酩酊ユーフォリア
リーマンパロディ

火野は依然、腕を離してはくれない。ただ天子の目をじっと見つめて逡巡している。
ややあって、うん、と彼は頷いた。

『じゃあ、よろしくね』

よろしくね。
浅い酩酊がようやく醒めたと思ったのに、今度こそ完全に思考が止まった。

『は……?』

いったい何をよろしくされたのだ。腕を解かれたことにすら気づかず、天子は呆気に取られる。ふ、と火野がいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。

『今更、って言うのは無しだよ。僕にだっていろいろあったんだ』

『いや、何が――はぁっ!? よろしくって、そういうっ!? 付き合うって意味で!?』

『え? 他に何があるの?』

きょとんとした火野をよそに、天子は三歩ほど後ずさってめちゃくちゃにかぶりを振りたくった。

『い、いやいや! 何で、今更』

『だからね、それは無しにして? 悪かったと思ってるんだよ』

ね、と火野が小首を傾げて微笑む。女じゃあるまいし、かわいいとは全く思わない仕草だが、この手の『お願い』に自分が弱いことは織り込み済みだろう。真っ赤になった天子はぱくぱくと声にならない吐息をこぼしていたものの、夜風を深く肺に吸い込んでから、ゆっくりと言葉を絞り出した。

『……本気で、言ってます? 付き合えるんですか。俺と』

『うん』

火野は即答だった。嘘ではないのだろう。『君に嘘はつかない』という遠い昔の約束を、彼は今でも律儀に守ってくれている。冗談でこんなことを受け入れるはずがない。

『恋人になるって意味で言ってます』

『そうだろうね』

そっと笑いかけられて、背筋を熱いものが滴り落ちる。躊躇なくこちらを見つめてくる双眸に、感じたことのない欲の色が浮かんでいた。たまらずふいっと視線を逸らしたところに、火野の手がすっと差し出される。

『ここまで来ておいて、って言われそうだけど。このまま帰すのも心配だから、もう少し一緒にいようか』

『……っ』

駅前は依然として活発な賑わいを見せているが、夜更けが着実に近づく時間帯。そのタイミングで誘われることの意味くらい、天子にだってわかっている。恋人になるというのはそういうことだ。
動揺を滲ませていると、火野はやや声を潜めて続けた。楽観的で冗談のように聞こえたのは、緊張を少しでも解そうという意図があったのかもしれない。

『僕ね、酔ってる子に乱暴はしないよ? てんこが思ったよりずっとかわいい顔するから、帰したくないなぁって思うだけで』

『かわっ……』

もちろん無理強いはしないけど、というニュアンスを醸しながら、どうする?と火野が優しく尋ねてくる。ときめきの最中にあった心が、徐々に期待と興奮にすり替わっていく。戸惑う気持ちはあっても、この手を振り払おうとは思えない。
――もう、遅いから。今日中に帰る理由もないから。必死で言い訳を並べ立てる。酒の作用かはいざ知らず、頭がクラクラしてきた。ほら、具合だって悪い。
大好きな人が、自分を望んでくれている。応える以外の選択肢があるだろうか。

『……』

結局何と言ってよいのかわからなくて、黙りこくった天子はおずおずと手を重ねた。恥ずかしくていたたまれなくて、熱を持つ頬を俯かせたまま。

『いい子だね』

手を引かれ、耳元で褒めるように囁かれた声はひどく甘かった。

ロータリーからタクシーに乗り込むと、静かな車内にばくばくと己の鼓動だけがやかましく響いた。ほんの十分程度の時間すら気が遠くなりそうで、マンションの前で降りた時はみっともなく足が震えていた。
無駄なものが極力省かれた部屋。あまりに生活感が乏しくて、モデルルームと紹介されても違和感がない。しかし無数の本で埋め尽くされたキャビネットは学生の頃と変わらず、生物部時代の飾り棚と奇妙なオブジェにも少しだけ安堵した。
コートを着たままソファに誘われ、腰を下ろすなり抱きしめられて心臓が止まりかける。
サラリーマン御用達の居酒屋に長く居たせいか、安物のアルコールと煙草が彼の匂いに混ざっていた。普段なら不快極まりないそれも、どうしようもないほど昂った心身には呼び水でしかなくて。

『そん、なに……くっつかなくても』

『嫌?』

スッと体を引いた火野に問われ、天子は即座に首を横に振る。

『汗とか、かいてるから…』

夜更けにつれて気温はどんどん落ちているというのに、体の火照りは一向に治らない。むしろ、この場に来てからは外気に触れない分悪化している。背中を今もつうっと汗が伝って、一日着ているシャツに染み込んでいった。新陳代謝が活発な学生ほどでなくとも、ひどい有様になっているのは想像がつく。
熱い頬をそっと両手で包み込まれ、前髪越しの額に唇が触れた。そして再度、長い腕がぎゅっと背に巻き付く。

『気にしないよ。だって』

コートの合わせを割った手が、ぴたりとスーツの胸に押し当てられる。どくどくと狂ったように脈を刻み続ける心臓が、ひときわ大きく跳ねた。天子はきつく目をつむる。

『自惚れたっていいでしょ?』

彼が好きだと、体の全てが想いを伝えてしまっている。今まで抑えつけていた気持ちがぼろぼろと剥がれ落ちるのを、彼は大切そうに拾い集めてくれて。恋情に翻弄される自分を受け止めてもらえたことに、心の底から安堵が込み上げた。

――ふに、と。
柔らかな感触が唇に触れ、慌てて目を見開く。びっくりした?と言わんばかりの微笑みで、火野は自らの眼鏡を抜き取り、もう一度ゆっくりと唇を重ねた。
少女じゃあるまいし、この瞬間を夢見ていたわけでもないのに。与えられた口づけは泣きたくなるほど優しくて、甘い酩酊がより深まっていく。

『っん……』

唇の隙間を舌先でなぞられた拍子に、詰まった吐息が漏れ出る。己の声の甘さに羞恥が頬を焼く。促されるまま、少しずつ口を開いて舌を受け入れた。
キスなんて初めてじゃない。二十代ともなれば当然――異性に限っての話だが、そういう経験のひとつやふたつ、みっつくらいはこなしていてもおかしくない。その先だって、例外じゃない。いくら彼を想っていても、時には体と心が合致してくれないこともある。心が満たされていない状態なら尚更だ。だから別に、今までだって全く遊ばなかったとは言わない、が。
後頭部をすくい上げるように、髪へ差し込まれた手。反射的に後方へ逃げるのを阻み、舌が口腔をゆっくりと掻き回す。奥の方で縮こまっていた舌を引っ張り出すようにして絡められれば、直接的な刺激に体の奥がずくんと疼いた。

『ふ……っ、ん…』

舌先をちゅっと吸われ、甘さに満ちた吐息が部屋を埋めていく。弱い粘膜をつつかれては背が震え、歯列を撫でられては肩が跳ね。
相手の技量にもよるが、本当に愛しい人との触れ合いにおいては、経験など皆無に等しいものであることを天子は思い知った。ただただ為されるがままに熱を高められ、壊れそうな想いが胸の内で膨らんでいく。

(ずっと、このままでもいい、かもしれない)

苦しいけど、愛しくて、嬉しくて。
あまりの多幸感に、頭の芯までバグってしまうような錯覚に襲われた。

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