長編小説 | ナノ



 Mon amour plaît savoir


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感情は変わらず割り切れないままだったが、走る振動が穏やかになり眼を開け辺りを見た。
そこは、もう何年も近寄らずにいた場所。郊外の川に沿って聳える岸壁、治癒の泉の洞窟だ。
その大きな景観を照らす物は無いが、岸壁に沿って蝋燭に火が灯され、暖色の仄かな明かりが幽幻に揺らいでいた。いつの間に造られたのか、聖母像が洞窟より高い位置に空いた窪みに設置されている。

銀白色の獣は私を仕留める為に必死な様子だった。町中で暴れられるのは危険が伴う。
その為宿から一番近く、私を匿う場所がありそうな人気の無い場所として此処を選んだのかも知れない。
けれど、こんな形でこの地に訪れる事になるとは思わなかった。

「不安かも知れねェけど、しばらく隠れてて」
無意識に憮然とした面持をしてしまったらしい。気遣う語気でラビは告げた。
私は手厚く守られるに飽き足らず、これ以上彼に何を気負わせようとしているのか。
自身の利己を恥じて飛び降りがちに腕の中から降り、口端を引き締め深く首肯した。
そして暖かな光を身に受ける聖母像に近付く。私の背丈程の高さに位置する洞穴に登れるだろうかと思慮していると、軽く肩を叩かれた。
「アリス。その穴はすぐ行き止まりになってる。……こっち」

こともなげに手を引きながら彼が誘導したのは、膝を付いて身を低くしても一人ずつしか通れないであろう大きさの岩壁に空いた穴だった。
泉の湧く位置からも離れており、蝋燭の堵列が疎らになりつつある場所であまり目立たない。
この奥に身を隠せる程の空きがあるのなら身を隠すのに適している。

ラビは地面に置かれた小振りな燭台を持ち、追手が来ていないことを確認する。
燭台を私に手渡して「中は広くなってるから、心配しなくて平気さ」と朗らかに言った。
その言葉を信じ身を屈めつつ先に入った。幸い表面は硬い岩が覆っているが地面は粗めの砂が広がっているので足を滑らせることはなさそうだ。

入り口は随分狭かったが、入って直ぐに天井が少しずつ高くなり、程なくして立ち上がれる程度になった。それでも慎重に奥へ進むと、更に広がる岩肌を淡い光が照らした。
その途端、真横から冷えた風が頬と蝋燭の火を撫でる。立ち止まって照らしてみると、大きな横穴があった。
ある程度の奥行きはありそうだが、小さな明かりではどこまで続いているのかは見えない。何処へ進んだ方が良いのだろうかと振り返ってラビを窺い見た。
逡巡している様子で彼は横穴を凝視していたが「なんか危なそうだから、入るのはやめとこう」と向きを正して空洞の奥へ歩みを促した。

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幅広の空間は行き止まりになっていた。しかし奥行きも高さも、二人収まるには十分な広さだ。
居住できるとまではいかないが、四、五人は大人が立ち入っても窮屈にはならないだろう。
他にも空いている横穴はあるかと壁伝いを照らすが見当たらない。もしもここまであの機械の獣が追いかけてくるとしたら、冷えた風を通す横穴か、入ってきた洞口のみだ。

俄かに傍で摩擦音に近いさざめきが聞こえ、思わず飛び上がってラビの腕にしがみ付いた。
危うく手離しそうになる燭台の取っ手を強く握り、音の出どころを探るべく腕を伸ばす。
「あ。悪ィ、オレだった」
眼前に彼の手が差し出される。その掌の中に収まる蝙蝠が頻りに音を伝達しようと、人の声らしき音が混ざった雑音を発していた。

