酩酊ユーフォリア
リーマンパロディ

「てんこ先輩も何とか言ってやって下さいよ!」

「――下らねえ」

自分でも驚くような低い声がこぼれた。助力を求めた彩音が瞬時に目を瞠る。

「男なら自分で何とかすんだろ。行くぞ」

弱々しい彼は店員からの威圧に加え、天子の眼力にすっかり気圧されていた。年の頃はこちらより少し上か。薄く汚れた革靴がタイルの上で震えている。こんな境遇でなければさっさと助けてやったのに。踵を返そうとして、彩音が尚も立ち塞がってくる。彼女も当惑した目で懇願を口にしてきた。

「どうしてですか! 先輩、そんな冷たい人じゃ…」

冷たくもないが、別に優しくもないつもりだ。目と鼻の先で天敵が困り果てている現場に出くわして、良心を傾かせる人間がどれだけいることか。物理的な被害を受けていれば別だが、このまま店に引きずられたとしても、多少の金品を巻き上げられる程度で済むだろう。それを見過ごそうが、決して罪にはならない。
けれど。

「ちっ」

あの人に助けてもらえるくらいの価値が、こいつにはある。
顔か頭かそれ以外か、いずれにせよ彼の興味を引く何かがあるというなら、自分は薫同様に守ってやらなければならない。今がどれほど悔しくても、きっと彼は喜んでくれるから。

「とっととそいつ離せよ。今ならチクらないで見逃してやってもいいぜ」

彩音を片腕で後方へ押しやり、酒臭い男に詰め寄っていく。視線だけで哀願を訴える彼は、細い髪質といい、頼りなさげな目元といい、近くで見ると尚更薫を彷彿とさせた。小生意気な一言でも発せば、男はすかさず自分に向かってくるだろう。その隙にどこへなりと逃げればいい。

「うるせえな! てめえら商売の邪魔すんじゃねえ、引っ込んでろ!」

度重なる妨害でついに堪忍袋の緒が切れたのか、男が殴りかかって来る。正当防衛なら幸いと、天子も拳を受け止めて手首から捻り上げた。痛みに呻く男はもう片方の腕をばたつかせ、掴まれていた弱い彼がその反動で道に投げ出される。受け身も取れず、華奢な体がどしゃりとコンクリートに崩れ落ちるが、打ち所は決して悪くない。かさばる荷物を拾って、さっさと逃げ出してくれと思う。
天子は男に向き直り、投げ出したままの腕もきつく締め上げ、そのまま羽交い絞めにする。筋肉の流れからして、無理に解こうとすれば骨すら折れかねない。もともと酔って足元がふらついていたような酔漢だ。ひ弱な彼はともかく、自分が相手では純粋な力勝負でも勝機はない。

「暴れると手首折れるぞ。わかったら店でおとなしくしてろ。後で通報しておいてやる」

ちらりと肩越しに視線をやれば、案の定、仕事の早い白峰がスマホを耳にあてていた。意味深な目配せに反発したい気持ちが頭をもたげるものの、まぁ面倒な処理は任せておくかと寛容に受け止める。腕への圧を強めただけで男は悲鳴を上げ、天子が意図して作った隙間から逃げるように店へと駆け込んでいった。きったねえ、とその場で天子は両手を振る。居酒屋のおしぼりで拭く前に、手洗いだけでも借りておかなければ。

「だ、大丈夫ですよ!」

焦りを含んだ彩音の声音に振り返ると、助けた彼が道端にしゃがみ込んでいるではないか。もしや、自分たちが来る前に怪我を負わされていたのか。天子はだらんとポールに寄り掛かって首を伸ばす。彼はコンクリートに力なく座り込んだまま、開いた箱を前に意気消沈していた。泣いてこそいないが、その瞳はすっかり色を無くしている。箱の中には形の崩れたカットケーキが四つ。ひどくショックを受けた様子で呆然と下向く彼に、彩音や凛が優しくフォローを入れている。

(それがなんだってんだよ)

木っ端微塵になったわけでもなし、些細なことで落ち込む理由が天子にはわからない。というより、無事だった体よりもケーキの方を心配されては、葛藤を押し殺して助けに向かった自分が馬鹿みたいだ。懸命に箱の形を整える直たちをよそに、天子は問題の彼を睨みつける。そこでふと、思い当たることがあった。

(こいつ、そういやなんでこんなとこうろついてんだ?)

