酩酊ユーフォリア
リーマンパロディ

ようやく解放された時には息がすっかり上がり、天子が軽く咳き込むと、宥めるようにトントンと背中をさすってくれた。濡れた唇を押さえながら、こく、と混じり合った唾液を飲み下す。喉を流れ落ちるものはひどく甘ったるい。

『ごめん』

胸に抱き寄せられた天子は、コートに頬を擦りつけてかぶりを振った。謝られることなど何もない。全て自分が望んだのだから。
ふわふわとアルコール以上に夢見心地な脳内で、もっと、と乞う本能を理性が必死に押し留めている。酒が入っていなければ、きっと身体にもあからさまな変化が表れていたはずだ。
埋もれた上体を起こし、火野の両肩を掴んで対峙すると、素の瞳をまっすぐ見据えるのが恥ずかしい。何も悪いことはしていないのに、心の中まで全て見透かされてしまうようで。
戸惑いがちに顔を近づけ、触れるだけのキスを送った。そんなん幼稚園児でもしねえぞ、と冷静な自分が咎めてくる。
けれどこの雰囲気に呑まれてしまった今は、いつものように強気に振る舞うことなどできはしない。何の脈絡もなく突然好きな人と結ばれて、さあどうぞと言われたって。まだどこかで幸せな夢なのではと疑っているのに、躊躇するのは当たり前だ。

『ふふ』

火野は小さく笑って眼鏡を掛けると、ぽんぽんと天子の髪を撫でる。腕の中に優しく捕らわれ、とろりとした蜂蜜みたいな言葉を囁かれた。

『かわいい』

『……かわいいってのは、やめてもらえます?』

先程も顔がかわいいと耳にした覚えがあるが、いったいどこをどう見ればそう思えるのか。薫のように中性的な容姿でもなく、身長も平均以上ある二十代の男に向かって、そんなこと。

『やめない。恋人をかわいいって思うのは変じゃないでしょ』

あまりの頻脈に、これはもはや普通の状態だ、と心臓が諦めてしまったのか。相変わらず鼓動は早いものの、天子も少しずつ、落ち着きを取り戻してきたようだ。

『俺はかわいいなんて思いませんけど』

かっこいいと思うことも、そんなにないかもしれない。
華奢な彼の背を抱き返して、天子は無粋な一言を投げかけた。

『おや、そうなの? じゃあ言ってもらえるように頑張るよ』

何をだよ、というツッコミを喉の辺りで留めると、ぎゅっと腕の力が強まった。

『酔ってるなら、お風呂は後にしようね。もう少し、こうしてて』

駅前で告げられた『乱暴はしない』の解釈は正しかったらしい。眼鏡を掛け直した時点でほぼ確信していたが、ほんの少し――期待していなかったわけじゃ、ないけれど。
その後、ゆっくりと風呂に浸かった頃には既に夜中を回っていた。説明会のために早朝から家を出ており、酒もまだ残っているのか、眠気がかなり強い。着替えを貸してもらい、広々とした洗面台で歯を磨いて。三人ほどが悠々と寝られそうなベッドに潜っていたら、そのうち目を開けるのも億劫になって、火野を待たずに眠ってしまった。
穏やかで、幸せで、本当に満ち足りた夜だった。

