短編小説 | ナノ

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Sexy Little Darling
...Day two



部屋の天井をぼんやり眺めながら、言い訳がましい台詞を何度も頭の中で展開しては修正を繰り返していたが、そんな埒が明かない作業にも飽きてきた。

言葉にし難い後ろめたさから、同じ寝台の中で無防備に眠るアリスをなるべく視界に入れないようにしてはいたが、肩口に寄り添う身体にぶつからないよう慎重に寝返って彼女の寝顔を目に映す。

昨日の朝と同じ光景。
尤も、あの時は想定外の事態にこれ程冷静にはいられなかったが。対する彼女は変わらず幸せを形作ったような熟睡の気配を放っている。

安眠を妨げるつもりは全く無いのだが、見つめている内にほんの僅かな出来心が湧き上がる。人差し指をじわじわ動かし、彼女の頬にやんわり突き立てた。
軽く押すと、柔らかく程よい弾力に迎えられる。癖になりそうな感触に逆らえず、もう一度、もう一度と、張りのある肌をつつく。

アリスは、眠っているとはいえ鬱陶しさを感じた様子だ。夢の中で文句を言っているのか、口を閉じたまま動かし、狭い眉間に皺を寄せた。
寝ぼけて怒る仔犬を見ているようで、笑ってしまいそうになるのを堪えていると、途端突然強い睡魔に襲われる。
リナリーへの弁明を半ば諦め、とうとう開き直り始めていた思考は、実に呆気なく素直にその欲求に従い停止したのだった。



衣擦れの音と寝具の微かな揺れで、徐々に意識が戻ってくる。薄く目を開くが視界は薄暗い。
微睡みを手繰り寄せるように、腕の中の心地良い温もりを抱き直した。数秒後、頭に何かが触れる感触に再び狭間の意識は覚醒に振れる。

…髪を撫でられている。子供でもあやしているような優しい手つきの主の、艶やかな髪から香る匂いを感じながら、首元に顔を埋め唇をあてた。

抱き締めた身体が強張る。普段とは異なる反応を受け、徐々に夢の心地から解放され思考が働き始める。


ーーーそういえばアリス、妙に小さいような…。

気づくとすぐさま目を開け、腕を解いて、起き上がりながら寝台の脇に遠ざかった。
寝惚けてとんでもない事をした。焦って取り乱してしまったが、敢えて寝ているふりをしてやり過ごした方が良かったかも知れない。

横たわったまま見上げる彼女の眼差しは、朧げな明かりを湛えて、行動の意味を問いたそうに揺れた。
微動もしない静々とした仕草、暗が占める視界の中で一層白く仄かに照らされる肌、寝具や彼女の体に沿って湾曲に流れる長く柔らかい髪が、やけに嫋やかで清艶に見えた。
眠気に依るものだとは分かっているが、身体全体を使って感情を表現していた彼女が、言葉すら無く視線だけで訴えて来た事に、何故か動揺する。心臓が緩く握られ痺れているようだ。

「…どうしたの?」
その声が耳に届いて漸く、彼女の姿に見入っていたと気付いた。彼女の疑問が疑心にならないよう問い掛けに答えねばならないというのに、一秒二秒と時間は慈悲もなく経過する。
何か、一言だけでも口にしなければ。思考が上手く働かないまま口を開いた。

「い、犬の真似…でしたぁ〜…」
余りにも粗雑な誤魔化しに呆れて自分でもため息が出そうだ。あんな官能的な手つきで人に甘える犬がいてたまるか。
純粋無垢な少女を下手な嘘で半ば無理矢理納得させようとしている事に良心が痛むが、とにかく今は彼女の稚い思考と睡魔に手助けされて受け入れられるよう祈るばかりだ。

僅かな沈黙を経て、彼女は身を捩ると薄っすら口角を上げて片手を伸ばす。
「ねんねしましょ、わんちゃん」

これ程までに子供の素直さに感謝する事は無いかもしれない。
最大限、恥に恥を捨て、小声を更に抑えた声量で「わん」と呟き、小さなご主人様の傍に寝そべって目を閉じた。
頭に触れる手付きは丁度良い力加減で、直ぐに意識は鈍く沈み始め、どちらが先に眠りに就いたのか分からないまま未明の底へ落ちていった。



よく通るが耳に障らない明朗な呼び掛けに意識が引き上げられる。
渋々目を開けると、アリスが懸命に背伸びをして開け広げた窓から、煌々と白い光が室内を照らした。
同様に陽射しを身体に受ける彼女の姿は、黒影の空間で大人びて見えた姿よりも綺麗かもしれない。と、朧げに思っていると「わんちゃん、早くおきなさい!」と、胸に飛び込んできたアリスを受け止めた拍子に壁に頭を打った。

「起きた、起きた。おはよう」と言っている内に、後頭部への刺激が丁度良かったのか、唐突に閃く。犬と飼い主ごっこは人前では控えるよう釘を刺しておいた良いかもしれない、と。
この遊びが下手にアリスから誰かの耳に入れば、某室長よりも救いようのない思考回路の人間という汚名が確立しかねない。

「あのさ、わんちゃんごっこは二人だけの秘密にしような?」
「どうして?」
「えーと、それは…、だな。つまり、二人きりの時に楽しみたいから…さ」
他者に聞かれたら返って誤解を招きそうな会話だが、言い回しはどうあれ彼女が納得すればそれでいい。いざという時の話術の拙さは十分理解しているので、最早己の説得力に頼ることは放棄している。

アリスは「ふーん」と口を尖らせてオレの顔を覗き込む。心の内が読まれないように緩く笑って見せると「ひみつ。だよ?」と逆に念を押された。
素直な子供だからと彼女を侮っていたが、案外手厳しい。これに関しては何の言い訳も思いつかないので、大人しく「はい」と返事をした。


支度を済ませ食堂に向かう途中、丁度アレンと廊下で会い朝食を共に取る事となった。幸か不幸かリナリーとも食堂で鉢合わせたが、アリスが持ち前の愛嬌でリナリーに駆け寄って抱き着き屈託無く笑うので、すぐに不安は解けたらしくすんなりと同席してくれた。