胸を撫で下ろしたのも束の間、口を閉ざしたラビは剣呑に蝙蝠を見つめていた。
この音はブックマン達からの連絡なのだろうか。だとしたら、彼等の交戦は終えている。それが意味するのは吉報か凶報か。蝙蝠の声は聞き取れないが傍の面持ちを見れば明らかだった。
足止めをすると言ってくれた二人の無事を惟る。もしも怪我をしていたら、早急に助けを呼んで手当をしなければならない。
けれど、機械の獣が私を探して徘徊しているのなら、無闇に立ち回らずこの場で大人しくしているのが懸命だ。
底深い恐怖と無力感に全身を包まれ、強張る身体の力が僅かに抜けた拍子に、懐に収まっていた腕が抜けていった。
「ダイジョブ。だから待ってて」
そう言って柔らかな笑顔を残し、ラビは洞窟の入り口へ踵を返す。

私を守る為に、彼は人の力を超越したあの存在と戦うのだと察した。
彼が笑って迎えに来てくれる結末を願いながら、ブックマンとユウの安否や、円やかな笑みを湛えたアジュールの姿を脳裏に描いた。複雑な感情が絡み、どんな顔で彼を見送れば良いのか分からなかった。

しかし状況の理解に反して、仄かに照らされる背が侵食する闇に飲み込まれていく不吉な錯覚を覚た。
気付いた時には彼を引き止めようと発作的に足を踏み出していた。

その瞬間、ラビの頭上の黎黒に更に深い影が揺らめいた。
本能的に出口は危険だと、一瞬にして鼓動が警鐘を激しく打ち鳴らす。
けれど恐怖に足が竦み動けなくなった。震える口元から声を振り絞ろうと開いても、掠れ声すら出ない。
彼との間は、もう一歩大きく前に出て腕を伸ばせば届く距離。それなのに萎縮した身体は指先さえ震えて自由がきかず、背中にどれだけ思念を送っても届かない。

己の無力の上に誰かが傷付けられるのは、もう嫌だ。
私が原因ならば、その決着は私がつけるべきだというのに、一体何が私を阻むのか。
静かな怒気にも似た心緒が沸騰するように胸の底から溢れ出す。

――私の声を返して!!
訴えるように強く強く念じた途端、遥か遠くから応答されたような気配を感じた。
声が出せる、と明確な感覚を得た。同時に驚くほど身体が軽くなり、思い切り地を蹴って力一杯に叫ぶ。
「ラビ!」
影の揺らぎが見えた辺りに思い切り蝋燭を投げ付ける。
驚き振り返ったラビに全体重を掛けながら勢い付けてしがみ着き、自身の身体で庇うように倒れ込む。
空を切り裂く音と、衣服を隔てた鋭利な刃が間近を通り過ぎる気配に、背筋が凍り付いた。

立ち上がることもままならず恐怖に再び硬直してしまった身体が間髪入れずに抱き掬われる。
訳が分からないまま、力が入らず浮かんだ身体は抱かれるがままに飛び退いた。
放った蝋燭の火が消えて明かりを失う直前、横目に大きな爪が再び空を切り、ふた振り目が頭上の岩盤を抉る光景が映った。
その衝撃は想像以上に甚大で、岩が崩れ落ちる轟音が暗闇に響いた。

][

身体に次々と岩がのしかかるのではないかと身を強張らせたが、何故か砂一つ降り掛かっては来ない。
暫くして破壊された岩が崩れ切ったらしく、喧騒は鳴りを潜めた。
更に機械の獣と分断されたのか、襲撃の気配も全く無い。

ラビが私を抱えて岩の崩れない所に避難してくれたのだろう。
もしかしたら、あの横穴に飛び込んだのかも知れない。
全く自身の力で身体を動かしていないので、先刻の位置からどれ程離れた所に居るのかさえ良く解っていなかった。

僅かに身動ぐと「アリス、怪我は!?」と傍で荒立つ声が聞こえる。
身振りでは伝えられそうにないので、恐々小声を発しようと試みた。
咄嗟の瞬間に叫んだものの、暫く声を出さない生活に慣れていたので、緊張で喉が震えそうだった。
「大丈夫、だよ」
思いの外判然と出せた音に、改めて声を取り戻したのだと認知し「ラビは、どこか痛くない?」と続ける。
「オレもダイジョブ。アリスがいなかったらやばかったかも」
とラビは声音に穏やかな笑いを含ませた。

