酩酊ユーフォリア
リーマンパロディ

『うっとうしがられてもいいんです、好きなんだし! それで振られたら仕方ないってことで』

『強いなぁ。俺なんかしつこくされたらやかましいわってキレてまうかも』

『○○さんは彼女に会いたいって時ないんですかぁ?』

『あるよ、そりゃあ。触らしてくれんなら毎日会ったるわ』

『うっわー、男の人ってほんとそればっかりですねー』

きゃっきゃっとタレントが囃し立てると、芸人MCが次の話題をモニターに移して場を切り替える。チューハイをとんとリモコンの横に置き、天子はテーブルに行儀悪く肘をついた。酒を飲むとあまりネガティブな気分にはならないはずだが、想いが通じてからちょうどひと月が経つというのに、こんな有り様ではミーハーなタレントでなくとも気が滅入る。

(普通そうだよな)

別に記念日だからどうというわけではない。付き合い始めて一か月という、世間一般の男女なら一番舞い上がるだろう時期に、お預けを食わされているのが納得いかないだけで。男同士がこういうものと位置付けてしまえばそれまでだが、だったら二十年近くも相思相愛を貫いている零と薫はめでたい妖精か何かなのか。
心の中で彩音に反発した際も感じたことだが、結局のところ火野は『恋人』である自分にそこまで傾いてはいないのだ。会えない日々をもどかしく思うことも、ふとした瞬間に恋心を自覚するようなこともない。自分を受け入れてくれる余裕があっただけで、あの場で想いを告げられなければ何事もなく別れていたはず。退屈しのぎ、というほど軽い気持ちには見えなかったが、恋情の芽ですらない好奇心の発露なら悲しい。
――というより、はっきり言って。

「俺とはそういうことできねえってことじゃね?」

チューハイの強炭酸がじくじくと喉を焼く。血の巡りのせいか徐々に汗ばんできたので、スーツのジャケットをベッドへ雑に放り投げた。
あの場で唇を奪われたことには驚いたが、『乱暴はしない』と前置きしていたとはいえ、恋人同士の流れとしてはどうにかなってもよかった気がするのだ。動揺のあまりだらだらと汗をかきまくっていた自分が偉そうに言えた立場ではないが、家に行くと決めた時点で相応の覚悟はしていたのに。その気がなければ招くような真似はしないわけで、あの自分を見てか、もしくはキスがあまりにも不快で『無理』と思わせてしまったのだろうか。避けられているのだから、何かしらの原因がそこにあったと考えるべきだ。

(仕方ねえか)

女はどうか知らないが、少なくとも男はそういう肉欲込みで『好き』になるわけで、長年堆く積まれてきた天子の想いとは別物に違いない。謂わば、新卒社員の試用期間みたいなものだ。気に入れば続けるし、問題があれば打ち切る。このご時世、会社には強気でいられても、彼の目線で吟味されていると思うと胸が圧迫されたように苦しくなった。

(俺じゃ、だめなのかよ)

彼の心境は推測の域を出ないにしろ、天子の方は――舞い上がっていたこともあってか、これ以上ないほど至福のひとときだった。キスひとつで今までの経験が全て無に返されたのは男として純粋に悔しいが、場数だけならあちらが何倍も格上であるのは周知の事実だ。悔しさを遥かに上回る快感に押されて敗北を喫しても、そこはそれ、諦めがつくというもの。
――ふと寂しさを覚えると、あの口づけを如実に思い出してしまう。口内の弱いところを何度も撫でられ、舌先を厭らしく吸われて、逃げを打つ体をも封じられて。
反芻する度、無意識のうちに指先でふにふにと唇の表面を撫でていた。今夜もそう。ひと月も前の一夜――それも、おままごとみたいな触れ合いだけの戯れを脳裏に思い描いては、焦がれる気持ちを必死に慰めている。いつまでこんなことを続ければ気が済むのだろう。
ちっと舌を打って、ソファに膝から乗り上げて上体を沈める。頬と耳が燃えるように熱かった。

(このまま寝ちまえ)