どうやら昨日の誤解を解くには、アリスの元気な笑顔を見せる事が正解だったようだ。思えば、どれ程オレが必至に弁解したところで、言い訳がましく聞こえてしまい、返って怪しまれてしまうという結果も有り得た。
夜通し考え抜いた末に、これだ!という逃げ口上を思いつかなくて良かった。

朝食を食べ終わる頃には普段通り話掛けてくれたので、彼女の中でうまく整理をつけたのだと、前向きに捉えることにした。



食事が終わり、コムイに状況を確認する為、司令室へ四人で向かう。
階段を降り切ると丁度、ばたばたと忙しない足音が室内から漏れ聞こえ、駆け足に廊下へ出て来たコムイは、此方の姿を確認するやいなや叫んだ。
「今日、中央庁の視察が来るって手紙が来てた…!」
予期せぬ報告にアリスを除いた全員の表情が強張った。

中央庁は主に教団の運用や監査を司る黒の教団の上部組織だ。決まった周期で本部へ監査員が団体でやってくるが、まだ今回の視察の日取りまでは余裕がある筈。

詳細を聞くと、どうも今回は予定が早まり、その日が本日であったとつい先程判明したのだそうだ。
大方、彼の机に山積みになっている書類の群れに、通知書が埋もれてしまい見落としていたのだろう。むしろ当日とはいえ事前に手紙が見つかった事は幸いだったと言える。


元来、監査員が調査したところで処罰の対象となるような職務違反や隠蔽も無いし(コムイの怪しげな実験や研究は監査の目を上手く躱しているらしい)皆誠実に職務を全うしているので(全うしすぎの結果、就業時間という概念が破綻しているが)教団内の空気が緊張で重くはなるものの、焦ったり身構える必要は普段は無い。
しかし今回は事情が異なるので、事態は少々深刻だ。

「今日一日、どうやって見つからないようにしようか…」
コムイのため息交じりの問いに三人で顔を合わせた。中央の目から隠すべき当人を一瞥すると、いつになく峨々と積もる卓子の書類を仰ぎ見ていた。
コムイが怪しい薬を作っていたこともそれなりの問題ではあるものの、一番懸念するのはアリスの実情だ。

事情を説明したところで、研究対象にされるか、幼かろうが聖職者として活動させるよう厳重注意を受けるか。どちらにせよ元の姿に戻る方法も期間もはっきりとしない以上、解決するまで平穏に過ごすという手段は許されないだろう。最悪、監視が付く可能性もある。

戦争という言葉を理解させるには難しい幼さで、訓練や戦闘を強いるのは余りに酷だ。
中央庁の視察からはなんとしてでもアリスを隠し通す必要がある。
怪しげな薬なら巧妙に工作して倉庫に隠して置けるが、人間はそうもいかない。どうやって彼らの目を掻い潜れば良いだろうか。

教団内は広く階層や部屋数が多いものの、幼い彼女を立ち入らせるべきではない場所も多数有るので、匿う場所は限定される。
その上監査に当たる人員も数名という訳ではなく、数十人規模で視察に当たるので、僅かな距離でも此方が移動している最中、発見される可能性が僅かながら有る。年相応に遊びたい盛りの彼女が一歩も部屋の外に出ず大人しくしてくれるという確約はできない。

リナリーが眉尻を下げて、畏怖を含んだ面持ちで呟く。
「教団内であの人達から隠し通すのは難しいんじゃないかしら…」
最も警戒すべきは、洞察力が異常に長けた中央庁の連中そのものだ。

以前科学班員から聞いたが、アジア支部にて監査の折、バク支部長が密かに隠し持っていたリナリーの写真集(非公式)が、発見を恐れる支部長の僅かな気の張り具合と、仕草に一瞬見えた違和感だけで見抜かれ、所在まで突き止められてしまったらしい。

余談だが、監査役は情報漏洩の記録証拠の隠蔽をしていると勘繰っていたようで、発見した資料を隈なく確認したところ、ただの写真集(非公式)であったことが判り、何も言わず白い目で支部長を一瞥したそうだ。余りの羞恥に支部長は蕁麻疹で一週間寝込んだとかそうでないとか。

兎も角、中央庁から優秀な番犬達がやって来る前に此方も手を打たなければならない。
しかし、教団内の何処であれば安心して過ごせるか、たった一日の事であるのに皆で頭を悩ませても中々答えは浮かんでこなかった。
アリスはコムイの真横に立ち、真似して腕を組んで唸っていた。


「もういっそ、外に連れ出すってのはどう?」
具体的な内容までは考えていないものの、やや投げやりにふとした思い付きを口に出す。
流石に全員一致で却下されるかと思ったが「それをはじめに思い付くべきだった」と言わんばかりの呆気に取られた表情で三人が頷いた。アリスは口を尖らせて首を傾げている。

それからは話が拍子に乗って進み、アクマの出現やイノセンスの可能性がある事象が起こっていない教団から一番近い街へ行き先を決め、コムイに移動の手配、それに掛かる任務内容の操作してもらうよう頼んだ。
書類の矛盾点を指摘されれば大問題に発展しかねないが、彼の頭の回転の速さとこれまでの経験を信じる事にした。

街へ出かけると聞かされたアリスは、大いに張り切った様子で目を輝かせ「おめかししなきゃ!」と意気込む。彼女の支度の手伝いはリナリーが買って出てくれた。
コムイを抜いたこの場の四人は、早々に準備を進める為一旦解散した。


今回は戦闘を前提とした普段の任務とは異なり、寧ろ戦闘を回避したいので、一般市民に紛れる必要がある。
準備と言っても街を歩くのに違和感の無い服装に着替える事くらいなので、直ぐに出掛けられるだろう。
アリスが早起きだったお陰で、焦らずとも出発の時間まで大分余裕もある。

自室に向かっていると、背後から間隔の狭い足早な音が近付いてきた。
振り向くよりも先に手を掴まれ下に引っ張られる。見おろすと相変わらず生き生きとした様子のアリスがいる。しかしまだ身支度は済んでいないようだ。

「あれ?何してんの。リナリーと着替えるんじゃなかったんさ?」
「ラビもおようふくいっしょにえらんで!」

流石と言うべきか、子供らしい心変わりの早さだ。つい先程までは嬉々としてリナリーにどんな服を着て行こうだとか、どんな髪型にしたいだとかを一生懸命説明していたが、新たに思い立ったら行動せずには居られなかったのだろう。