「……本当に助かった。ありがと」
一転して低く真摯に紡がれた一言は、閉ざされた視界の中でより強調される。
この町で事件が起こって以来、……思えば今まで生きてきて、漸く初めて誰かを救えた実感が胸中に染み込んだ。
私の姿など見えていないと分かっていても、無意識に溢れた笑みが気恥ずかしい。
顔を隠そうとして腕を動かすが、思いの外動きが制限される。飛び込んだ筈の横穴は、見た限り狭くは無かったのに、と周りの広さを手で探った。

……明らかに岩壁ではなくて、比較的手触りの柔らかいもの。感触からして恐らく布だ。
布の下は岩ではなさそうだが、かと言ってそこまで柔らかくはない。少々弾力もあるような気もする。
そういえば冷えた岩に体温を奪われるどころか、寧ろ温められていると言っても差異の無いこの温もりはなんだろう。

疑問を浮かべつつ布越しにある物を撫でたり押したりしていた矢庭、傍から喉の奥で笑いを堪えているような声が聞こえた。
――……ラビ?なんでそんなに笑って……。
「あ……」
ふと直前を思い出し、自身はラビの上にのしかかっている状態なのだと思考が繋がった。
「ご、ごめん!すぐに退くから」
「えー。今更?」
軽やかな笑い声を零しながら、彼は器用に私を立ち上がらせ、和らいだ雰囲気を再び引き締める。
「さてと。まだあいつが近くにいるかも知れないし、一先ず外に出るか」
「うん。だけど、どこに進めばいいんだろう」
「こっちさ。奥に道が続いてる」
まるで視界が明瞭かのように的確な先導に「すごいね…。見えてるの?」と慎重に前進しながら感嘆を漏らす。
「職業柄っつーのかね。真っ暗なとこで動き回るのは慣れてるんさ」とラビは対照的に衒いもなく答えた。
昼間の会話では、現在の組織に入って凡そ半年だと言っていた。
彼の言う「職業柄」というのは、聖職者としてではなくブックマン後継者としての活動に紐付いているのだろう。彼にとっては現在の組織下よりも、過去の方がより過酷な状況であったのだろうか。

「そんな事より、声。やっと聞けたな」
見えずとも彼の破顔が思い浮かぶような弾んだ声音だ。
理由は判然としないが、漸く私は声を取り戻した。手放しに喜べる状況ではないものの、必要以上に縛り付けていた切迫が解けた心地だ。

「今更、だね」と先程の彼を真似し、余裕を込めて言うと「厳しいな。アリスはオレに甘いと思ってたのに」と言葉とは裏腹にやけに朗らかな調子で返ってくる。
そんな他愛ない遣り取りを交え、彼に従いながら進む洞穴は、幸いにも一本道のようだった。
それに、この先なら足を踏み入れても大丈夫なのではないかと不思議な安心感が足を突き動かしてくれている。
無言にならないよう、ラビが声をかけてくれる配慮が、不安を取り除いてくれる要因なのだと一人納得していると、緩く湾曲した先の岩肌に青白い光が揺れているのを視界に捉えた。
「もうすぐみたいだな」
短く相槌を打ち、互いに歩みを急かした。近づく程大きくなっていく光に、外に出られるという安堵が身体を少し軽くした。

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狭い道を抜け、広がる景色に恐怖とは真逆の感情で硬直した。
そこは外ではなく広々とした空洞で、明るく光を放っていたのは中心にある小さな泉だった。
限りなく白に近い青さを含んだ輝きは昼のような煌々とした輝きではなく、月明かりを水面に反射させたような淡さだ。水の揺れに合わせて踊りながら、岩肌を優しく照らしている。
空洞は四方岩で囲まれており、当然天井も夜空と繋がってはいない。この不思議な光は泉の中から放たれているようだ。