ぐらぐらと同じような思考がいつまでも巡る。あの日からずっとそう、アルコールを得ると脳が勝手に浮かれた物質を流し始めるのだ。そんなもの分泌されたって、今は虚しいだけなのに。心とは裏腹に、酩酊に踊る脳味噌が疲れ果てるのをただ祈るばかりだ。
――ぽこん、と。
酔いが回ったせいか、綿が詰まったように呆けた鼓膜へ、スマホが間抜けな音を届けた。体はそのままに、ローテーブルへ手を伸ばして掴み取る。明日は休日で、目覚ましのアラームも不要だ。通知音と一緒に切っておこうと、ロックを解除しかけた指が止まって震えた。てっきり、グループLINEの続きかと思っていたのに。

『役員会が終わったらゆっくり会おうね』

今し方、酩酊のまやかしにすら心を奪われた相手。アルコールで渇ききった喉が、ごく、と空気だけを生々しく嚥下する。
冷たいディスプレイにぽつんと現れたポップアップを見つめ、熱い吐息を細切れに漏らす。ミスタップに揺れる指を手繰ってトーク画面を開き、既読をつけたからには返信しようと、覚束ない手つきで文字を打ち込んでいく。今なら、きっとすぐに返してくれる。

『役員会っていつですか』

およそ月末に行われることは天子も伝聞していたが、今月は大型連休が待ち構えているので前倒しになる可能性も否めない。その分早く会えるのなら日程を聞いておくに越したことはないだろう。自分は研修中の身、時間ならいくらでも調整できる。呑気に寝転がっている場合じゃないと起き上がりざまに膝を折り、ソファに正座するような格好でスマホを凝視した。

『23日』

ごく短い返答。一服ついでにメッセージをくれただけで、彼はまだあの棟の天辺にいるのだ。白衣を翻して実験室へ戻っていく姿が目に浮かぶ。実際そうした現場を確かめたわけではないので、天子が想像できるのは大学院までの彼でしかない。

「木曜か」

部屋にカレンダーがないので、アプリで日付を確認しつつ返信を打ち込んでいく。『近くなったらまた連絡します』の文面を打つなり送信マークに触れかけて、はたと指先を止めた。天子の視線は無料電話のアイコンに注がれている。

(どうせ、出てくれないだろ)

一方的な『不在着信』が何件も続くトーク履歴は見る度に心を抉られる。こうしてちまちまと文字を連ね合うことに至上の幸せを見出す層もいるらしいが、正直言ってまどろっこしい。連絡手段として仕方なく用いてはいるものの、生身と比べてしまうとどうも味気なくて。
会いたいなんて我が儘は言わないから、せめて声が聴きたい。たかがガラスに刷られた文字を見て舞い上がるより、断られても、つれなくされても、直接言葉を耳に入れてほしい。
酔って押し間違えたと言えばいい。迷惑電話をかけるわけでもなし、恋人なら当たり前のことをしようとしているだけだ。既に今日は予定を蹴られているのだから、これくらい許してくれるだろう。深く考える間もなく、天子はぐいと親指を押し付けた。悩むのは昔から得意じゃない。

『――はい? どうしたの』

「えっ」

2コール程度で普通に拾われて驚いた。自分からかけておきながら、天子も思わず言葉を詰まらせてしまう。期待はしていたが、こうもあっさり繋がってしまうと何を発していいのかわからない。

「仕事終わったんですか」

唇の筋肉に鞭打って、頭の中の酔いが飛んだ部分を使って会話を進める。

『まだ。さっき休憩から戻ったら、抽出が終わってなくてね。あと五分くらいしたら様子見に行くけど』

進捗が予定より遅れているのだろうか、電話越しでもぴりぴりとした緊張感が伝わってくる。いつも笑顔でいる人間の怒りは頓に破壊的だ。彼も例外ではない。痺れを訴える脚を無視して正座を崩さず、天子は軽い気持ちで通話に繋いだことを後悔し始めた。酒の勢いで電話しましたなどと言える雰囲気ではない。
しかし火野も自身の口調に気づいたのか、ああ、と苦笑混じりに吐息を溢した。鼓膜に直接吹き込まれたようなノイズが艶めかしく、ふるっと天子の肩が揺れる。


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