「先輩!」 「!、 真史…?」 地鳴りのような怒号と共に、血相を変えた真史に左手に掴み掛かられる。何事かと、私は勿論唐沢くんも目を剥いて驚いている。 「指輪が…っ!」 酷く狼狽している真史に合点がいく。私としてはもう何の違和感もない左手の薬指を、震える手で握られる。そういえば目出度いことでもないのだし、わざわざ触れ回るようなことでもないと思ってまだ言っていなかったか。 「ああ、これは…」 「どこで無くしたんですか!?ここに来るまではありましたか?それともここで落とされたのですか?」 真史の勢いに負けて思わず閉口する。真実とはあまりにかけ離れた想像だが、まあ確かに一般的に考えればそうなるのか。特に真史は悪意とはかけ離れた人間であるから、そう思ってしまうのも無理はない。そんな真史に付け入って揶揄うのは定石であるからしてーーー、 「いや、ここに来る時には既になかったな」 真史の顔が絶望に染まった。どうすれば、と蚊の鳴くようなか細い声で不安そうに呟いている真史。当人でもないというのに、優しい男だ。 流石に真史を可哀想に思ったのか ___さん、と唐沢くんに咎められてしまった。仕方ないなと肩を竦める。 「離婚してね」 「…え、?」 「だから指輪は『ここに来る時には既になかった』んだよ」 タネ明かしすると、真史はクシャリと顔を歪めた。さて真っ赤になって怒鳴られるか、呆れ果てながら小言を言われるか。 いつものパターンを思い浮かべていると、意外にも真史は踵を返した。おや、と思う間もなくそのまま無言で去っていってしまう。これは初めての反応で、何だか取り残されてしまった気分になる。流石に悪い冗談だったか。 「___さんは、忍田本部長を相手にすると本当に意地が悪いですね」 「……すまないが、見送りはここまで結構だ」 「分かりました。お気を付けて」 綺麗に腰を折る唐沢くんにお礼を返して、もう随分と小さくなってしまった真史の背を追った。 資料室のようなところに辿りついた。部外者である自分が資料室に入るのはいかがなものかとは思うが、まあ機密があれば真史が私を追い出すだろうと決め込んで足を踏み入れる。 「真史」 「、先輩……」 私を呼ぶその声は普段より幾分か上擦っている。真史に近づいていくが、逃げることはなかった。そもそも先程の行動も私から逃げるためのものかは分からないが。 真史は壁に背を預けてただ静かに、スーツが皺になるのも構わず胸のあたりを握っていた。 「胸が痛むのか」 「……いえ、」 真史は緩慢ながらも首を横に振って、手を離した。手を離したところでその苦しげな表情は何も変わってはいないのだけれど。…ああ、やはり皺になってしまっている。その皺を伸ばしてやり、ついでに乱れているスーツの襟を整えてやる。その間真史は借りてきた猫のように大人しく、じっとしていた。あの冗談が堪えたのだろうか。 「…配慮が足りなかったね、すまなかった。浮気をされた甲斐性なしと、友人達の間で笑い話にしていたからか、つい冗談が過ぎたようだ」 真史がようやく私の目を見る。薄暗い資料室で、張り詰めた雰囲気であるというのに私はぼんやりこの男のことを「綺麗だな」などと思っていた。 真史の震える唇が どうして、と小さく象った。 「どうしてですか。どうして。あんなに、幸せそうだったのに…」 真史が私を睨み付ける。なぜお前がそんなに辛そうな、苦しそうな目をしているんだ。そっと、その双眼を右手で覆う。痛ましいそれを、見たくないと思うのは私のエゴだ。 「簡単なことだ。人は変わる。私はもう彼女が愛した『私』ではなくて、彼女もまた、私が愛した『彼女』ではなくなってしまった。それだけだ」 だから彼女は浮気をして、私は彼女を見限った。私はもう彼女を愛していなかった。浮気をされて初めてそのことに気づくなど、我ながら愚かだ。 「、証明、してください」 「離婚したことは貴方の幸せのためであったと、私に、証明してください」 詰るような口調で、縋るように懇願される。ああ本当に、お前は優しい。 手をそっと外して、強い光を持つその黒曜石のような瞳を見つめ返す。 「ああ、必ず。」 真史はようやく、笑みを浮かべた。それはとても歪で、今にも泣き出しそうだったけれど、確かに笑った。 こんなにも私の幸せを願ってくれる人がいるということが分かっただけで、私の離婚は価値あるものとなった。しかしそれはまだ、言わなくても良いだろう。もっと私が幸せになってからでもきっと遅くはない。 そのとき、私の傍らにいるのは果たして。 to list |