幻想的な光景に吸い寄せられ踏み出すと、砂でも岩でもない柔らかな感触が足元から伝い、見下ろすと地の一面が小さな花の群で覆われていた。
泉を囲い、隙間なく広がる花畑は薄青の小さな花の一種類だけで形成されている。
指先程の大きさの五弁花の群生だ。花弁の喉元には黄色く光を放っているような形の小斑点があり、泉の淡い光を集めて慎ましげに輝く姿は星のようだ。遠い母との過去を思わせる景色に、眼の奥が熱を持った。
そして酷く懐かしさに胸を締め付けるこの花は、見覚えがあるような気がするのに、何故か名前が分からない。
母への思いと、記憶にない郷愁が胸の内でもがき鬩いでいた。

ぽつりと「こんな場所があったなんて……」と声を漏らす。
身動きもなければ一向に言葉を発する気配のない真横を見上げると、景色を見つめる緑の隻眼が淡い光に揺れていた。
その相貌は私の抱く感動とは全く異なる、憐れむような切なさを包含しているように思えて、紡ぎかけた言葉を止めた。
私の視線に気づいて、彼は緩慢に此方へと顔を向ける。
その相好に浮かべられた仄かな笑みは、続けるつもりだった「知らなかった」という一言を詰まらせ、空想的な光景以上に眼を逸らすことが出来ない。

彼は泉へ向き直り「本当に、綺麗だよな」と呟く。目前の景色ではない、別の遠い何かを見つめているような眼差しだった。
無性に彼をこの場に引き戻したくて、無粋だが視界に割り入るようにして美観に踏み込んだ。
隙間なく咲き誇る花たちを避けるのは容易ではなく、少し葉を踏んでしまったが、泉に向かって進み出ると、入り口で止まったままのラビへ向き返る。
水面に合わせて揺れる光が、彼の眼に青く映っている。瞳の底の輝きが、懸命に留まる涙のように見える。

やっと私に眼を向けた彼は、微笑みとも苦辛とも付かない面持ちで、嫋やかに眦を細める。
すると縁で揺蕩う光が溢れて零れそうに強く揺らいだ。落ちてしまう、止めなければ。と衝動的に手を伸ばす。
彼は一瞬驚愕して背を僅かに逸らしたが、近づく指先を拒まなかった。無論、触れた頬は濡れてなどいないし、どんな心緒を抱いているのか知る由もないのに、何故か手を離せない。
見つめるだけで呼吸が上手くできなくなる程、胸の底から横溢する感情の理由が不確実で苦しかった。
「どうしたんだよ?そんな泣きそうな顔して」
ラビは私の手を掬うように取り、丁重に頬から離す。
「泣きそうなのは貴方の方だ」と返したかったが、彼の表情は和いでいるようで詮索を拒んでいるようでもあった。
加えて情けないことに、得体の知れない感情に押しつぶされて此方が涙してしまいそうだった。
粗雑に「平気。なんでもない」と笑みを返して会話を途絶えさせた。

「あの泉から、どうして光が出ているんだろう」
振り返って泉に眼を向け強引に話題をすり替えたが、彼は言及する事なく「近くまで行ってみるか」と苦し紛れの疑問に同調してくれる。
やはり深くまでは立ち入らせてくれない。彼の壁を感じて痛む胸中に気付かない振りを装い、首を縦に振った。

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草花の密度の薄い箇所を探しながら進み、泉の縁から中を覗き込む。
腕を伸ばせば届きそうな浅い水底。そこには白い砂が広がり、中心の地中から溢れ出る透き通った水に合わせて跳ねる粒子が輝いていた。
白い輝きの中に、鮮やかな発光を見つけ注視していると、一度だけ増した水流に砂が拡散した。
すると、歯車に似た輪のような物体が二つ円を描くように交錯しているのが露わになった。更にその輪の真ん中に乳白色で表面に多色の色彩を反射させる楕円の結晶がある。
こんな石は見たことがない。穏やかに遊色する姿は、少しも通じるものがないのに、母を想起させた。