やや駆け足で追いかけて来たリナリーが明るくも呆れ声で呼び掛けた。

「もー。アリスったら、一度決めたら聞かないんだから」
「あはは、そういう所は小さくなっても変わんないんだな」
本人は自身が言われている事を気にも止めていないようで、オレの手は片手で握ったまま、リナリーにも手を握って欲しいと腕を伸ばした。
「勝手にいなくなっちゃ駄目よ」と窘められながらもリナリーに応じてもらえて、アリスは元気よく返事をしながら嬉しそうに腕を揺らす。

昨夜から我儘に振り回されて大変だろうと思ったが、口で言うほどうんざりしている様子もなく、返って幼い彼女の中によく知るアリスらしさを見出した事を喜んでいる様子である。

時間に余裕があるとはいえ、出発は早いに越した事はない。二人掛かりで支度を手伝わなくても良いだろうと、リナリーには先に自身の支度をしてもらい、後でアリスの髪を結う為、合流する手筈にして別れた。

コムイが人知れず所持していた子供服は全て、アリスの自室に運び出されている。先ずはオレがアリスの服を選び着替えさせなければならないので、彼女の部屋へ向かった。


部屋の収納棚を開けると、もともと仕舞われていた衣服よりも、女児用の色とりどりな外出用の高級服が所狭しと並べられている。
アリスは鮮やかな衣服を手に取るより先に、棚の端に追いやられた、飾り気は無くも物柔らかで上品な服を指差した。今の彼女が着る予定は無い物だ。

「このおようふく、だれの?」
「えーと、これはアリスが大きくなった時に着る服さ」
「そっかあ…」
かなり適当な当たり障りのない回答をした事で、返って答え辛い質問責めに合わないかと気構えたが、彼女は興味津々に服の裾を掴んで広げたり、大きさを見比べると振り返った。
何かを訴えているという様子ではなさそうだが、無言でオレの姿を眺めている。
すると不意にその表情に陰りを感じた。

真意を汲めずにいると、また棚に向き直り数着の服を引っ張って、この中から選んで欲しいと明るい声で問いかけてきた。

彼女の所望する衣服を取り、寝台の上に並べる。
三着まで絞り込んだらしいが、どれも貴族の令嬢が着るような華美では無いものの凝った模様や装飾が散りばめられた格式高い外形だ。
余り目立たない格好の方が望ましいとは思うものの、楽しそうに一つ一つを身体に当てがって見せてくれる姿に応えてやらなければと思う内に熱が入ってしまい、色はこっちの方が似合うだとか、気付けば自分の好みを交えて厳選に精を出していた。

本人の嗜好もあるだろうから、口を出してしまった事で迷わせてしまってはいないかと心配したが、案外すんなりとオレの意向に沿った一着が選ばれた。

着替えを手伝ってやろうとすると、一人で出来るから後ろを向いて欲しいと言われた。
昨日の朝は裸でも気にせず飛びついてくるし、寝る前には服を脱ごうとしていたというのに、どういう風の吹き回しなのか判らずにいたが「言うことをききなさい」と怒られてしまったので、飼い主様の命令に大人しく従う。

思い返せば今朝もアリスは先に起きて、着替えを一人で済ましていたのだった。
たった一日でそんなに子供は成長するものなのだろうか。

数分待つと「もういいよ」と声をかけられたので後ろを向く。襟元の蝶結びが少々不恰好ではあったが、釦も掛け違えず着こなしている。
白を基調とした絹のドレスは刺繍や装飾が多く、見るからに高貴そのものだが、違和感なく衣装と釣り合っている彼女自身に内心驚いた。
身内故の盲目的な贔屓が無意識に働いている可能性もあるが、それでもよく似合っていると思った。

崩れ気味の結びだけ整え、飼い犬扱いのちょっとした仕返しに「よしよし。よく出来ました」と彼女の髪を撫でていると、首元に細い腕を回して抱き着いてきた。子犬が短い尻尾を懸命に振り乱して甘える姿が脳裏に浮んで、目の前の彼女の姿と合致した。

しかし、アリスは急に頬擦りを止め、身を離し数歩後退して距離を取る。

緩やかに姿勢を正して長いスカートの裾を抓むと、礼儀正しく片足を後ろに引き、もう片方の膝を落として睫毛を伏せた。いつの間に覚えたのか、ぎこちないが幼いながらに様になっている所作だった。


「おひめさまみたい?」
心許無く首を傾げる彼女に慌てて「勿論」と答えると、一気に口角が引き上げられ「じゃあ、ラビはわたしのおうじさま?」と期待を込めた眼差しで見つめてくる。

十八年生きていて冗談でも言われたことの無い言葉に、この成りでどこが王子様なんだと笑い返してしまいそうになるが、肯定を待つ彼女の視線の真摯さを否定してはならないと思い留まり、一呼吸置いた。


…昨日読んだ絵本の中に女の子が好みそうな王子と姫の恋物語があったので、きっとそれの真似事をしたいのだろう。
(一部の行動や性格を除けば)外見や振る舞いが紳士らしいアレンなら兎も角、子供のごっこ遊びに合わせる為とはいえ、自分が王子様というのは気恥ずかしい。
飼い犬の方が幾分か気が楽だ。気分的にもご令嬢を護衛する従者が妥当だろう。だがその答えをアリスは求めていない。


否定も肯定もせず、心中で「自分は従者だ。王子様の真似をしているわけでは断じてない」と言い訳しながら、彼女の前で跪き小さな手を丁重に掬い取ると、その甲に口づけをする振りをして見せた。
これで正解としてもらえないだろうか。上目に反応を窺うと、彼女は驚き目を丸くしていたが、次第に頬を赤らめ実に満足そうに笑った。

同じように笑顔を返すべき状況だというのに、またしても顔の筋肉を固めたまま彼女を見つめてしまう。
目元の曲線、頬の緩ませ方、口唇の象りが幼子が作りだす表情には見えなかったからだ。淑やかで艶かしく映る微笑に、鼓動が強く拘束される痛みを覚えた。


ーーー違う。アリスがそう笑ったのではなく。オレが、そう見てしまっているのではないか…。

彼女の持つ稚さを自身の内から排除し、ほんの一瞬、…ましては二度も、十以上も歳の離れた少女を女性として捉えてしまったのかと、犯罪めいた焦りが過ぎる。それなのに彼女から目を反らせない。

