酩酊ユーフォリア
リーマンパロディ

「研修で疲れてないか? ちょっとぐったりしてるみたいだけど」

「疲れてるに決まってんだろ。技術抜けて女のケツ追っかけてる奴と違って、こっちは必死で勉強してんだ」

「追っかけてないよ! や、違うからねちーちゃん! 比喩! 比喩だよ!」

三歩ほど後方で会話を耳にした白峰が露骨に眼差しを強めると、時宮はぶんぶんとかぶりを振りたくって彼女に迫る。軽やかなヒールでさらりと彼をかわした白峰は、前方の彩音に呼ばれるまま素知らぬふりで歩調を早めた。うう、と哀れな時宮が追いすがってくる。

「俺は普通に彼女がほしいだけなんだよぉ。総務に異動したのだって、仕事きつくて遊ぶ暇なかったからだし」

「会社に何しに来てんだてめえ」

「仕事はするよ、もちろん! でも俺はさ、生活できるくらい稼いだら後は遊びたいんだよ。今の時代、プライベートも同じくらい大事じゃん。ライフワークバランスって!」

「時宮くん。正しくはワークライフバランスです」

振り返った白峰がそっと訂正すると、そーだっけ、と時宮はちょっと嬉しそうに頭を掻いた。いちいち揚げ足を取るなと天子なら舌を打つが、時宮は女性から素っ気なくされるのが一番ダメージを食らうらしい。元蓮華高校きっての構ってちゃんである。崩した相好をちょちょいと整え、だからさあ、と彼は天子に向き直る。

「君からも言ってやってよ、あいつに。残業ぶっちぎってないで、少しは休めって」

あいつ、とは言わずもがな時宮の幼馴染――そして知る由もないはずだが、恋人となった火野を指している。働き方改革とかいう国の身勝手な基準で横槍を入れられる総務からすれば、開発課はほとほと扱いに困る存在だろう。天子は瞬時にそっぽを向く。

「言うわけねえだろ。俺は別に、それがおかしいなんて思わねえし」

「えぇー。そりゃ俺も理系の端くれとして、研究開発ってのがどんだけ大変かはわかるけどさぁ」

「合コン野郎が理系だのなんだの言うんじゃねえ。だいたいそんなん軽々しく――」

言えるわけがない。
吸い込んだ夜の空気が、肺をきつく締め付ける。無意識にスーツの合わせをぐしぐしと擦って、天子は口をつぐんだ。白峰をあの手この手で女子会に誘おうと意気込む彩音や凛を追い抜いて、ひとり先頭をぽつぽつと歩き始める。

(なんだ……言えるわけないって)

ここ一か月で交わした散々なトーク履歴を思い返して、天子はぐっと冷たい手を握り締める。
――会いたいとか、時間を作ってほしいとか。言えないのではなく、言わないだけだと思っていた。信じていた。頭のてっぺんから足の先まで、彼の全てを理解できると自負していたからだ。
たかが恋人になっただけの自分より、知的好奇心の赴くまま没頭できる研究が優先に違いないと、確信していたはずだった。どこぞの女のように、覚えたての『好き』と『会いたい』ばかり吐き連ねるなんてごめんだ。鬱陶しいなんて絶対に思われたくない。せっかく――

(せっかく、報われそうなんだ)

明るすぎる街灯を避けながら、冷え切った脚はよろよろと前方を目指す。
きっと間違いが起きたのだ。火野の中で、何かが狂ったとしか思えない。散々というほどはぐらかしてきた自分の気持ちを、あんなにも優しく掬い取ってくれるなんて。酩酊と疲労が引き起こしたバグに違いない。
だから正してはいけないし、そのきっかけを与えてはならない。彼が違和感に気づかぬよう、密かに様子を窺ってきたつもりだ。
無意識に己を縛っていた鎖の正体が、薄汚れた小狡い想いそのままに、目前へ姿を現していく。
彼もまた、間違いに気づき始めているのかもしれない。もともと火野は薫やあの男のような、儚くて頼りない、可愛らしい存在が好みなのだ。膝に乗せてスイーツをちらつかせながら甘やかしたり、からかってみたり、その反応を逐一楽しむのが好きだった。経緯はどうあれ、昼間の彼と接するうちに『やっぱり』と心変わりしたのではないか。彼が非凡な才覚を持っていれば、尚更興味を引かれたことだろう。