もしや、この不思議な結晶が奇跡の泉を湧き立たせているのだろうか。
――だとしたら。
沈思しかけた直後、隣で屈むラビが泉の中心に向かって手を伸ばした。
考える間も無く、私は彼の腕を掴んで引き止めていた。僅かに大きく開かれた眼は、行動の意図を問いたそうに見つめ返してくる。
狼狽して受け答えにならない言葉が頼りなさげに口から溢れる。
「その石を、どうするの?」
確証は無いが、町の泉を治癒の湧き水たらしめる源は、不思議な結晶にあると予覚していた。
それが此処から離れてしまえば奇跡の力は崩壊してしまい、町に訪れる人々が途絶えればこの町の存続に関わるのではないか。
そして何より、力を失った泉は、私にとって完全なる母との離別に思えてならない。

「回収して保管するんさ。これも任務の一つだか、ら……」
神妙な面持ちで告げる彼の言葉は突如途絶えた。
私を映す瞳に激しい困惑の色が浮かび、慌てて視線を逸らした。
きっと今の私の表情は「持って行かないで」と懇願を色濃く表しているのだ。
恐らく彼も私と同様に奇跡の泉の真相を推察している。だからこそ同情を誘うような希う眼を向けられて当惑してしまったに違いない。
身勝手な考えだと理解していたのに、感情を表に出てしまった自身の忍耐の弱さを恥じた。

不確実な感覚から生じる個人的な事情など、詳細や目的までは解らずとも彼の任務とは比べる価値も無い。
利己の罪悪感に耐えかねて表面を取り繕った顔を向ける。
出来る限り明るい声音で「急に動いたから思わず止めちゃった。……邪魔してごめんね」と、掴んだ腕を解放する。
ラビは晴れない面持ちで水面に視線を落とす。
惟るように一度緩慢に瞬きをした後、石に手を伸ばすことなく立ち上がった。
「そろそろ行くか。いつアイツが現れるか分からねェし」
「ま、待って、持っていかなくていいの……?」
彼が私を気遣って、回収を諦めた事は明白だ。しかし、何一つ私は理由を告げていない。
露わにしたのは表情一つだけだ。それなのに彼が折れたのは何故なのか。これ程にあっさりと諦めて良いのだろうか。落ち着いた彼に反して焦ってしまう。
「よく見たら、別物っぽいし。それなのに自慢げに持って帰ったら恥ずかしいだろ?」
はにかむ姿は相変わらず男女構わず人を惹きつける清廉さを保っている。しかし、その笑顔が洗練され端整であればあるほど、虚偽を感じる。……剰え、自身さえも欺こうとしているようで。
「でも」
「いいんだ。……傍観者としてなら、きっとこれも間違いじゃないさ」

ラビが笑顔を作る程、引き離してはならないものから彼を遠ざけているような気がした。彼について知らない事が多過ぎて、何も出来ない。寧ろ何もしない事が正しい選択である自身をもどかしく思いながら、差し出された手を取った。
行き止まりになっていたと思っていた源泉の空洞には、もう一つ何処かへ通じる横穴が空いていた。
始めに辺りを眺めた時には無かったような気がしていたが、出口と成り得るか分からずとも進む道があったのは幸いだった。
ラビは外に出られるのか、行き止まりになっていないかという不安は無い様子で、私の手を握ったまま暗闇の道を進んだ。