感情の整理が追い付かず身動きの取れないオレに反して、アリスの細い指先は探るように近づいて来る。珍しく温度の低い指が頬に触れた時、扉が叩かれる音が室内に響いた。

彼女の温度が遠退いて、どうにか浮ついていた思考が現実を取り戻した。扉を開けた先の来訪者を出迎えんと、入り口に急ぎ足で向かった小さな背中は、年相応に胸を躍らせる面持ちを容易く想像出来る。
リナリーに開口一番身嗜みを褒められて、機嫌良くくるくると回って服を見せる無邪気な様子に、心底安堵した。

アリスの支度が仕上げの段階に入ったので、後は任せて部屋を出る。閉まる扉の隙間から、鏡台に座る彼女が鏡越しに「早く迎えにきて」と言わんばかりに熱視線を向けるので、駆け足に自室へ向かった。



アリスには王子様じゃないと文句を言われそうだが、普段よりも僅かながら正装を意識して選んだ服を着て、小さなお姫様を迎えに行くべく歩みを進める。

部屋の前まで到着するも、何故か扉の傍に門番の如くアレンが立っていた。律儀に彼女達が出て来るまで待っているのだろうか。

「何してんの、アレン?アリスもリナリーも着替えは終わってるぜ」
声を掛けると「幼いとは言え女の子の、しかも、身支度している最中の部屋にずかずか入れませんよ」と紳士の鑑らしい返事が返ってきた。しかし追って「ラビじゃないんですから」と余計な憎まれ口を叩くので、やはり彼の紳士らしさは似非だと実感する。

「それに、ラビより先に見たら怒るかと思って」
アレンはわざとらしく身体を傾け寄って来ると、口元を隠して囁いた。
アリスの着飾った姿を他の男より早く見たい、なんて独占欲は全く無かったものの、幼い彼女を女性として特別視し始めていた事を勘付かれたのかと、焦ってしまい返す言葉が出ずに会話が途切れた。

このまま黙り込むのは返って不自然だ。向こうから詮索される前に、焦って取り繕う振りをして「コムイじゃあるまいし、そこまで溺愛してねぇさ」と、保護者や兄妹のものに近い愛情を強く抱いていると思われるよう答えた。
動揺が彼の目にしっかりと写っていたお陰で「へぇ、そうでしょうかね?」と訝しげに笑われる。

どうやら本心は隠し通す事ができたようだ。妹至上主義の室長と同類だと認識された事は難儀だが、仕方がない。

そんな不毛なやり取りをする声が聞こえたのか、扉の向こうから軽快な足音が聞こえてきた。


扉が開かれるないなやアリスが飛び出してきたので、慌てて受け止める。
「みてみて!」
上品に巻かれた後ろ髪を纏めている、蝶を形どった髪飾りが、ゆらゆらと淡く光を反射させながら揺れた。
ゆっくり彼女を降ろすと、リナリーが「おまたせ」と続いて部屋を出てくる。

「アリス?」と嗜めるような語気でリナリーが一声掛けると、呼ばれた彼女は、恭しくリナリーの隣に立ってお辞儀をした。きっと指南してもらったのだろう。先程見せたぎこちない所作から一変して、凛と振る舞う。彼女の動きに合わせて蝶の羽が揺れる様は、まるで花の香りに誘われて舞っているかのようだった。

アリスは上目にリナリーを伺い見て、彼女が目を細めて頷いたのを確認すると、此方にも褒めて欲しそうに輝く視線を向ける。

「今日のアリスはお姫様みたいですね」
平然と何の躊躇いもなく、流れるように自然と言葉が出るアレンに瞠目した。
爽やかな笑顔を向けられ、対するアリスも満面の笑みで返す。
あどけなさの残る少年と幼女が仲睦まじい様は麗らかで和むものだと、一人沈思していると、三人の視線がいつの間にか自分に集中している。

間違いなく「お前の感想はどうなんだ」という催促なのだろうが、アレンの様に思ったままを述べる事がやけに気恥ずかしく、口元が頑なに開かない。
かと言って二人きりの際に行った事と同様の行動を取っては、アリスが満足しても他に疑惑を発生させかねない。時間が経過すればする程求められる期待値が上昇するのに、もう何も考え付かなかった。話をすり替えるしか道はない。

「さ、さーて、そろそろ出発しますか!」
皆の無言の圧力に耐えかねて、半ば強引にアリスを横抱きに抱えると地下の通水路に向かって大股で歩き出した。
アレンとリナリーは一瞬呆気にとられた様だったが、直ぐに足音と小さく笑い合う声が追いかけてきたので、振り返らずに進む。


「…綺麗だと、思った。…なんか、花みたいで」
前を向きながら腕の中の彼女にだけ聞こえる程度に呟いた。
言い終えるまでに気恥ずかしさで顔が熱くなってしまったので、敢えて彼女の反応を見る事をせずに歩き続けたが、抱える身体は僅かに動くと肩口に小さな頭を預けてきた。
誇らしさを覚えた足取りは更に速度を増した。



歩くのが早すぎると後続の二人に怒られながらも、時間に余裕を持って教団の地下水路を出発し、慎重で緊迫した道程が始まった。
監査員達が水路を通る予想時間には早いものの、列車に乗るまでは注意が必要だ。もしも不運にも出くわした場合は、荷物用の布を被ってやり過ごすという、危うげな回避方法しか無いので今はただ神頼みする限りだ。

隣に座るアリスは小船が気に入ったようで櫂の動きを眺めたり、乗り出して水面を眺めようとそわそわしていたが、何かを思い出したらしく、急に大人しく座り斜向かいのリナリーを見つめる。
リナリーが優しく頬を緩めるのを見て、火が灯ったように表情が明るくなり、行儀良く座ったまま小さな鼻歌を歌い始めた。

まるで指導者と生徒のようだ。
道中アリスがはしゃいで危険な目に遭わないよう上手く手綱を引く為に、恐らくお姫様らしさの極意の伝授としてリナリーが上手く諭した結果だろう。
指南を受けた本人は素直且つ真剣に取り組んでいるので、逐一リナリーに可否を伺っている様が健気で可愛らしい。


地下の薄暗く代わり映えのない景色は退屈なので、アリスが落ち着かないのでは無いかと案じていたが、行き先について等他愛ない会話を楽しんでいたので道中は問題なく進めそうだ。



