、幸せかもしれないよ?
むしろ正気でなどいない方がこの狂った世の中では最高に幸福でいられるかもしれない」
「貴方が彼と契約し求めた幸せとは、そんなものだったのですか?」
「君が違うと思うなら、一つ魂を喰らえばいい。君の働きへの褒美として。
受け取ってこの子に思い知らせればいい。
君がこの子のために献身的に尽くしたのは、ただひたすらに魂を食するためだったと。
そうすれば、この子も君に幻想を抱かなくて済む」
葬儀屋は非情な翡翠色の眼で、セバスチャンを見つめた。
「……セバスチャン……」
床ではシエルが蹲りながら、セバスチャンに向けて小さな手を救いを求めるように差し出し、
苦しそうに喘いでいる。
葬儀屋はセバスチャンの燕尾服の中身の無い左腕の袖を見て呟いた。
「君も実に律儀な悪魔だ。さっさとどこかの魂を喰らえばよかったのに。
そして頼まれてもいないのに、まだ執事のなりなどして……」
シエルの手がセバスチャンの左脚を掴み、それを支えに立ち上がろうとする。
その魂の香りに、セバスチャンの紅茶色の瞳は忽ち赤く染まり、
狡猾な獣のように虹彩が狭まった。
セバスチャンは身を屈め右腕でシエルの手を掴むと引き起こし、
腰に腕を回して一気に抱き上げる。
シエルの足は床から離れ、顔と顔が今にも触れそうなほどだ。
「さあ君の害獣としての本性のままに動くといい。
君の望むとおりに、欲するとおりに――」
葬儀屋の言葉を聞いてか聞かずか、
セバスチャンはいよいよ瞳孔を紅く滾る様に染めると、
一度舌なめずりしてから、シエルの唇に唇を重ねた。
「そら……わかっただろう?悪魔など、所詮こんなモノさ。
君が恋願う相手は小生だけでいい。こんな下賎で下劣な害獣になど、想いをかけても無駄なのさ」
狂おしいほどの熱情に任せて、セバスチャンはシエルに口吻し、
その小さな口腔内を舌で犯しながら、
溶鉱炉のように明るく燃え立つ眼を葬儀屋に向けた。
その瞬間に一陣の風が小さな竜巻の如く巻き起こり、
葬儀屋の視界を奪うように、黒い羽根が葬儀屋の顔の周囲に無数に舞う。
「私の望むとおりに、欲するとおりに。
では私は差し出された全てを受け取ることにしましょう」
「無駄だよ。小生との契約は一時だけ無効にしてあるだけ。
やがてすぐにその右目に現れるさ、契約の証が。
そして小生は君が彼をどこに連れ去っても、見つけ出せる」
葬儀屋は眼に集る羽根を手で毟り取り去ろうとするが、
さらに幾重も幾重も黒い羽根が群がり、
やがてそれは葬儀屋を黒い塊へと変え、身動きを一切封じる。
「欲しければ、奪え。抉りとってでも、ね」
「契約印は目に見えるものに過ぎない。小生との心の絆こそが契約の本体。
それがある限り――」
「それも断ち切って、奪い取ってみせましょう。
貴方の入る微塵もない程、この方の心を占めてみせましょう」
高らかな哂い声と共に、さらに一層強い風が吹き荒れ、
それが過ぎ去る頃には、
セバスチャンの姿もシエルの姿も忽然と消え去っていた。
灼熱の太陽が照りつける中、
セバスチャンは踝まで隠れる長さの白いガラベイヤを纏って、
白茶色の土を塗り固めた街の中を歩いている。
セバスチャンの左腕に抱きかかえられたシエルは、
黒く薄いヴェールで頭と鼻から口も覆われて、閉じた目蓋だけを見せている。
セバスチャンは熱風で吹き上げられそうになった、
シエルの身体に纏った黒いチャドルを右手で押さえた。
シエルの胸元には幾重に純金の首飾りが煌いている。
街に入っても人々は特段、二人に奇異な目も向けない。
その民族衣装は彼らの美貌をも、異民族であることも上手く押し隠していた。
いまだ意識を喪ったままのシエルの小さな躯を腕に抱いていても、
この地方では幼女を妻に娶るのは普通であったし、
大方妻が暑さで具合が悪くなったのだろう位にしか思われてはいなかった。
セバスチャンは街で男に銀貨を支払うと、
一軒の白い石と土を塗り固めて出来た穴蔵のような住居に入っていく。
木でできた寝台には、異国情緒溢れる細い縦筋模様の布がかけられていて、
その上にシエルの躯を丁寧に下ろした。
目覚めたら、まず契約を結ぼう。
私とこの子の絆を。
既に葬儀屋は、死に物狂いで探している頃に違いない。
いつまで隠れ遂せるかはわからないが、
ともかく今この一時を、私と共に。
一度は諦めきるつもりだった。
日ごと夜ごと名を呼ばれ続けなければ、
この目蓋の下に眠る、深く哀しい青碧眼をも忘れ去ったかもしれない。
絶望の中で、私を頼りにした眼を、
助けを求めて差し出された小さな手を、忘却の彼方に沈めたかもしれない。
だがこれより先は、この手を離さずにいよう。
この眼の見るものは私。
この声の呼ぶのは私の名。
そして――
いつかあの死神の鎌に刈られる事があったのなら、
私の生首にどうか、口吻を――
***
「この勝負は僕の勝ちだ」
箱庭から目を上げて、シエルは綺麗な口角を上げにやりと笑って、
セバスチャンに誇らしげな顔で振り向いた。
「そうですか? 私の駒が、貴方の駒を愛しましたか?」
「愛したから、奪ったのだろう?」
「魂が欲しいからでは?」
「悪魔のお前が可笑しな事を言う。どっちだって一緒の意味に決まってるのに」
負け惜しみを言うなとシエルは声に出して笑って、
満足げに椅子に深く腰掛け背を預ける。
「でも私の駒も、貴方を殺しましたよ?魂を喰らったのだから殺したも同然です。
シエル・ファントムハイヴの魂をね」
「それは――」
僕じゃないという言葉を飲み込んで、シエルは不服そうに眉を顰めた。
「全ての嘘は飲み込んでしまえばよい――でしたよね。
貴方の嘘が撒いた種です。だからこの勝負は引き分け、としましょうか」
「お前の負けん気の強さには、呆れる」
にったりとお返しとばかりに微笑むセバスチャンの顔を見て、
シエルはさらに眉を顰め、ぷいと顔を背けた。
「坊ちゃんに言われたくはありませんね。
ですが貴方が素直に口づけしてくれた分、私の負けという事でも宜しいですよ?」
「それは勝負とは関係の無い事だ。それよりセバスチャン。気になる事がある」
シエルは箱庭に視線を戻して、
円卓を神経質そうに人差し指でとんとんと叩いた。
「何でしょう?」
「あの葬儀屋の言っていた事だが――」
「彼が貴方の半身のシネマティックレコードを所持していた件ですね? 私も少し気になりました」
「調べてみるぞ。箱庭といえども、現実の縮尺に他ならない。そこでの可能性は――」
傍で頷くセバスチャンに、シエルは椅子から立ち上がり、
髑髏の飾りのついた杖を受け取る。
「この世界でも起こりえること」
「行くぞ、セバスチャン」
「Yes, my lord. 」
いつものように、差し出された白手袋に包まれた手に手を重ねて、
シエルはシルクハットを深く被り馬車に乗り込む。
そしてまたあてどなき旅が始まる。
二人の。
二匹の悪魔だけの。
End.