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まるでその為に用意されたような短い横穴は、間も無くして私達を洞窟の外に出してくれた。
深夜にも関わらず大きく煌々とした丸い月が、待ちわびたと言わんばかりに此方を見下ろしている。背後には切り立った岩壁、向かいには岩場と土の境界を経て、深い木立が並ぶ森が広がっている。訪れたことの無い場所だった。
黒い視界に慣れてしまった所為で、目が眩んでいるのだろうか。木々の影が歪に蠢いている錯覚を見る。
次第に、その影の群れが濃く膨れ上がり始めた。空を仰ぐと月に厚い雲が重なりつつあった。
繋いだ彼の掌に力が篭り、後ろ手に隠すように前へにじり出た。
月の全貌が雲に覆われ、淡い光さえ届かない辺りは闇に包まれる。完全に光を遮断された穴の中よりは幾分かましな視界ではあるが、眼が慣れるまでは余程近づかなければ辺りの物は見えそうにない。
「わざわざ出迎えご苦労さん」
ラビが正面の森に向かって投げ掛けると、重々しい何かが土の上にのし掛かる音が響く。思わず身体が縮み上がった。
「アリスを攫って逃げても無駄だぜ」
突然肩に手を回され引き寄せられた。身体が密着し、低い声音が耳元を刺激する。状況にそぐわない行動だ。恐らく何か考えがある筈と理解していても、鼓動の高鳴りが煽られる。
「離れてもオレらは必ず巡り逢う。そういう運命みたいだからさ」
怒りなのか嘲りなのか、何かを堪えているように獣は項垂れた。そもそもラビの言葉を受けての挙動なのかも判断がつかない。しかし、すかさず耳打ちされた一言でその思惑を察知した。
「全力で右に走って」
告げ終わると同時に肩の温もりが失せ、緊迫が全身に駆け巡る。間髪入れずに言われた方向に向いて思い切り地を蹴った。続いてけたたましい哮りが辺りを震わせる。
駆け出して直ぐ、背後で岩が崩れ落ちる轟音が鳴った。急いで振り返ると、私達が立っていた付近の岩壁が深々抉られ、その衝撃で崩壊した空洞が隙間なく埋まってしまっていた。
ラビの姿は何処かと視線で崩れた岩場を探る。目を凝らしていると、金属を打ち付ける音が高く鳴り、岩の陰から飛び退く赤髪をどうにか眼で捉えた。
ラビは着地しながら構え直し、最小限の動きで周囲の気配を探っているようだ。月明かりの届かない影の空間に、巨大な獣の姿は何処にもない。
私も視線を懸命に彷徨わせて遠巻きに異変を察知しようと試みるが、先程見た影の微細な動作は発見できない。
再び鋭い金属同士の接触音が響く。間近に居たら耳が痺れそうな激しい衝撃音だ。しかし彼等の戦う様は全く追えず、状況の動向が全く分からない。何か手助けできることは無いかと辺りを見回したり、岩壁に触れてみるが、奇策が浮かぶでもなく不規則に鳴る打撃音を聞きながら立ち尽くした。

僅かに眼が慣れて、人の背丈程の大きな槌で、頭上を防御する体勢のラビの姿を確認することができた。瞬時に芳しくない戦況であると認識する。
私が目視出来たのは、ラビと、その頭上に暗闇から生える大きな腕と鋭い爪だけだった。
驚くことに、異形の腕は攻撃が彼の身体に届かないと悟った途端、まるで闇に溶けるように黒々同化して、次の瞬間には消え失せていたからだ。何度も響いていた音は鎌爪による攻撃をラビが防いでいた音だったのだ。

ラビはその場から動かず槌を構える。きっとこの闇の何処にあの巨躯が潜んでいるのか、彼も判断がつかない様子だ。神経を研ぎ澄ませて、気配や視界の端に現れる爪を見極め防御するだけで手一杯なのではないだろうか。
機敏な動きでラビは槌の柄を立てて身体の真横に移動させた。同時に硬く高い音が鳴り響く。
静止して見えたのは、ラビの脇腹目掛けて向けらる鋭利な切っ先。間一髪のところでそれを柄が食い止めている。

……何かが引っかかる。敢えてラビが紙一重で受け止められる程度に加減し、立ち回っているように思えたからだ。

不意に、数年前アジュール達と三人で剣術の真似事をして遊んでいた情景が浮かぶ。シモンが「絶対にアズの攻撃は俺には当たらない」と開口一番に豪語したある日の事。「それなら俺は、必ずシモンのここに当てるとしようかな」と余裕気に頭を指差しながらアジュールが返した。「かかってこい!」と自身満々に木の棒を構えたシモンは、宣言通りアジュールの打撃を全て完璧に防いでいたが、暫くするとそれまでの堅い守りが嘘のように、見事に背を取られて負けてしまっていたのだった。子供ながらにアジュールは戦いの才があるのかも知れないと舌を巻いた事をよく覚えている。
それ故だろうか。一撃一撃の素早さや威力、戦略と悟られない絶妙な間などは子供の遊びとは比べ物にならない程実戦的であるが、どこかに面影を想起してしまう。
あの機械獣がアジュールだと認めたくない自分がいる。けれど、もしも憶測が正しければ、じきに相手を欺く攻撃が仕掛けられる筈。