駅に辿り着くと、街人と似た服を着た見知った探索部隊の姿があり、上級車両の切符を手渡された。一般車両に乗車するつもりでいたので任務でもない場面で教団の権限を行使して良いのかと疑問が浮かんだが、上等な個室を設けられるのは気が張らなくて楽なので率直に感謝する。


列車での移動は、水路を通るよりも格段に快適で、晴れた日の光は明るく室内を照らし、風景は緑豊かな自然が流れていく。
オレ達にとっては慣れたものでも、幼い彼女には物珍しく、興味を唆られるようだ。リナリーの言いつけを守りたいが、跳ね回ってはしゃぎたい気持ちの二つに挟まれているのだろう。気もそぞろに頬を膨らませていた。

少し経って、どうやらお姫様らしくある事が打ち勝ったようだ。
粛々と豪華な椅子に腰掛けて外を眺めていた。

流れる景色を一緒に見つめて暫く経つと、真横の窓際に座るアリスは見かけたものを、あれは何かと通るたびに問い掛けて来て、その度に素早く答える遊びが始まった。
偶に適当に答えると、対面の二人から即時訂正と「嘘を教えないで」とお叱りが入ったり、誰も分からない珍しい建造物等があると全員であれは何だったのかと頭を悩ませたり推測したりと、無益だが会話の絶えない時間が過ぎていった。



少し長い汽車の旅が終わり、目的地の駅へ降り立つと、同じくこの街を目指していた人々が他の車両から列を成して下車していた。

この辺りでは大きな街なので普段から訪れる人が多い事は確かだが、それでも今回の数は異常だ。
汽車に押し込まれて乗車した人の殆どがこの街にやってきているのではないだろうか。
幸い、オレ達の乗っていた車両は最端にあったので、下車する人々の波に巻き込まれずに
、遠巻きに群れを眺める。

「もしかして、何かお祭りでもやっているんでしょうか?」
「そうかもな。外に出て見たらわかるさ」

今は夏の始まりの時期だ。催しがあっても不思議ではない。アレンの呟きに平然と返してはみたものの、この賑わいの正体がかなり気になっているし、もしも彼の予想通り祭りが行われているのならば、正直期待はする。

アリスはリナリーと「お祭りだったら良いね」と手を繋いで楽しげに話している。その目は、気になるので早く駆け出して行きたいという内心を露わにしているが、やはり身体は懸命に落ち着きを保っているので、彼女を見習わなければと気を引き締めた。

「人の流れが落ち着いたら、オレらも外に出よう」
無理に波の中に入ってアリスと逸れたら一大事だ。


ある程度人の数が疎らになったので、いよいよ待望の街へ足を踏み入れると、歓楽の賑わいと、遠くから響き伝わる陽気な演奏に出迎えられた。
様々な方向に人々が向かっていくが、顕著に盛況しているのは広い公園のある方面だ。かなり混雑している可能性がある。何が行われているのか大いに興味はあるが、子供の扱いに不慣れな自分が誤って彼女を迷子にしてしまうのではと不安が過ぎる。
どうしたものかと思惑していると、俄かに小指を握られた。

いつの間にかそばに来ていたアリスが眉を下げて、上目に此方を見つめている。かなり控えめに、広場に行きたいと訴えているのだろう。

この子はオレがその目に弱いのを解っていてやっているのだろうか。
祭りを目的としてこの街に来た訳ではないので、混雑が控えめな街中に向かい、軽く散策しながら店屋を眺めたり、休憩しながら食事を取ったり…という当たり障りの無い行程で一日を過ごすべきだろう。
アリスにそれを伝え、分かったと言わせることは難しくはない。けれど酷く落胆する事は容易に予想できる。
昨日ユウに夕食の同席を断られた後の、気の落ちた彼女の横顔が浮かんだ。

横目にアレンとリナリーに助けを求めて視線を向けるが、二人とも大層申し訳なさそうに明後日の方向を向く。理不尽ながら判断を委ねられた。


彼女に見つめられた時点で選択肢は一つしかない。一息吐いて、足元からアリスを片腕で抱き上げる。仰け反って落ちないよう、急いでオレの肩を掴んでしがみ付いてきた彼女の顔を覗き込む。
「しっかり掴まっていること。あと、混んでる間は降ろさねぇからな」

彼女は遠回しに要求が呑まれた事を解っていないのか、不思議そうに首をかしげた。

「よかったね、アリス!」とリナリーの明るい声に漸く理解が追いついたようで、確認するように期待と一縷の不安を込めた眼差しを向ける。口角を上げて頷くと、温かい頬を寄せて抱き着いてきた。



広場の入り口に辿り着くと、敷地内に花と草で飾られた大きな支柱が高々と立てられている。
奥では赤と白が主の民族衣装を纏った人々が音楽に合わせて踊っており、それを中心に街人や観光客も集まって見物したり合わせて自由に踊っている。側では料理や酒も振舞われているようだ。

溢れ返る程とまではいかないが、中心部は人の動きが激しいので近づかない方が賢明だろう。
広い敷地が幸いして、端の花畑には少女達が花を摘んで遊んでいたり、座って賑わいを眺めている人が居る程度なので、目一杯遊ばせてやれないのは忍びないが、アリスが良しとすればそこで妥協してもらおう。

二人に相談を持ち掛けようとすると、アリスと同じくらいの歳の三人の少女達が駆け寄ってきた。
彼女達はこの街に住んでいる子供達だろう。賑わいの真ん中で踊る大人達同様、色鮮やかな衣装を纏って、花冠を着け、髪に花を器用に編み込んでいる。

横並びに目の前で立ち止まると、息を合わせて「どうぞ」と何かを差し出してきた。数種類の花を編んだ冠だ。これを手渡そうとしているらしい。それぞれの少女達はアリスとリナリー、そしてアレンに向かっている。周囲を見たところ此処に訪れた女性だけに渡しているようだ。
明らかに男性の格好をしているというのに、アレンは女性だと思われているという事であった。