ケーキ屋に行った帰りなのは明白だが、自分を含めたLCCの面々が今まさにここへ集う、というタイミングで出くわしたのは本当に偶然だろうか。想い人の存在がふっと浮かび上がり、天子はかぶりを振って可能性を打ち消そうとする。
そんなわけがない。こいつはあの人と何の関係もない。無視すればしようとするほど、心の中がざわざわと嫌な音で満ちていく。

「――お前、ここで何してんだよ」

ようやく立ち上がった彼の、天子に向けた『ありがとう』の『あ』と思しき口の形。音に乗る前に天子が声を攫うと、え、と小さな呟きが漏れた。おどおどと困惑しきった表情に、ますます苛々が募っていく。

(やっぱり助けなきゃよかった)

彼を助けて、あの人が褒めてくれたとしても、その彼を大切に思う気持ちの証明にしかならない。
褒められるのは嬉しい。しかしただの後輩ならそれでよしとしても、恋人の段階に上がったからには素直に喜んでもいられないわけで。

「どこのどいつだか知らねえけど」

ぐつぐつと腹の奥で凝っていた熱を瞳にぶつけて凄むと、箱を抱えた彼が僅かながら後ずさり、髪の先まで小刻みに揺れ出した。そうやってかわいこぶりっ子していれば、誰かが助けてくれるとでも思っているのか。ひどく熱い嫌悪を冷たい風に煽られながら、汚れた手を握り締めて天子は続ける。

「何が目的だ。答えようによってはただじゃおかねえからな」

「目的…?」

バッグをぎゅっと抱き締め、彼は困り果てた表情で視線を彷徨わせるばかりだ。話になりもしない。どこかの血管をぶちりと切りそうな天子が、さらに食ってかかろうとしたその時だ。おーいっ、と零の能天気な声が徐々に近づいてきた。

ーーー

「えーとそんじゃ、薫とてんこの入社を祝して! とりあえずかんぱーい!」

金曜の夜らしい店のざわめきに包まれ、座敷の一角で零が威勢よくジョッキを掲げる。倣ってみなが各自の飲み物をかちんと突き合わせ、ひと口すすってふうと息を吐き出す。一気に三分の一を減らした零がドンとテーブルにジョッキを戻し、見計らったように運ばれてきた料理の皿をうきうきしながら並べていく。

「ほんとは二人に一言ずつもらいたいけど、腹減ってきたし終わりの方でいいかなって思って!」

「別に今更言うこともねえだろーが」

天子が呆れた表情で小皿に醤油を注いで彩音に回せば、えー、と零がつまらなさそうに唇をつんとさせる。

「せっかくだしよろしくしたいじゃん、なぁ薫」

「よろしくお願いしますって、思ってはいるけど。口に出すのは、なんか恥ずかしい…」

「先輩、さっそく口に出してますよ。あっほら、大根サラダですよ、先輩の好きな」

前に一度来た際に薫が頼んだものを覚えていたのだろう、凛がてきぱきと皿にサラダを盛って薫へ差し出す。ありがと、と薫は礼を告げてグラスからまたひと口飲んだ。本当にアルコールが入っているのかも怪しい、いちごミルクなんとかというリキュールだ。それを皮切りに、みなもいそいそと目の前の料理をよそっていく。今日のように全員が一同に会しても、コースメニューではなく各自で好きなものを頼む方式が学生時代から採られてきた。今回は零が前もっていくつか先にオーダーしたらしく、サラダや揚げ物、刺身の盛り合わせなどの一般受けするメニューがテーブルを陣取っている。

――あの後。
天子が例の彼――桜井遥を責め立てる前に、零が意図せず仲裁する形となり、一方的な喧嘩はそこで打ち切られた。
遥がMSラボで中途採用される予定であること、それをサポートする形で薫と火野が関わっていること、そして遥がラボに忘れたスマホを薫たちが現在進行形で届けに向かっていることを零の口から明かしてもらい、天子もようやく遥の素性を呑み込むことができた。本人は天子の叱責から逃れられてほっとしたのか、顔見知りである零のそばを離れようとしない。彩音と凛が興味津々といった様子で、遥に声をかけるタイミングを窺っていた。零の先輩である営業課の湊も何故か薫たちのタクシーに同乗しているらしく、彼女たちは理由を尋ねたくて仕方がないようだ。

(あの人か。ビジネスメールの時の…)

零から『湊先輩』について何度となく情報を得ていた天子は、ビジネスメール研修の際に講師として来た彼を見てすぐに合点がいった。営業部のエースと名高い湊は、既に外見からして『営業』を語るに相応しい人物だった。彼が端末室に颯爽と現れるなり、同期女子の目の色ががらりと変わったのを覚えている。彼の左手の薬指が視界に入るや否や、室内の熱気が一斉に霧散したことも。


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