突然、足元から背を駆け抜け髪を逆だてるような直感が脳髄で弾けた。
殺気と視界にはっきり映る鋭爪でラビを前方に構えさせ、尚且つ渾身の力を込める偽の挙動で僅かな隙を見せる。その隙を好機と取って反撃の動作に入った所で、横を擦り抜け背後から仕留める筈だ。それがシモンを負かしたアジュールの戦法だった。

気配を覚ったラビが素早く初動を見せるが、その身体はやや前方に傾いている。攻撃をいなして反攻するつもりなのだ。恐らく彼は気付いていない。怯える拳を握りしめ、腹部を落とし込むように力を込めた。
「駄目、後ろ!!」
それが届いたのか、ラビは半歩踏み込み勢いをつけて腰を捻り、大槌を背に向かって振り抜いた。
耳鳴りを伴う重厚な衝撃音、突風、直後木々や葉が倒れ暴れ回る騒音が息をつく間も無く起こる。
どの状況から確認したらいいのか逡巡している間に、次は地を叩く音と足元から伝う振動が身体に伝わる。ラビの足元に赤く発光する大きな円が現れた。円の中には何らかの記号が描かれている。
瞬く間に円は光を強く発し、驚く事に天に向かって眼が眩む程の光線を放つ。曇天が真昼のように照り輝き、瞬時に霧散した。

夜空に残ったのは、星が霞む光を宿した月のみとなった。超常現象を目の当たりにして、いよいよ理解が追い付かなくなって来ている。
此方へ向いたラビが、実に屈託無く笑うので、彼は無事で、更に状況は好転しているのだという事だけは解って深く息を吐いた。

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周囲が明るくなったお陰で、他にも判明した事がある。私の正面に位置する森の一部が、穴が空いたように一直線に木々が薙ぎ倒されていた。どうやらラビの振った大槌で機械の体は弾き飛ばされた様子だ。
あの巨躯を彼が飛ばしたとは信じ難いが、枝を踏みしだく荒い足音で現実を受け入れた。森から駆け出して来た銀白色の獣は真っ直ぐラビに向かっていく。これまでのように何故か姿を消さず、月光に照る身体を晒したままだ。先程の大槌に因るものか、片腕が変形し力無くぶら下がっている。
それでも動きが俊敏である事には変わり無く、見えていても反応出来そうにない鋭い突きがラビに向けられる。
危ない、と叫びそうになるが、対して彼は軽快に躱して獣の頭部に槌の先端を突き付けた。
「焦ってんのか?動きがガタガタになってんぜ」
挑発めいた言葉には反応せず、素早く間を取った機械の獣は、森の影に向かって走った。
すると、どこから現れたのか、轟々と音を立てて巨大な炎の蛇が森へ逃げる道を阻む。また新たな追手なのか味方なのかと蛇の胴体を目で辿ると、どうやら地面から現れたことだけが解った。
蛇の燃え立つ身体の赤の他に、別の赤い光が地表に浮かんでいる。眩しさを感じて足元を見遣ると、地面が赤く発光している。左右に首を振れば、先程ラビが発生させた、記号を中心に置く円が一帯に描かれていたのだった。つまりはこの大蛇はラビが呼び寄せて操っているということになる。
銀白色の巨躯は蛇の隙を探って森へ向かおうとするが、更に巨大な長い体躯に退路を断たれていた。
「アリス!」
愁眉と剣呑の混在した面持ちでラビが私を正視した。炎の蛇は這い回って機械の獣を囲い、仕留める算段を整えている。
彼は私を案じているのだ。この場で留めを刺すことを躊躇ってくれている。もうアジュールに私の声は届くことも、失った人々が帰ってくることも、元の生活に戻ることも出来ない。覚悟を決めて、頷いた。