彼の表情を横目に伺うと、子供の明るく曇りのない笑みを向けられて、折角の好意を断れないのか大人しく受け取ってお礼を言っていた。

笑いを堪えながら、アリスが贈り物を受け取れるように屈むが、彼女は唐突にどこからともなく見覚えのある花冠を取り出して掲げた。
「わたしもきのう作ったんだよ」

どうやって保管していたのか分からないが、花は少しも萎れておらず水々しく咲いている。
それを少女に手渡し見せると、彼女達が作った物とは種類の異なる花が編まれているので、珍しげに眺めたり触ったりしている。「これは何の花?」と聞かれるのに対して、アリスは丁寧に答えてやっていた。

そして驚きの早さで打ち解けたアリスと少女達は、広場の隅に花が沢山咲いているので持参した冠にもっと花を付けようと話し始めていた。

愛くるしい小動物の様な瞳を向けて庇護欲を煽る彼女は、花畑を指差してまたしても一択の回答しか受け付けない問いを投げ掛ける。
「ラビ、みんなとあっち行きたい…いいでしょ?」

却下する要員は一つもない。むしろ人が少ない場所の方が都合が良いので、下ろすのは向こうに着いてからと条件をつけて快諾した。



少女達の輪にリナリーを取られてしまったので、様々な種類の管楽器と弦楽器が奏でる陽気な旋律と、合わせて歌う声や愉快な笑い声を背景の音楽として聴きながら、少女達が花冠を作っている様子を少し距離を空けた所に腰を下ろして眺めていた。


「アレンちゃんは仲間に入れてもらわなくて良かったんさ?」
「…やめてください」
「折角もらったんだし、それ付けたら?」
「遠慮します!」
性別の勘違いは無事解消されたのだが、だからこそ茶化して遊ばない手は無い。
ユウのように面白いくらいに挑発に引っかかっては貰えず、悉くあしらわれ「つまんねぇなー」と快晴の空を仰ぐ。
ゆくりなく何かに勢いよく正面から飛び付かれ、そのまま仰向けに押し倒された。
草と土が後頭部を受け止めてくれたが、呻き声を上げる程度には痛かった。

アレンは「アリス、急に抱き着いたら危ないですよ」と陰りの無い笑みを浮かべているが、内心ほくそ笑んでいるに違いない。そんな笑い方をしている。
お姫様らしく、を忘れるとリナリーに怒られるのでは?と厳しい教育係を探すと、街の少女達と屈託無く笑っていた。オレに対してはお姫様らしくなくても許容されるらしい。

自分扱いが余りにも粗雑だと心の中で涙を流していると、腹の上に座っているアリスが目の前に完成した冠を翳した。
花畑に咲いている花が何種類か追加されて彩りも形も随分豪華になっている。
上体を起こし、身に付けた姿を見せて欲しいと促す。

すると嬉しそうに冠を持った手を僅かに高く上げて見せた。乗せて欲しいという事だろう。
少しだけ乱れた前髪を整えてやり、両手で丁重に冠を受け取って、昨日と同じ様に小さな頭の上に乗せた。場所が公園の片隅で、尚且つ男の上であることを除けば、格調高い身形の彼女と、色とりどりの花が絢爛に咲く冠の組み合わせは、幻想的な戴冠式みたいだと柄にもなく思った。

アリスは立ち上がりスカートの端を持って、その場で片足を軸に一周回る。ひらめいた絹の裾と髪を飾る蝶の羽の輝きが、やけに時の流れを遅く緩やかに堰き止めているようだ。読み聞かせた絵本に出てきたお姫様の様だ。
そう思わせるのは愛情による偏った視野でも、身に纏っている物の魅力だけではなく、やはり彼女自身の素質ではないかと、眩ささえ覚える佇まいに改めて惟る。


「アリスちゃん、こっち来て!」

二人きりだと錯覚しそうな小さな世界は、少女の呼び声で呆気なく崩れてしまった。
呼ばれたアリスが微笑をひとつ残して輪の中へ戻って行くのを、名残惜しくも見送った。



子供達に民踊と童謡を教えられる様子を、アレンと他愛ない話をしながら眺めて暫く経つと、公園の真横に流れる川辺へ行くというので着いて行った。

さほど大きくない小川で、穏やかな音を立てて水が流れている。静かで涼しげな場所だ。
次は何をして遊ぶのかと彼女達の背を見て歩いていると、石橋を渡りかけている途中で立ち止まった。

「ここからなら、きっと向こうまで流れていくよ」
少女達の一人が橋から川を覗き込み、直線に伸びる下流を指差した。
すると、アリスとリナリーは少女の隣に立ち、二人揃って手に持っている花冠を、慎重に狙いを定めて川の真上に掲げ、息を合わせて落とした。

「折角作ったのに流しちゃうんですか?」
「うん。おまじないなの。ちゃんと流れて行くといいな」
リナリーの心配をよそに、二つの輪は止まることなく仲良く流れていき小さくなっていく。遂には目を凝らしても確認出来ない程下流の彼方へ去った。

見届けた彼女達は皆で喜んでいる。男二人はどう祝福するべきか考えあぐねて、どういう意味があるのか聞いたが、誰に聞いても「秘密」と言われて教えてもらえなかった。



ふと時間を確認すると、とうに昼を過ぎていた。あまり気に留めていなかったが、空腹が思考にくっついて離れないので、食事をとりにいこうと提案する。

移動時間を考えると、食事を摂った後、教団へ戻った方が良さそうな頃合いだ。

親切で友好的な街の子供達とは此処で別れる事になる。彼女達は別れを名残惜しそうにしていたが、笑顔で見送ってくれた。
そればかりか、街への近道も教えてくれたので、この街の人の良さを彼女達を通して垣間見れて、気分の良い別れだった。

勧められた道は石造の建物が建ち並び、僅かに影を作る迷路にも似た路地だった。地元の人間しか通らないであろう少し入り組んだ作りだったが、少女達の教えてくれた目印を確認しながら進んだ。
民家ばかりであったが、その中に薄暗い脇道、小ぢんまりとした店屋など、栄えた街の中心地とは違った表情があった。

街中の大通りに辿り着き、丁度料理店が目に付いた。歩き回る内に空腹が自重なく主張し出したので、別の店舗と比べることなく直ぐに店内に入って、遅めの昼食を食べ始めた。



食事が済んで店の外へ出ると、道を歩く人が随分と増えて混雑していた。

アリスを抱え、人の少ない場所に移動する為、アレン達に相談しようとすると津波の様に突然密度を増して流れる人の群れに分断されてしまった。
流れに逆らうことも、立ち止まることもできないので、少女達に教えられた裏道を目指し、人波を縫って道の端に向かって進む。

