長編小説 | ナノ



 Mon amour plaît savoir


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町そのものが不帰の眠りに就いているようだと、鈍く外灯が照らす家々の壁を見て思った。
或いは惧れに息を潜めているとも形容出来る。雲が月を遮り淀んだ静寂が蔓延る暗夜だ。道の端に寄り、身を隠すようにしながら郊外に向かった。

町外れの空き地に辿り着いたが、辺りを照らすものは無い。漆黒の中、辛うじて草木の輪郭が確認できる程度の心許無い視界。
携行照明は持っているが、自身の存在を目立たせたくなくて灯りを点ける気にはならなかった。
雲を隔てた僅かな月明かりを頼りに、周囲を見回し異変を確認するが、此処も変わらず静まり返っている。
昼間は懐かしさと悔悟を漂わせていた地が、今は、近づくなと拒絶を感じさせる気配を孕んでいる。
特に、洞穴に似た漆黒の境界を形成する木々の群れの先は、幼い思い出の余韻を排除し惨憺たる様相に変貌していた。

何かに呼ばれている気がする。
侵入を拒む気配とは別の、しかし明瞭とした音でも私の名を呼ぶ言葉でもない。ただ進めと促されているような不可解な感覚だった。
気を緩めず眼を凝らしても、気配の正体を突き止めるには至らない。
矯めつ眇めつ眺める程、得体の知れない存在に見張られているという虚構に恐怖が煽られていくだけだ。

――……怖い。これ以上先には進みたくない。引き返した方がいいかも知れない。
弱気が思考に滲み出し、足が竦み始めた。
震える足を諌めようと自身に言い聞かせる。
何のために母の時計から勇気を貰ったのか。私はまだ何一つ見つけていない。慎重に行動すればきっと大丈夫だ。
思考を落ち着かせながら深く呼吸し、結局活躍する場の無かった照明を足元に置く。草音を立てないよう忍び足で山の入り口に進んだ。

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細心の注意を払い、腰を低くし慎重に草木を掻き分ける。
確証無くひたすら奥に向かって進むが、不意に何処からか葉擦れが聞こえ、立ち止まった。
自身が立てたものではない。離れた場所から立てられた音だ。静止したまま周囲の音を拾おうと集中する。

矢庭に前方で大きく音を立てて葉の擦れ合う音が鳴り、慌ててその場に蹲み込んだ。
動物か人か。暗闇に多少慣れてきた眼を確と凝らし、その正体を捉えようと草の間から周りを一周見渡すが、音の主も蠢く葉も見つからない。
不可視の恐怖にじわじわと鼓動が肥大していく。それに合わせたかのように再び葉が騒立つ。

胸から脈打つ音が邪魔をして、一体何処から聞こえるのか、近づいているのか遠ざかっているのかが全く判別が付かない。
次第に冷静さを失い始め、焦燥が呼吸を荒くする。
このままでは音の主に察知されてしまう。この場にいるのは何者なのかなどと考えている場合ではない。
兎に角物音を立てないよう、両膝を地に付け、更に低く身体を縮こませ、口元を手で覆う。
ゆっくり細く息を吸い、同じくように吐く。
――落ち着けば何の問題もない。大丈夫……。

何度も同じ言葉を脳内に循環させ、漸く呼吸が整い出した。葉を押し除け踏み進む音は絶えず響いているが、少しずつ遠ざかっている。
安堵に全身の力が抜けてしまいそうになるが、推し止めて周りの木々や草木の隙間を注意深く観察する。
すると、視界の端で僅かに動いた影を捉えた。影は木々の密集する方へ進んでいるようだ。
大分距離があるものの大凡の位置は判断できる。接触せずとも、姿を確認できるかも知れない。
蠢く影から眼を離さず、半ば膝行に近い動きで鬱蒼の深部を目指した。

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影を追い掛けているうちに、これは人ではなく動物ではないだろうかという推測が浮かんできた。
私の進行が遅い所以もあるが、進む速度が早く迷いがないように感じる。尚且つ周囲を警戒している気配も無い。その為、間隔は段々と引き離され始めていた。
もしもこれが人であったなら、意図的に大きな音を立てて何かに自身の存在を意識させようとしているとしか思えない。しかし一体何のために。

私の疑念が浮かぶと同時に、葉の騒めきが止んだ。
気付かれてはいない。大丈夫だと何度も念じ、影が停止した場所まで心して進む。
近づき過ぎていない筈と推測した位置まで辿り着くが、身を隠す大きな木の幹から僅かに顔を覗かせ窺い見るも、人や動物の形らしきものは無い。
目測を誤ったかと思った矢先だった。