遂に決着が付く。その折柄、とぐろを巻く炎の中で、振りかぶった黒金の腕が勢いよく降ろされた。何かがこちらに飛んでくる。しかし複数の何かが迫って来るとしか判断出来ず、咄嗟のことに身体が硬直する。
――身体が反応出来ない、避けられない……!
反射的に腕で頭と首だけでも守ろうとした瞬間、目前を黒が遮った。
忽ち金属を弾く音、背後の岩壁に複数の何かが突き刺さる音。そして短く呻吟する声が耳に届く。頽れる黒い外套と赤髪が目に映る。ラビが私を庇って放たれた攻撃を受けてしまったのだ。
狼狽しながら屈み、彼に近寄るが片手で制止される。

「平気、だから。下がって」
立ち上がろうとするが片足に力が入らない様子でラビがよろめいた。すかさず後ろから支えるが、その拍子に真っ向から燃え盛る大蛇の体を突っ切って此方へ向かい突進する姿を目にした。刹那、身体が真横に突き飛ばされて軽く尻餅を付く。
速やかに居直りラビの方を向く。槌を突き出そうと構えているが、片膝を折ったままの体勢だ。このままでは上手くいっても相打ちだ。
――今なら、間に合う……!
気付けば身体は動き出していた。二人の間に立ち、炎に焼かれながら迫る異形な相貌を正面で目に映す。深い藍の、彼と同じ虹彩の眼を見据え彼の名を呼び、叫ぶ。
「もう誰も傷付けないで!!」
振り下ろされる黒い切っ先を目前に、衝撃を覚悟して眼を閉じた。

傍で硬い金属が衝突し、割れるような音が響く。自身の身体には衝撃も痛みは無い。
恐る恐る眼を開けた。
鋭爪は頭上で影を落としている。目前で静止している機械の体の中心を、私の真横から伸びる巨大な槌の先端が深々と貫いていた。
突き刺さった槌が縮み、支えを失った身体は背から倒れる。もう二度と立ち上がることは無い、直感で理解した。
重厚な鎧にも似た体に近付き膝を付く。そっと焼け焦げた頭部に触れると、忽ち外皮が剥がれ落ちるように黒金が散ぎ、人の姿が現れる。

その胸元には身体を分断しそうな程大きな穴が空き、破れた服と皮膚の中に、黒々と鈍く光る割れた金属と千切れた配線が剥き出しになっていた。
黒く沈んだ赤の液体が、歪な電子の雑音と共に溢れていた。表面は人間そのものでも、中身は人のそれと懸け離れた体は、残酷なまでに最早施しようがないと物語っている。

「……アジュール」
発した声は震えきっていた。狂乱した彼を畏れるが故ではない。
決心を付けた筈だったのに、今更彼を失う恐怖に動揺している。
眠りから目覚めるように、伏した瞳が虚ろに開かれた。空を見つめ、ぎこちなく首を擡げ、私を見つけた瞳は、悲哀を感じる程、澄んだ藍であった。
アジュールは私の名を弱々しく呟いた。雑音が消え、耳鳴りすら覚える音の無い空間で、その声は悲しい程鮮明に胸に沁み入る。
開いた彼の口端から、体躯から漏れるものと同じ色の液体が流れ落ちる。
「俺は、お前を傷付けては、いないか」
声を発する度に溢れ出る濃赤は口唇を染めながら肌を伝う。
放心のまま頷く。彼は安らかな微笑みを湛えた。
「ありがとう。止めてくれて」
彼が正気を取り戻し、私の声を聞いてくれたお陰だ。礼を言うべきは私なのに、それを言葉に出来ないまま、緩々と首を振る。
少しずつ暗さを纏う藍銅の眼に、月明かりが今にも溢れそうな露を湛えているように映り込んだ。
「……すまない」
最期の一言を告げた刹那、その身体は石のように生気を失い硬化した。瞬く間にひび割れ脆く崩れ、砂塵へと朽ち果てる。
彼の身体を必死に受け止めようとするが、指の間をすり抜け、全て落ちていく。
何一つ彼に伝えられなかった。懺悔も悔恨も無く。ただ静かに、地に落ちた恩愛の残滓を見下ろす。

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