「先輩、青ですよほら!」

駅前大通りの歩行者信号が変わり、人波が続々と駅方面へ流れていく。ぼうっとしていると後方から大勢に体を押され、追いついていた彩音にも促される。
アーケード街に差し掛かると、週末の賑わいで活気づいた店はどこも眩しいばかりの明かりと客引きで溢れていた。直との会話を切り上げた零がひょいと一歩先に出て、あの店です、と初見の時宮や白峰に声をかける。

「大人数で行くのもなんだし、薫たちも待ちたいんで、とりあえず予約の確認だけしてこようと思います。ちゃんと席取れてるか、ちょっと心配なんで。みんなはここで待ってて」

幹事らしくみなを仕切ると、零は自慢の脚力でたったと軒先へ駆け込んでいった。立花くん、と時宮が何故かその後を追う。

「俺も行く!」

見れば、大学生と思しき女性の団体が店の前に立てられたメニュー表をめくっていた。店選びで迷っているのか、どうする?などと数人が顔を突き合わせている。近くにある女子大の学生だろうか。残った面々は時宮の目的を緩く察し、僅かに呆れた。

「水川先輩、仕事大丈夫だったかなぁ?」

スマホの時計表示と通知を見て彩音が問いかける。大丈夫じゃない?と凛もグループLINEに変化がないかをチェックしつつ返した。

「遅れるなら一言ありそうだし。歩いても大したことないから、タクシーならすぐでしょ。にしても、ラボも大変な時は大変よね。先輩もまだ入ってちょっとしか経ってないのに」

「人足りないのかな。でもね、今度新しい人が入るんだよ。桜――」

どこか嬉しそうに続けた彩音を、結城さん、と白峰が静かにたしなめる。

「子会社とはいえ、人事に関することは口外なさらないようお願いします」

「あ、すみません。へへ」

つい、と笑ってごまかす彩音に、気をつけなさいよと凛も応じる。手持ちぶさたの直は通りの人々を何とはなしに見渡していたが、あれ、と首を捻るなり恐る恐る先を指差した。

「あの人、大丈夫、かな?」

四人の視線は、十メートルほど進んだ先の派手な店へ注がれる。エキセントリックな看板を見るにガールズバーの類いらしいが、店先に出た厳つい男がスーツの男性を強引に引きずっている。客引きにしてはあまりにも攻撃的で、腕を掴まれた男性はぶるぶると震えながら懸命に首を振っていた。
何あれ、と凛は警戒しつつ眉を持ち上げ、ビジネスバッグを肩に引っ掛け直す。そのままつかつかとパンプスで詰め寄っていこうとするので、直も彼女を引き留めようと慌てて駆け出した。

「待てよ、凛!」

彩音と白峰も様子を窺うべく凛を追うので、天子も仕方なく後をついていく。これ以上の面倒事に巻き込まれるのはごめんだというのに。
人ごみを掻き分けた先で、華奢な男の弱々しい声がした。帰る、いらない、と情けないばかりの小さな呟きだ。騒がしい店内から漏れる音楽にかき消されそうな反駁。アリの小隊が人間相手に凄むような呆気なさすら感じる。

(あいつ……!)

近くで彼の全身を瞳に収めた天子は驚愕した。あの男だ。昼間、転びかけたところを火野に助けられていた、薫似の儚い彼。ふわついた髪も薫ほどの柔らかさはないにしろ、くるんとしたくせ毛といい、スーツを泳ぐような細身の体格といい、やはりよく似ている。マスクで顔半分はわからないが、眼鏡の奥で困惑しきった瞳が揺らいでいる。男ながらに助けを呼ぶこともできず、もう片方の手はマチ付きの四角いバッグで塞がれていて身動きが取れないらしい。
素早く目の前に抜け出した凛が店員の男へ叫んでいるが、天子には何も聞こえなかった。鳩尾の奥でぐつぐつと怒りが煮え滾っていく。

こんなにもか弱くて。誰かの助けがなければ何もできない奴が、自分をいつも阻んでいたのだ。弱いくせに、女々しくて可愛らしいというだけで、気安く触れてもらえる。無条件に優しくしてもらえる。自分がどれだけ望んでも手に入らないものを、あっさりと掠め取っていく。
火野は、きっと天子が転びそうになってもああして助けてはくれない。わかっている。助けなくても自分で何とかできると思っているからで、天子も天子で何とかできると思うし、無様な格好を晒そうが怪我をこさえようが平気だ。
――だけど。
決して、優しさが欲しくないわけじゃない。
強いねとか、えらいねとか。言葉はなんでもいい。

あなたの隣に在り続ける自分を、誇らしく思っていて欲しかった。


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