「ずっと、あんたじゃなければいいのにって思ってた」
聞き覚えのある声が何処からか発され、飛び上がりそうになる身体を木に押し付けるようにしてしがみ付いた。
一瞬で思考が真っ白になってしまった。逃げればいいのか応答すればいいのか判断が付かず、身を寄せる大木に縋って視線を右往左往させる。
すると、少し離れた正面の木の影から、暗闇に同化した色の外套に身を包んだ彼が姿を現した。
しかしその顔はこちらを向いておらず、彼の姿は半身しか見えない。

見計らっていたかのように雲の裏に隠れていた月が顔を出し、朧の光を木々の間から注ぐ。
赤い髪、険しく眼前を睨む翠の隻眼がほんのひと時だけ褪せた色を取り戻した。
今にも憤慨が破裂しそうな剣呑を宿した横顔。彼にそんな表情をさせる相手は一体何なのだろう。
太い幹が視界を遮り相手を見ることが出来ない。これ以上身を乗り出すと見つかってしまう。
幹の曲線に張り付きながら反対側に移動し、ラビの対面に居るらしい人物を見遣る。
木立が作る影の中にその人はいた。しかしまだその姿を暴く薄明かりは届かない。

突如、この場に似つかわしくない高い金属音が短く鳴った。原因を思案する間も無く、人影が歪に膨れ上がり別の形を形成し始めた。その間、重厚な金属同士が接触し合う硬い音が響き渡る。
雲が完全に晴れたのだろう。白い明かりが影に近づきとうとう全貌を明かす。

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照らされた場所に人間と呼べるものは居なかった。
そこには人の倍以上の背丈はあるだろう大きな物体が、聳え立つように有った。

重々しい光沢を宿した無機質な銀白色、二本の足は趾行動物を思わせる形状をしているが、獣らしい体毛は一切生えていない。全身が黒金で形成されているようだ。
やや前傾の状態から不気味に伸びる腕らしき部位の先端は、人の手宛ら五つに分かれているが、全ての先端は緩やかに湾曲し、鎌にも似た爪の様なものが生えている。

私は呼吸することも忘れ、現実とは余りにかけ離れた異形を凝視していた。
事態が全く飲み込めない私を置き去りにして、ラビの声が淡々と低く響く。
「どうしてアリスを陥れようとするんだ」
その問いに答えようとしているのか、ラビと相対する頭部と思しき局部の一部が上下に開く。長い上顎と下顎を持つ狼の類に似ている。
「陥れるだと?何を馬鹿な。全てはお前達が元凶だろう!」
答えた人工的な男性の音声は、不釣り合いな程強く感情的で、やけに耳に残る。
「俺はあの子をこの町に……俺の側に留めておかねばならない。それをイノセンスと人間共が邪魔をする。だから排除した」

私の名、それに付随する不穏な単語。眩暈を引き起こしそうだったが、辛うじて理解した。眼前の黒金の獣が町の怪奇を引き起こした根源なのだと。
告げられた「排除」の意味も、歪な巨体が物語っている。混乱、恐怖、怒り、悲しみ。押し寄せる数多の感情に耐えるべく、歯を食いしばり、樹皮に爪を食い込ませた。
そして胸中に渦巻くものを処理しきれない私を更に引き離すように、状況が急転し始める。

歪な獣は背を丸め、体勢を低く安定させながら、動物が獲物を見定めるが如くラビを直視した。
「俺からアリスを奪おうとするお前もだ」
今にも攻撃を仕掛けようとしている姿に慄き判断が全く出来ない。ラビに「逃げて」と強く念じた。

大きな足が地面に食い込み、いつ飛び掛かるのかという一触即発の事態の最中。
俄かに銀白色の体は戦闘態勢を崩す。更に覚束ない足取りで一歩二歩と後退し始めた。
「…………違う、俺は。もう」
数秒前とは打って変わって、別の存在だと錯覚しそうな弱々しい語気で機械の獣は呟き出した。
頭部を凶器宛らの手で抱え込む姿は、苦悩する人の姿のようだ。
襲い掛かる気配は失われたかのように思えたが、突如弱い意思を遮るように咆哮した後、突如ラビに背を向け辺り構わず腕を振り回し、一帯の木々を薙ぎ倒しながら暴れ回る。

ラビは機を逃さず追い掛け、黒い大槌を構えた。
何処から取り出したのか、ラビの身体よりも遥かに巨大な槌は、信じられない事に彼が大きく振り上げた時には、何倍もの大きさに質量を変化させていた。
一切気に留めず猛り狂う巨躯は、迫り来る大槌に隙だらけの背を向けている。
押し潰される瞬間、事切れたように停止した鉄の体が槌に触れるよりも早く地面に飲み込まれた。
続いて轟音を立てて大槌が地面に叩きつけられる。

