メガネ蛇と綿帽子04




 樹木の隙間に茅葺きの屋根が見えた。俺は泥を弾かせながら斜面をはいのぼり、茅葺き屋根の家の板戸を叩いた。板戸が開くと、幼い女の子が顔を出した。

「雨宿りをさせていただきたいのですが」

 唐突な俺の要請に、女の子の大きな目が瞬きを繰り返す。菱形の組合せで成る和装にたすき掛けをしているところを見るに、家事でもこなしていたのだろう。女の子の面差しに目を離せずにいると、彼女は家の中を指し示した。

「かまいませんよ、おあがりください」
「ありがとうございます」

 俺の声は、それはそれは地に足のついていないものであったに違いない。ようやく襲ってきた混乱をいなしながら、土間にあがらせてもらい、滴を落とす。俺から落ちた雨粒を、土間の土が吸っていった。
 どれだけの時間そうしていたのだろう。
 女の子が声をかけてきた。

「雨、あがりましたね。里への境まで送ります。帰り道、わかりにくいでしょうから」

 俺がここに至った経緯は、どうやらお見通しであるようだった。
 庭先を通り過ぎ、山をおりる。その間、道のわからない俺を先導する女の子は、ずっと手をつないでくれていた。

「なぁ」

 濡れた葉から滴が落ちるのと同じくらいの囁きで、俺はひとつの名を落とした。女の子が緊張に身を固くしたのが伝わってきた。だから、俺の疑念は確信になった。
 この子は俺の妹だ。だから、幼い日のあれは幻だったのだ。家族の、集落の誰しもが妹をいなくなったものとして扱うのは無意味なことなのだ。だって、現に、白無垢を纏ったあの時の、あのいとけないかたちのままで、妹はここにいるではないか。
 妹の手がするりと俺の手を抜け出した。だから、俺は妹の手首を掴んだ。

「一緒に家に帰ろう」
「……」

 そこは山と里の境目で、森がなくなる代わりに農道と水田が広がる分岐点だった。緑陰の中にいる妹の手を、俺は引いた。妹の脚がもつれた。妹はころげるようにこちらに倒れかかってきた。図らずももたれかかってきた妹を支え、俺の半身が山を抜ける。里には日の光が降り注いでいた。妹の指先が山と里の境界を乗り越える。すると、妹の指からみずみずしさが失われた。七色に光る小さな爪は艶を失い、皮が干からび、肉は脆く崩れていき、風に塵と掻き消えた。隠すものを無くした指は、尖った骨を陽に晒す。
 呆然と立ち尽くしていただけの俺から、妹をさらっていく腕があった。そこにいたのは、集落の水田を検分していたあの男だった。

「その子を連れ戻そうとするのは、やめておいた方がいい」

 赤黒の着流しの袖が、妹の小さな身体を俺から隠す。

「君の妹が君の思い描くようなひとのかたちをしているのは、この山にいるからだ」
「どういうことだよ」
「それは、この山が私の領域だからだ。このかたちをもっての我が妻は、こちら側にしか在り続けることができない。ゆえに、そちらに踏みこんだ途端、野晒しとなる。それが、そちらにおける、この子の在るべきかたちだからね」
「おまえ、まさか……」
「私が気にかけている限り、君の里は稲穂の不作に悩まされることはない。私が眠れば、その限りではないだろう。だが、一旦私が眠ったとて、それは次の誕生までの停止にすぎない。また生まれれば、里の豊穣は約束される。古来より、この里は、そのように廻ってきた。とはいえ、最近は豊作すぎても困ると言われてしまっていてね。どうも人の世はままらないな」

 俺は男を指差した。

「おまえ、あの時の、脱皮の下手な蛇だろう?」

 男は驚いたらしく、大仰に瞠目した。そして、関心したように笑う。どこまでもやわらかく、それでいて乾いた、蛇の抜け殻みたいな笑みだ。

「よくわかったなぁ」
「妹を、返せよ」
「君は誤解しているようだが、私は彼女を奪ってなどはいない。あれは彼女と私の約束だ。彼女と私との願いでしかなかったものを、集落の皆で叶えてくれた」
「凶作を避けることと引き換えに、か」

 俺は拳に力をこめた。噛み締めた奥歯が軋みをあげる。
 そんなことは知っていた。とっくの昔に解っていた。ただ、腑に落としたくなかっただけだ。
 そこにいるのが当然であるとおもっていたものが、ある時、突然なくなってしまったら、納得などいくはずがない。
 あの日、弔問ではなく祝言をもって里と山の境を越えた妹は、すくなくとも、山においては穏やかに暮らしている。
 男が声を響かせた。涼やかな水のような、穏やかな雨のような男の声は、ひどく優しく染みこんでくる。

「山にはいつでも遊びに来てくれていい。ただし、ここのものを食べたり飲んだりしてはいけない。これだけが条件だ」

 目をあげると、皮肉っぽさと悪戯っ子のような無邪気さがない交ぜとなった、男のやわらかな微笑みがあった。
 男は着流しの幕をあげる。男に送り出された妹は、山と里の境の山側で、俺を見つめた。里側で陽に晒されながら、俺は唇を持ち上げる。

「また来るかもしれない。来ないかもしれない。今日のことは白昼夢か何かだって自分に言い聞かせて、なかったことにするのかもしれない」

 俺は乾いてひび割れたアスファルトを凝視する。樹木のきらきらしさを直視できない俺の耳を、遠い日の記憶と寸分違わぬ妹の声が、ふわりと撫でた。

「それでも、わたし、にいさまに会えて嬉しかった。だいきらいなんて言って別れてしまったけれど、ずっとだいすきだったし、いまだって、とっても、だいすき」

 夕立が暑さを叩き落してしまうみたいに、雷鳴が平静さを吹き飛ばしてしまうみたいに、聞こえてくる声が理解していまっている現実をとろかしてくれたらどんなにかいいだろう。
 その場にくずおれ、アスファルトに両手をついて俯く俺の頭を、細く硬いものが撫でた。そうだ、俺のいるこちら側は陽が満ちすぎている。剥き出しの白であるのであろう幼いままの指に撫でられながら、俺は身を折り、雨によってもたらされた土の香を肺いっぱいに吸い込んだ。


(了/メガネ蛇と綿帽子)

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