人間の壁の切れ目に、先程通ってきた石の壁の道が覗き、やっと脇道に抜けられると思った矢先、目前を煌びやかな蝶が横切った。
見覚えのある光色の反射に、アリスの髪飾りだと気づく。人の荷物か服に引っかかり取れてしまったのだろう。

一旦目当ての道に入った後、付近の地面を見回す。
幾つもの足が石畳を隠すように蠢いていてよく見えない。流石にこの往来の中にあるとしたらもう原形を留めてはいないかも知れない。
不意に視線を道の端へ逸らすと、地味な石の色に不釣り合いな鮮色を視界の端に捉えた。

幸いな事に、数歩離れた壁際に蝶が落ちている。壊れてもいないようで、壁伝いに行けば波に飲まれることなく手早く取りに行けそうだ。

アリスを抱えたままでは危ないので、彼女を降ろし「此処から絶対に動かないように」と伝える。
「わかった!」と元気よく答えた直後、背を向けていた人波の中から突然怒鳴り声が飛び出した。

何事かと一帯の人々は足を止め、それを押し退けながら派手に着飾った見知らぬ中年の女が険しい剣幕で小走りに近づいてくる。アリスを後ろに控えさせ、女の方を向く。

「私の娘をどうするつもりなの!?」
対面した女ははっきりそう言ったが、意味が理解できず、唖然とした。
すると女は隙を見計らって俺の背後のアリスの手を強引に掴み、引き寄せながら飛ぶように素早く大通りに向かって下がった。傍観する人々は女を避けるように道に空洞を作る。
アリスは突然の事に驚き、急に手を引かれても着いて行けず躓きそうになった。
追いかけて手を伸ばした瞬間、けたたましく女が叫ぶ。
「人攫いよ!誰か助けて!」

動きを止めて遠巻きに取り囲む人の群が、騒めいて様子を伺っている。

力任せにアリスを奪い返しても、此方が悪者にされてしまっては元も子もない。
説得を試みて「その子は自分の身内だ。勘違いじゃないか」と伝えたが、女は聞く耳を持たない。

彼女が何故思い違いをしているのかわからないが、出来る限り冷静に対話を望んでも、女はひっきりなしに叫んでいて声がかき消されてしまう。
次第に野次馬達の声も大きくなり自体は恐ろしい速度で悪化していく。周囲の目は明らかにオレを敵と見なして不穏な動きをしないように鋭く見張っている。

アリスは今にも泣き出しそうに震える唇でオレを呼んで、一歩踏み出そうとした。
その一瞬に気付いた女は、わざと視界を遮る様に彼女を抱き竦め、喚いて小さな助けを覆い隠す。


ーーー嵌められた。
気付くのが遅過ぎた。思わず足を前に出すと、忽ち周囲の人間達に腕や肩を掴まれ阻まれる。四方を囲まれて身動きが取れない。然う斯うする内に、騒ぎを早々に聞きつけた警官がやってくる始末だ。
イノセンスを使えば弾き飛ばす事は容易いが、一般市民を傷付けるわけにはいかない。付近にAKUMAが潜んでいた場合、街中での交戦という最悪の状況を招いてしまう可能性もある。

どうやっても最善が導き出せずに、ただ自身の身の潔白を主張するも、とうとう抵抗すらできないように俯せに取り押さえられてしまった。

アリスを抱えた女も取り囲む人々に紛れつつ遠ざかっている。
喧騒に打ち消されると解りながらも、奪われた彼女の名前を大きく空中に投げた。


女の短い叫び。その直後、耳鳴りすら覚える騒めきが止み、大人達の足の間からアリスの姿が現れた。力一杯暴れて逃げ出したのだろう。折角リナリーが丁寧に編んでくれた髪が解けてしまっている。そんな事など気にも留めず彼女は、オレを見つけると向かって駆け出した。

重くのしかかっていた力が緩んだ刹那。群衆から飛び出してきた大柄の男が、横抱きにアリスを持ち上げ、走り出した。事態に全くついて来ていない力の抜けた人々を後目に一瞬のうちに再び群衆の中に紛れ姿を消した。

抑える腕の力が緩んだ隙にすり抜け、男と同じ方向に駆け抜けた。全ての音が止んで高い叫声にも似た音が鼓膜に突き刺さる。目前がやけに波打って見えている。
事態を正常に受け入れられない思考のまま、一心に大柄の男の姿をはっきりと脳内に描きながら溢れる人の中を合致する影が無いか見渡す。

流れに逆らって路地裏へと向かう大きな頭が見えた。あれに間違いない。
誰にぶつかろうが足を踏もうが踏まれようが、見つめる先をただ目指して力付くで進んだ。


狭い道に入ったが誰一人見当たらない。だが石畳を蹴る音が静まり返った壁に反響している。間違いなくこの道を進んだ何処かに居る筈だ。
音を頼りに薄暗く狭い道の奥へと踏み込むと、一人の年老いた男が汚れた石畳に腰を下ろして酒を呷っている。この男に訊けばアリスの居場所が分かると直感した。

「女の子を抱えた大柄の男、見ただろ」
「…はァ?何のこと言ってんだ。お前」
黄ばんで不揃いな歯を剥き出し、男は嘲笑を浮かべた。

遂に焦燥に自律が破綻した。
酒瓶を引ったくり壁に叩き付ける。掴み掛かろうとして来た男の、脂ぎった髪を掴み、顔面を地面に打ち、抵抗が弱まった頭を引き上げ強引に起こす。濡れて鈍く光る割れた瓶を首筋に突き立てた。
「正直に言え」
「み、みた、どこにむかったかも、わかる…」
鼻や口のからの出血を垂れ流し、怯えて吃る男の情報を記憶すると、脅迫から解放する。予め持って来ていた金を取り出し、震える手の上に乗せた。
「悪かった」
男の表情も、暴力への許しも、最早どうでも良いので早々に背を向け、男に吐かせた道筋を全速で駆ける。

アリスを連れ去った男は女と組んでいて、裏では名の通った人攫いの集団の一員らしい。何時からか目をつけられてしまっていたのだろう。やはり彼女を不機嫌にしてしまったとしても、一般人と大差ない格好をさせるべきだったと、今更後悔が押し寄せた。