ラビも一瞬の動きを見切っていたのだろう。素早く槌を引き寄せ周囲を見渡す。
当然ながら、地に残る巨大な円の跡の中には機械片も落ちていない。
四方でも頭上でもない何処かから「誰も近づけさせない」と、静まり返る木々の群れに宣言じみた一言を染み付ける。
まだ近くには居る。何処かで好機を図っているのか。息を押し留めて警戒したが、再び襲い掛かる気配は無く、辺りは異質な緊迫が消えて、静寂の空気が戻り始めていた。

]V

――やっぱり私は無関係じゃなかった。ラビはあの機械の正体を知っているんだ。だけど私は何一つ知らない。あんなに恐ろしいものがこの町に居るなんて、思ってもみなかったから。一体あれは何なんだろう。……誰、なんだろう……。

駆け巡る思惑に蹌踉めきながら立ち上がる。その拍子に足元の小枝を踏んだ。直ちにラビが反応し、此方に向かって構えた。
敵に向ける鋭い眼差しは、私を識別すると忽ち驚愕の色に染まる。
「どうして、ここに」
彼の隻眼は動揺を隠せない様子で見開かれている。私も彼に問いたい事だらけだった。
ラビは、あの異形の機械を誰だと認識しているのか、あれがパトリックやシモンの失踪に関わっているのか、目的は何なのか。

私に駆け寄ってきた彼は、背を丸める様にして屈み私の目線に近づいた。
「アリス、今は説明してる余裕がないんさ。絶対にオレの側から離れないで」
私の混乱を少しでも和らげようとしてくれているのだろう。焦りを感じさせない落ち着いた語気で言い聞かせるように言った。
「歩けそう?」
口角を僅かに上げて手を差し出した。
微笑に誘われるまま考えもせずその手に触れた瞬間、朧になりつつあった意識が引き戻され鮮明になった。

触れた掌が、私と大差ない程冷え切っていたからだ。
事態を理解できず困惑し、焦燥しているのは私だけだと思い込んでいた。
けれど目の前の彼も、平然を保っているように振舞ってくれているが、この異常な状況を当然とは思っていないのではないか。
勝手な憶測に過ぎないが、彼の体温のお陰で少し落ち着いた。
気を引き締めるつもりで唇を噛み締め、返答の代わりに強く彼の手を握った。

]W

繋いだ手を離さず、誘導されるままに来た道を戻る。
途中から彼は懐から丸い蝙蝠に似た単眼の……生き物を象った機械を出し、何やら呼び掛けていた。
「オレが当たりだった。……でも、悪ィ。逃げられた」と彼が告げると「間抜け。で、何処に向かった」と羽搏く蝙蝠から発せられる。
「多分、町中に戻ったっぽいな。体を液状に変化させるか、影に同化させる能力を持ってるみてェさ」
「……それと、暴走し始めてる」
「ならば被害が出る前に町中を捜索しよう」
寂声を蝙蝠は放つ。少なくとも二人とラビは会話をしている様子だ。
恐らく最初に発されたのはユウの声、そして今の声はブックマンのものだろう。
この珍しい機械は音を通し合う性能を持っているのだろうか。聞こえる声調には僅かに雑音が紛れている。
「あー。オレ、アリスを宿に送り届けてから合流します」

「……は?」と、二重に重なった低い声音を蝙蝠が伝達する。
対してラビは「違う違う!連れ出したんじねェさ!偶然居合わせたんだって」と慌てて抗議するものの、蝙蝠は答えることなく無音を貫いていた。
「くそ、二人揃って切りやがった……」
きっと度々似たような遣り取りをしているのだろう。私がこんな状態ではなければ嫌疑を晴らす事も出来たのに。
少々気が咎めたが、それ以上に緊迫の中で突然現れた日常じみた会話に、不謹慎ながらも足取りが軽くなったような気がした。

ラビは黒金の獣の行き先や気配が解るのか、慎重ではあるが周囲を具には見通さず、確かな足運びで宿のある方角へ向かって進む。
襲撃を受けることなく薄明かりの町並を抜け、宿の外観が見えてきた所でラビの歩みが俄かに遅くなった。
合わせて歩みを小さくしながら家々を見回す。先ほどの脅威が嘘のように辺りは無音であった。
宿を出た時と変わらず生気を感じない深い静けさだが、寧ろ外に出たばかりの時よりも一層沈んだ世界にいる感覚すら覚える。

