酩酊ユーフォリア
リーマンパロディ

「担当の課長には、不備があったので提出を待ってもらうよう連絡してあります。修正の意志があるのでしたら、こちらの用紙に書き直して総務課の結城さんへ提出して下さい。承認後、彼女の方から課長に届けてもらいますので」

「今?」

脱力した天子が眉を寄せる。

「もちろんです」

「そんなん後で――」

言いかけて、気づいた。そうだ、今日は何があっても残れないのだ。そして彼女もそれをわかっているからこそ、小休憩をつぶしてでもやれと告げているわけで。
即座に口をつぐんだ天子はため息を落とし、諦めと共に頷いてまっさらな用紙を受け取った。反抗心が頭をもたげるので、たとえ命を救われても彼女に礼は告げられない。白峰も顔色ひとつ変えず、かつかつとヒールを鳴らして背を向けた。

技術課の会議室で解答を正しく書き写し、名前や社員IDも含めて二度確認して、天子は紙一枚を手に階段を駆け下りていく。今いるのは開発棟の四階、製品開発課だ。そこから三階に下りて、連絡通路で本社ビルへ渡ったのち、一階の総務課へ。白峰から経緯が伝わっていたのか、彩音はにまにまと嫌な笑みを浮かべて受け取ってくれた。

「てんこ先輩ったら浮かれすぎですよ、ふふふ」

「うるせえ」

彩音が総務確認欄にぽんと押印したのを見届け、やり取りもそこそこにその場を後にする。元来た道を戻るべく階段を一段飛ばしで上り、二階と三階の間、踊り場でキュッと足を止めた。
踊り場にある、上下に分かれた大きな窓。敷地の桜はすっかり終わりかけだが、外はこの時期らしく爽やかに晴れている。ちょうど会社の正面を向いており、ほぼ毎日世話になっているコンビニや人の行き交う路地が見える。しかし天子は何も、景色を眺めようと立ち止まったわけではない。一瞬、地上に恋人の姿を認めた気がしたのだ。

(やっぱりそうか)

採光性に優れた窓へ駆け寄り、ガラスが額に触れるほど近くで覗き込めば、本社とラボとの境界にある、スカイペンシルの植え込みの陰で動く者がいた。
ひとりは恋人、もうひとりは知らない男。茶色のふわふわとした髪といい、何だか頼りなさげな体格といい、すぐに薫が思い浮かぶ。しかしラボで働いているはずの彼がスーツでいるのもおかしな話で、人目を憚るように植え込みから何かを窺っているのもまた理解が及ばない。彼の顔かたちがはっきり識別できないのは眼鏡とマスクのせいか。風貌そのものは似ているが、別人と考えるのが自然だ。火野の方はそんな彼をじっと見つめたまま、隣に突っ立っているだけ。こちらも全く意味がわからない。

(んなとこで何してんだ? つーか誰だよあいつ)

就業時間か否かに関わらず、業務に関係のない場所でこそこそしていれば疑いを持たれて当然だろう。体を屈めて様子を窺いながら、天子はふと先日の電話を思い出した。

『今、研究の他にラボの方で頼まれてる仕事があってね。水川と一緒に取り掛かってるところだよ』
『あいつの教育…とか?』
『ううん。水川じゃなくて、ある人の面倒を見ることになって――あっちのことは守秘義務があるから、詳細は関係部署にしか話せないんだ、ごめんね』

(もしかしてあいつがその、面倒を見てる奴?)

彼がどういった立場なのかは謎のままにしても、火野が口に出していた『ある人』ならば行動を共にしている事実には得心がいく。
樹木の間から顔を突き出していた謎の彼は、ぴょいと後ろに下がって火野を見る。気が済んだのか。火野も頷いて何かを言い、植え込みからアスファルトへ降り立つ。確かあの植え込みは花壇のようにレンガでぐるりと囲われており、十センチ程度の段差になっていたはずだ。ぼんやりしていた彼も火野の後を追うべく、急いで植え込みから下りようとした。

(は……?)

