酩酊ユーフォリア
リーマンパロディ

「本当だ」

ひどく冷たい手のひらが、すり、と赤みの残る頬をひと撫でしたのち。甘く低い声が満足そうに落とされた。

「熱いね。すごく」

体の奥で新たに生まれる、じわじわと心を蝕む熱。思考さえもぼうっとするような夢見心地の感覚は、あの時と全く同じものだ。想いを伝えた時の言葉。差し出された手の感触。鳴り止まない己の鼓動。ソファの冷たさに、与えられる唇と舌の甘さ。

「――っ、からかって、ます…?」

陶酔していたい回想を無理やり打ち切り、天子は乱暴に頬を擦る。恨みがましい目をおずおずと火野に向ければ、夜を飾るに相応しい笑みを乗せて彼はかぶりを振った。

「まさか。からかってなんかいないよ」

そうしてベンチから颯爽と腰を上げ、天子の髪を乱すように撫でてから、火野はあっさりと引き戸の奥に消えてしまった。唖然とした天子が、目前で閉まったドアを数秒間凝視したのちに呟く。

「……やっぱからかってんじゃねーか」

未だ熱を孕んでいる頬をもう一度擦る。触れられただけでこんなにも余裕を失くしてしまうなんて、自分の度胸も大したものじゃない。ジャケットのボタンを留め直し、戸口を横目に進退を考えあぐねる。

(戻らねえとやべーよな)

あの場で啖呵を切ったはいいが、天子の酒の弱さは全員が承知している。招かれた側の人間として、要らぬ心配をかけ続けるのはやはりいたたまれない。でも。

(もうちょっとくらい、余韻ってもんがあってもいいだろ)

氷のように冷たい手の感触が残る頬は、夜風になぶられてなお熱い。早くも酒が回っているのか、卓に戻ったところで『何でもない』顔でいられる自信がないのだ。
見つめ合ったあの瞬間。ここが往来でなければ、二人きりの空間なら、とんでもない台詞を口走っていたに違いない。身も世もなく、彼を求める言葉を。

(くそ……)

彼は何を思って自分に触れたのだろう。今も、ひと月前も。天子が抱えている欲とはまるきり違うものだったはずなのに。

「!」

入口が再びガラガラと音を立て、天子はびくりと身を縮める。が、視界の端に映った見覚えのある鞄に、ぱっと顔を上げるなり目を剥いた。

「は? 俺、の……」

「そう。はい」

至極当然のように頷いた火野が、片手を突き出して天子へ荷物を押し付ける。もちろん紛れもなく己の鞄だが、ここで渡される意味がわからない。慄きながら持ち手を握ると、腕を掴まれ罪人の如く引っ立てられる。

「ちょ、どこにっ……」

前のめりになる上体を起こして気づいた。彼も彼で、自分の荷物をしっかりと手にしているではないか。ひどく混乱しているのは何も酔っているからではあるまい。手首を引かれるままに店の前をよろよろと通り過ぎ、やかましい歓楽街を裏に抜ければ、すっかり闇の落ちた駅前の景色が広がる。

「帰るよ」

笑うでも怒るでもなく、『今日は天気がいいね』を告げるくらいの気楽さで火野が振り返ってきた。金曜の夜と呼ぶにはまだ早すぎる時間帯、ロータリーに並んだタクシーの運転手はみな暇そうに辺りを眺めている。

「かえ…!? いやっ、だってあいつら…!」

「ああ、適当に言いくるめておいたから大丈夫」

薄く微笑み、有無を言わせぬうちにタクシーの窓をコンとノックすると、夕刊を読みふけっていた運転手が慌てて後方を振り返り、忙しなく新聞を畳んでドアのスイッチを入れた。誂えた隙間に押し込まれ、天子は狼狽える他ない。

「とりあえず四丁目の××病院までお願いします。詳細は近づいてからで」

「は、はい」

乗り込んだ火野が端的に告げれば、運転手はシートベルトを締め直してからアクセルをきつく踏み込む。目的地には一度だけ聞き覚えがあった。
発進するまで離してもらえなかった手を握り締め、天子がおずおずと問い掛ける。

「…なんか、怒ってます?」

「怒ってないです」

間髪入れずに向けられた笑顔と敬語がただただ恐ろしく、顔色を失くした天子は柔らかなシートの上で尻をもぞもぞと動かして距離を取る。

「なんてね。てんこの真似」

店先での会話を模倣しただけだと言う。火野は天子との間に置いてあった鞄を、窓際にひょいと退かして距離を詰める。逃げ場を失った天子は諦めの吐息をつき、声を潜めて続けた。

「んじゃ、なんでこんなこと…」

「おや、てんこが言ったんでしょ? 話したかったって」

天子に倣って声量を落とし、火野は前方の席をちらりと窺う。ラジオは交通情報を絶えず流しているが、さすがにこちらの会話は嫌でも耳に入っているだろう。天子はぎょっと目を見開いて反論する。