戦う必要があれば、私は間違いなく足手纏いになる。道中のラビと蝙蝠の会話から察するに、今私に出来るのは部屋で大人しくして身を守る事だけだ。
鈍くなった先導の足取りが完全に停止したので、私は彼の手を離して宿に戻ろうとするが、再び掴まれ強く引かれる。

「行くな」
振り返りラビに意図を尋ねようとするが、彼は私を通り越した街路の奥を注視している。
その視線を追い息を飲んで身構える。すると時を待たずして暗がりから足音が聞こえ始めた。
近付いている。
やけに遅いが、重々しい音ではない。人の靴音だろう。
仄暗い道に人影の輪郭が浮かび上がる。既視感のある光景に思わず身震いした。
そして、私達からは少し離れた街頭の明かりの許、その姿が照らされる。

]X

俯きがちに歩むその人の顔はよく見えない。
しかしその背格好、衣服、髪、出立の全ては、たった一人の姿を脳髄から引きずり出し、同一であると結び付けた。
折柄、答えを提示するようにその人は立ち止まる。
握られる手が圧迫される痛みを感じた。

此方へ顔を向けた瞳は、よく見慣れた藍銅。
けれど普段絶えず灯っていた優しげな輝きは、淀みに沈みきったように消え失せている。
「ああ、良かった。そこに居たのか。皆がお前を隠しているのだと思って探したよ」
背後を見返り彼は微笑んだ。
全てのものが息を押し殺したような静謐の中、張り上げられているわけでもないのに、その声は奇怪な程清澄に耳に届く。

ふと、端正な横顔に似つかわしくない赤黒い汚れが、首筋や頬に飛び散っている事に気が付いた。
一度その違和感が目に付くと、彼の服、特に袖口に染み付く色が視界の中で鮮明に主張し始める。
追い掛けるように、彼が振り返った先へ目を向けた。
灯に薄ら照らされ、黒々とした足跡のようなものが並ぶ家々の入り口付近に付着している。
そして、私の家。宿屋の入り口にも同様の跡があった。
――まさか、まさか……。

「そんな事より。アリス、そいつの傍は危ない。此方へ来るんだ」
酷く穏やかに笑って差し出した彼の掌は、離れていても見紛う事無い鮮やかな赤がこびりついていた。

初めて命の危険を感じた瞬間だった。
鼓動が尚強く脈打っている。咽頭の血管が圧迫されているようで吐き気すら湧き上がる。
平常を保つつもりだったのに、気持ちの悪い浮遊感が邪魔をして上手く力が入らない。小刻みに震える膝が呆気なく崩れてしまいそうだ。
歩くどころか足を伸ばして立つことさえ、数秒保つだけでも困難に思った事など今までない。

「忘れてしまったのか?信用するなと言っただろう」
私の明らかな動揺を気にも止めず、彼は近付いてくる。
畏怖に腰を抜かしそうになった瞬間、背後に手を引かれ黒い外套が眼前を遮った。

「大丈夫、必ず守る」
正面を向いたまま、小さく告げられた言葉に、ラビが私を背に隠してくれたのだと何とか理解する。
頷き、僅かにその背に凭れ掛かった。
「あんたにアリスは渡さねェよ」
「やはり、もっと……。もっと早い内に。殺しておくべきだった」
隔たりがあっても伝わる鋭い気配に、背が冷たく粟立つ。自身の取るべき行動を、散らかる思考の中で懸命に漁るが、正当と思える答えが見つからない。
困惑に白けつつある役に立たない脳髄に焦慮が溢れ、己の無力に奥歯を噛み締めた。

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突如。背後から凄まじい速さの追い風が駆け抜けた。
「小僧、ここは二人で食い止める」
間近でブックマンの声が聞こえ、彼の言葉からユウも駆け付けたらしい。
しかし二人の姿を確認する間も無く突如足が地面から離れ、身体が宙に浮いた。

「じじい、ユウ、頼んだ!」と頭上からラビの声が聞こえ、首を左右に振ったところ間近に銀の紋章が見えた事で横抱きにされているのだと分かった。
駆け出した振動が大きく身体に響き、思わず彼の肩にしがみ付く。
突如、獣と金属音が融合した咆哮が界隈の空気を激しく震わせる。森でラビと対峙していた異形の獣の声だ。

未だ認めたくなかった。
あれはアジュールじゃない。彼は家族を、大切な友人を、町の人々を傷付けたりなんてしない。
脳内で否定を繰り返しても拭えない酷薄な真実に、視界が滲む。
けれど今は腑甲斐なく悲嘆している場合ではない。
熱くなる目蓋を強く閉じて波打つ感情を鎮めようと、私を懐く身体へ縋るように身を寄せた。

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