ほんの一瞬だった。
段差をすっかり失念していたのか、彼はずるりと足元を滑らせ、前のめりに転倒しかける。その華奢な体を素早く抱きとめ――とんとんと優しく背を撫でる火野。彼はすっかり気が動転した様子で、やんわりと火野を押し退けようとしている。
天子はしゃがみ込んだまま、くるっと光に背を向けた。何が起こったのか、網膜と神経には光景がしっかりと焼き付いているのに、頭の整理が全く追いつかない。

(いや……別にあれくらいはどうってこと、ねえけど)

儚くて、線の細い彼。そんな弱っちいのが転びかけていたら、自分だって体で止めてでも助けようとするだろう。そこはいいのだ、わからなくもない。でも。

(あんな、大事そうに…背中とか撫でるか? 普通…)

頼りなさそうな彼が抱き合うのを拒もうとしても、火野はすぐに離れようとはしなかった。大丈夫?とか、大丈夫ですか?とか言って、きっと笑っていたのだと思う。そんな間だった。
普段から弟のように可愛がっている薫に似ているとはいえ、どうでもいい相手なら気安く触れたりはしないだろう。仕事上の付き合いであれば尚更だ。
もう誰もいない植え込みを恐る恐る窺って、天子はその場から逃げるように階段を駆け上がって行った。

ーーー

「いっちにーさんしーごーろく! 俺がなな! よーしみんないるな。んじゃ行きましょー!」

午後六時五分。
エントランスホールに集結した面々は、最後の白峰がタイムカードを押したのを皮切りに、ぞろぞろと連れ立って本社を後にする。恥ずかしくなるほどの大声で人数確認を終えた零が、グループLINEに何やら返信をしたためていた。天子は自分のスマホで、吹き出しに連なる文字をぼんやりと眺める。

『申し訳ありません。会議が今し方終わりました。
支度を整えてから車で現地へ参りますので、
皆様はお先に向かってください』

本来なら由姫もここで落ち合うつもりだったが、文面の通り時間がずれ込んでしまったらしい。部署の親しい先輩や上司なら『今日は予定があるので』と先に失礼することもできるだろうが、経営に関わる重要な会議とあっては由姫も最後まで参加せざるを得ない。
社長の娘である彼女は、現在秘書としてスケジュール管理を担う傍ら、父親の視察や出張に同伴して経営を勉強しているらしい。彩音と凛は時々連絡を取って会っているようだが、天子は随分と顔を見ていない。何事も真面目に抱え込む性格なので、日々プレッシャーに精神を削られていることだろう。今夜がせめてもの息抜きになればいいのだが。
対して、『気にしないで! 居酒屋で待ってるからね』と零。由姫のメッセージの前には、昼頃に届いていた薫の言葉。

『依頼がたくさんあって
頑張って六時には終わらせるけど
間に合わないといけないので
火野先輩とタクシーで行きます』

MSラボは民間の分析機関なので、本社だけでなく他企業からの依頼も請け負っている。来週の大型連休へ入る前にと、発注だけでも先送りにしてくる業者が多いのだろう。あわあわと慌てふためく薫の様子が目に浮かぶ。本社の人間たる火野が直接手伝えることではなさそうだが、何かしらのアドバイスを施したに違いない。いつもならさらりと流してしまえる薫への気遣いでさえ、今はひどく気に入らない。

「天子くん、久しぶりだなぁ。研修中ならどこかで会うかと思ったのに」

街は春の夕闇に沈みながらも、夜の活気に色づき始めている。後ろからひょいと大股で追いついてきたのは時宮だ。相も変わらず腹の立つ顔だが、何かと食ってかかってばかりの自分にまでいちいち声をかけてくる辺りが、彼のお人好しを体現していると言える。フン、と天子は連立するオフィスビル群を横目に口を開いた。

「てめーになんか会わなくても死なねえからな」

「あ、そ、そう。変わってないね…君」

苦笑いで以降の言葉を引っ込めつつも、この男は昔から本当に怒らない。沸点が低くては、火野の幼馴染など絶対につとまらないだろうが。
女のことばかり考えているイメージでありながら、特に男を邪険にすることもなく、生徒会長時代もお人好しに裏づいたリーダーシップと微妙に抜けているドジ特性で両性からそこそこの支持を得ていた。天子は厳格すぎる白峰とはまた違った意味で、ふらふらと好き勝手に漂う時宮が好かなかった。火野の幼馴染という妬むべき最大の一点を除いても、まだ好きにはなれないだろうと思う。
一方の極楽蜻蛉は雑に扱われたダメージを秒で修復し、天子の表情を覗き込んでは尚も話しかけてくる。


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