***

「なのに、何でこんなことになってんだか」

居酒屋で二時間ほど酒宴を楽しんでから、割勘で支払いを済ませ、現地解散となった。凛はまだ飲み足りない様子で、コンビニで酒とつまみを買い、彩音のマンションへ泊まると言う。直も電車の時間があるからと駅まで駆けていき、眠たそうな薫を連れて零も帰路についた。天子はひとり、人通りのまばらな路地をてくてくと進んでいく。
彼のねぐらは駅からやや遠いが、会社へのアクセスは良好だ。社で借り上げているマンションにただ帰るのもつまらないので、凛が寄ったコンビニで明日のパンとチューハイを買い込んでおいた。食べて飲みながら、眠くなるまでだらだらと夜半を過ごすことになるだろう。
エレベーターで目的のフロアまで行き着くと、足音を忍ばせるのも面倒で静かな廊下を闊歩していく。一人暮らしの世帯ばかりなので遠慮もいらない。解錠を済ませて我が家に踏み入る。
物の多い、雑多なワンルームだ。せめて着替えくらいはと思うが、気怠い体がやらなくていいと言ってくるのでそのまま腰を据えた。テレビの電源を入れ、ディズニー映画のロードショーから適当なバラエティにチャンネルを合わせる。
ぷしゅりと開けたチューハイを啜りつつ、スマホを取り出して画面を点灯させた。凛から『蓮華1年・2年限定グループ』への招待通知が来ている。

「相変わらず仕事早えーな」

参加をタップすると、めいめいから『お疲れ様』『また飲みましょう』といった文面とスタンプが瞬く間に飛び交っていく。零が敬礼するクマのスタンプで応戦してきたが、薫はもう寝落ちているらしい。凛と彩音が『今度また誘うから!』『待ってるね!』と由姫にメッセージを送っている。天子も『お疲れ』と一言送信してトークを閉じた。
友だちリストをスクロールして、恋人のトーク履歴を開いてみる。一昨日の『ごめんね』の後は、自分の『はい』で終わっていた。いつ見ても、本当に恋人とのやり取りなのかと訝しむような会話だ。が、彼も自分も『会いたい』などとはきっと言わないだろう。仕事が絡んでいれば尚更、私情は二の次で当然だと思っている。
火野は技術部の中でも少数精鋭のエリート集団、研究開発課に所属している。技術開発には莫大な費用がかかるため、凛の言っていた技術プレゼンさえお遊びに感じられるほどの、厳しい役員審査を毎月パスしなければならない。得られた結果への叱責や追及は無論のこと、返答次第では研究費の減額や当人の異動すら辞さないというから驚きだ。社内への貢献度は非常に高く、仕事量に比例して精神的ストレスも査定も随一ときている。火野の場合はメンタルが恐ろしいほどタフな上、金や評価にも大して興味はなさそうだが、完全な成果主義の場に彼が身を置いているのは事実だ。
天子は知っている。彼は、自分がやりたくないと思うことには意地でも手を出したがらない。たとえそれが、己の命に関わることであっても。
だから、ろくに帰宅せず、休日も返上で打ち込んでいる仕事は、彼が心から楽しんでやっている証拠なのだ。それを自分の我が儘で曲げるのは、彼を否定することになる。

(物分かりが悪いなんて、思われたくねーんだよ)

ずっとそばで彼の本質を見てきた自分は、そこらへんの女共とは違う。どういう人物であるか、裏も表も含めてきちんとわかっているし、理解を見出せるくらい大人でもある。
天子が火野の立場だったとしても、必死でデータを積み重ねている最中に『時間を作れ』と生意気を言われたら恋人でもカチンとくるだろう。古めかしい表現だが『私と仕事、どっちが大切なの?』なんて言うのも言われるのもごめんだ。
辛味のあるさきいかの五、六本を一気につまみ、つけっぱなしのテレビに視線を移す。

『わっかりますー! あたしも彼氏できたらめちゃくちゃ連絡しちゃう方でー!』

雛壇の女性タレントが甲高い声で要らぬアピールを撒く。うげえ、と天子はチューハイを握ったまま顔をしかめた。自分も――おそらく火野も、間違いなく嫌いなタイプの女だ。

『毎日電話は当たり前だし、会いたかったら仕事の後会いに行っちゃいます』

『えーそれ、うっとうしがられないもんなん?』

下段の芸人が苦笑混じりに問い返せば、タレントはばっちりカメラを意識しつつ、グロスを塗った唇を尖らせる。

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