「そんなん、別に今ってわけじゃ…」

「わからない? 自覚が足りないって言ってるんだよ」

言葉尻を乗っ取られた天子はつり上がった目をさらにきつくしたが、無防備な手の甲をつうっと指先でなぞられ、もう片方の手で素早く口許を押さえつけた。恋人のあからさまな反応に、彼は喉の奥で低く笑い、尚も揶揄するように火照った耳元へ口を寄せた。

「そんな顔で、どうやって戻る気だったの?ってこと」

毒々しいほど甘い囁きと共に、緩く爪が食い込んだ手がじんじんと熱を訴える。俯いたまま何も言えなくなった天子をよそに、火野はごくあっさりとした声色で、目的地の子細を前方へ告げた。

ーーー

ひと月前と何も変わらない一室。天子と同じ、あの夜から時間が止まっているかのようだ。
身勝手に跳ねる心臓、か細く震える吐息。静まり返った部屋に落ちる、妖しくも愛しい誘いの言葉。

「おいで」

甘さを多量に含んだ声でリビングへ招かれ、うろうろと目線を彷徨わせた挙げ句にソファ横のラグへしゃがみ込む。テーブルの下に鞄をぽいと投げ出せば、火野はソファに腰を下ろして座面を叩いた。

「どうしてこっちに座らないの?」

「別に…」

自分の単純な思考など、手に取るようにわかるはずなのに。わざわざ答えを訊いてくるところが厄介で、視線を逸らせば髪にぽんと手のひらが乗る。

「そういう反応されると邪推したくなるなぁ」

「………」

「思い出したの?」

これ以上ないほど直接的な台詞に、髪の先がふるっと揺れる。元から熱を持っていた頬がじりじりと痛むほどに燃え、天子はたまらず腰を上げた。そしてどっかりとソファに乗り込み、眉を寄せてうつむいたまま口を開く。

「こっちだって思い出したくなんかねえ。あんな――キスくらいで腰抜けてバカみてーにだらだら汗かいて…そりゃ、元から好きでも何でもねえならすぐその気になるとかできねーし、ドン引きされても仕方ねえ…けど」

直近一か月の鬱憤をぽつぽつと漏らしているうちに、己に対する嫌悪が否応なしに募ってきた。情けなさに涙が滲みそうだ。
一方で、うーん、と火野は軽く首を傾げてから頷いた。

「もしかしてとは思ってたけど。やっぱり、覚えてないんだね」

「は?」

「僕がてんこに何もしたくないと思ってるんでしょ?」

「えっ……そりゃ、まぁ」

『何も』の『何』は言わずもがなそういうことだろう。歯切れ悪く同意を示せば、天子の記憶からすっぽり抜け落ちていたらしい、あの夜の本当の顛末を火野が話し始める。

「眠った時のことは覚えてる?」

「あー…朝早かったからすげー眠くて、ベッドでそのまま寝落ちて…」

「寝落ちる前は?」

えっ、と天子は瞳を見開く。入浴後の火照った肌に愛する人の残り香とベッドシーツの冷たさが心地よくて、うつらうつらしているうちに眠ってしまって――ではなかったのか。驚きを隠せぬ表情で、緩くかぶりを振る。

「僕がお風呂から上がって寝室に来た時、てんこはまだ起きてたよ」

「は!? え、なんで…いや、何して…」

「枕に頬擦りしてたね」

「うあぁぁーーーーー!!!?」

想像に耐えないひどい絵面だ。頭を抱えて絶叫した天子にくすくすと笑みをこぼし、火野は続きを語った。

ーーー

ガウンを引っ掛けて寝室へ戻ると、ベッドの上で『恋人』が揺れていた。眼鏡をかけ直してよく見れば、彼は抱き締めた枕にぐりぐりと額を擦り付けていて。

『そんなかわいいことして待っててくれたの?』

『ん………』

大小様々なサイズのうち、一番大きな枕を抱えた天子がゆっくりと振り返った。ベッドランプに照らされた頬は真っ赤だ。サイドボードにはミネラルウォーターのボトルとビールの空き缶。おや、と火野は目を瞠った。飲み物はベッド横の簡易冷蔵庫から好きに選んでいいと言ったが、風呂上がりにまた酒を呷ってしまうとは。それだけ気分が高揚していたのなら悪い気はしないが、翌日の具合を考えるとやや懸念が残る。
火野がベッドに腰を下ろせば、枕を放った天子が膝でシーツを進んできた。アルコールが回っているのか、やはりどこか覚束ない。
口を開く前にぎゅっと背後から抱きつかれ、火野は小さく吹き出してしまう。素面ならもう少し堪え性があっただろう。


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