袋小路に辿り着く。
三方の壁の内、一つだけ廃墟らしく木板が打ち付けられた扉の入り口がある。男に聞き出した場所が正しければ、此処が誘拐犯供の根城だ。

けたたましい下卑た笑い声が扉を隔て、漏れている。
その中に聞き慣れた幼い声が、紛れていた。迷わず扉を蹴破る。

勢い付いて倒れる扉が衝撃を響かせ、宙に白埃を上げる。
中に踏み込み、静まり返った暗い室内の奥、白霞が晴れた先に目を凝らす。
そこには、男の無骨な太い腕で地面に押し付けられ、口を塞がれるアリスの姿があった。

太い縄で腕ごと身体を縛られ、服の装飾は汚れて裾は所々破れている。
彼女の見開かれた瞳は、溢れんばかりの涙を堪えて明かりの差す方向を見つめる。彼女が苦しげに目を細めると、縁からはらはらと幾粒も雫が流れ出した。

頭を冷たい食いで貫かれたような感覚。それから視界が真っ黒になった。



強い怒りを認識した時、大柄の男は大の字で床に倒れていた。オレは上から何度も何度も、拳を叩きつける。握り締めた拳を振り下ろす度に薄汚れた血が飛ぶ。
骨と骨がぶつかる感覚が無い。怒りが収まらない。

機械的に同じ動作を続ける腕を振り上げた時、上から掴まれ静止した。


「もうやめてください。この人、死んでしまいますよ」
冷静な声音とは裏腹に、腕が軋みそうな圧迫に、制裁の邪魔をする相手を睨み付ける。
腕を握る力が更に強まった。びくとも動かせない。

「キミがアリスを怖がらせてどうするんですか」

その名を聞いた途端に、拳の痛みや重み、黴と鮮血の混ざった臭い、全ての感覚が押し寄せて帰ってきた。

我を取り戻した視覚は、荒れ果ててぐったりと倒れ込んでいる何人もの男女を映し出す。
大柄の男に向かって行った際、襲いかかってきた連中だ。誰彼構わず、アリスの元へ向かうのを邪魔をする者は薙ぎ倒し、彼女を捕らえた男を叩き伏せた記憶が、今になって鮮明に記憶から引き戻される。
狂気に身を委ねた結果を目前に、解放された腕を力無く下ろした。


部屋を見渡すと、隅でリナリーが膝をついて小さな影に寄り添っている。

アリスを取返す事は出来た。けれど彼女は未だに怯えている様子で、蹲り顔を伏せて震えている。服は裂けて黒く汚れており、切れ間から露わになった肌には擦り傷がある。
安心させなければと、立ち上がろうとして、ふと拳に違和感を感じて見遣る。
その手には、血が凝固してこびり付いていた。

下から聞こえる、か細い呼吸に視線を移す。

内臓が迫り上がるような悪寒に襲われた。腫れ上がって原形を失っている男の赤黒い顔面は、自身に因るものだという証拠。
オレは無抵抗の人間を、殺す事を厭わない衝動を露わに、執拗に痛めつけていた。
…その恐ろしい姿をアリスの眼前に晒して。


「怖かったね、もう大丈夫よ」とリナリーは落ち着きはらってアリスに呼びかけ、抱き寄せる。
縋るようにしがみ付いた彼女の身体の震えは全く収まらない。静謐の中、少女の嗚咽だけが静々と耳に刺さる。

涙を拭う為上向きにされた頬には、赤く腫れた目の縁に留まりきらない涙が幾筋も流れていた。彼女が泣き止まない理由は、言うまでもない。

オレに出来ることは何一つない。
彼女にとっては、触れる事も、声を掛ける事も、近付く事でさえも、恐怖心を煽るだけの愚行となってしまう。

茫然と送られる視線に気付いたアリスが、ゆっくりと顔を向ける。
暗く沈んだ色になってしまった彼女の目を、真っ向から写してしまう直前、言いようもない恐怖に襲われ顔を背けた。

「二人とも、無事で良かったです。…帰りましょう」
優しく諭すように、肩に手が触れた。頷いて「悪い」と呟き、暗い部屋を後にした。

誘拐犯達がその後どうなったかは全く分からない。これまでの犯罪の証拠と共に逮捕されたのか、壊滅状態のまま放置されたのか、正直どうでも良い問題だった。



病院で手当てを受けた後、アリスの服を買い替え、帰路に就き、夜が落ち着いた時間に教団へ戻った。

その間一切彼女と視線を交える事も、言葉を交わす事も出来なかった。
彼女もまた、終始リナリーの側を離れずじっとしていたが、恐怖と緊張からの解放にいつの間にか眠っていた。

自身の判断の誤りで迷惑をかけてしまった事を、アレンとリナリーに詫び、予め今回の事件の報告を聞いていたコムイにも心配を掛けたと手短に告げ、アリスが起きてしまう前に、立ち去った。



自室へ戻り目を閉じる。

畏怖に黒々と影を孕んだ稚い瞳から、止め処なく涙が流れる光景。目蓋の裏に焼き付いて、何度も何度も終わる事なく浮かび上がる。

彼女の瞳に恐怖の対象として映る、正気を失った自分の姿、暗く淀んだ空気が充満する部屋、男の醜く腫れ上がった血塗れの顔。
眼を開けていないと、それらが容赦なく閉ざした視界を支配する。
眠るどころか、何もせずに寝転んでいるだけでも苦痛だ。


…アリスは安心して眠れているだろうか。今日の出来事が悪夢と変わり、安眠を妨げているかも知れない。
夢の中でさえも、激情に呑まれたあの姿は彼女を恐怖に陥れ、涙を流させているのかも知れない…。

そうやって彼女を案じる程、自責の念に苛まれ、会いに行くことすら出来ない無力さがもどかしい。

数時間程横になっていたが、無益な思考が駆け回るだけで、とても眠りに就けそうにはなかった。

外の風に当たれば、少しは気が落ち着くかも知れない。
今は微かにも浮かんでこない、アリスの笑った顔や、少女達と花畑で戯れる楽しげな声を思い出して安らぎたい。

同室人を起こさないよう、静かに寝台から降りて部屋を後にした。


Day three...

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