酩酊ユーフォリア
リーマンパロディ

「あたしの話はまたぼちぼちしますんで、先輩のお話も聞かせて下さい。直は技術だから毎日会うし、彩音もお昼一緒にしてますけど、先輩方全然会わないじゃないですか」

砂肝にかじりついた凛が矛先を向けると、研修はどうですか?と直が尋ねてきた。

「部署の見学はいいとして、黙って話聞いてんのは退屈で仕方ねえな。特にお前の先輩」

「白峰さんですか? てんこ先輩、相変わらず苦手なんですね」

ぷぷ、と彩音が揶揄まじりに笑う。学生の頃から校則を歯牙にもかけなかった天子にとって、厳格な元生徒会副会長・白峰蝶子は天敵に等しい。
現在彼女は彩音と同じ総務部に所属しているが、今年度からは新人研修担当のひとりに抜擢され、ビジネスマナーや社内規則等の指導にあたっていた。
フン、と天子は面白くなさそうに、ライムが浮かんだリキュールを啜る。

「水川先輩は――というかラボは、ホワイトって聞きましたけど」と凛。

前述した通り、Material Science Laboratory――通称MSラボはLCCの子会社だが、規則を始め施設やシステムも本社と共用のため、ある意味では部署のひとつといってもいい。客先や技術課からの分析依頼を主な仕事としており、薫はIRやNMR、SEM等の様々な機器を用いて分析・解析業務をこなしている。

「うん。毎日、五時には帰ってる」

「いいなぁ、五時が定時なんですね。本社は六時ですもん」と彩音。

「でも、そのおかげで毎日夕飯作ってくれるから幸せだなぁ俺。いてっ、痛いよ薫!」

惚気に目ざとく反応した薫がぽかぽかとスーツの背を叩く。彼らが幼馴染であり、恋人同士であり、現在同棲中の身でもあるのは周知の事実だ。彩音も凛も微笑ましいとばかりに薫の照れ隠しを見守っていたが、そういえば、と彩音は好奇心を湛えた瞳を天子へ向けた。

「先輩はどうなんですか、その辺。火野先輩と会ってます?」

突如として振られた話題に思わず酒を吹き出しそうになり、天子は口元を押さえてどうにか液体を呑み込む。チッと舌打ちをかましてから、がしがしと雑に頭を掻いた。

「会うわけねえだろーが、あんだけ忙しいのに」

「ですよねぇ。わたし勤怠管理してますけど、やばいですもん。先月の残業、三桁ですよ。白峰さんはともかく、時宮先輩が何回も開発課に怒りの電話かけてました」

「電話? なんで」

「働き方改革ってやつですよぉ、国から怒られるのは総務なんですから。お忙しいのは仕方ないんですけどねー」

彩音は熱々の鉄板からハラミステーキをつまみ、追加のカルアミルクで流し込む。天子もピザにこれでもかとタバスコを振りかけながら、だろうな、と気のない返事を寄越した。忘れていた虚しさが、どんよりと分厚い雲になって胸へ舞い戻ってくる。

「大丈夫ですって、役員会終わればちゃんと会えますよー。アタックあるのみですし、零薫目指して頑張りましょ」

彩音はにまにまと笑みを浮かべてお気楽に言うが、彼女なりの応援とわかっているのでさほど腹は立たない。天子はため息をつくだけに留める。

「うるせーな。お前に言われなくたって」

わかってんだよ、好きなのは俺だけだって。

彼の名は火野珪太。高校時代から、天子がずっと恋い焦がれている相手だ。
彼と出会ったのは二年生の春。ひょんなことから彼と由姫が所属する『生物部』の活動に巻き込まれ、紆余曲折あって恋に落ちた。
以来、何かにつけて気持ちをぶつけてはいたのだが、彼は受け取ることも捨てることもせず、ただのらりくらりとはぐらかしてばかりだった。白黒はっきり付けたい天子はもどかしくて堪らなかったが、結局自らの恋心を殺すことは長年できずじまいで。

つい先月のこと。
会社から入社前の説明会に招集され、天子は薫や他の内定者と共にLCC本社へ赴いた。諸々の手続きを終えると、年度末で多忙な間を縫って零と火野が会いに来てくれていた。四人で酒の入った食事をした後、零たちと別れてから火野は言った。駅まで送っていくよ、と。
当時大学院生だった天子は、ここから電車でいくつか先の駅周辺に住んでいたのだ。繁華街の夜道が危ないというよりは酒に弱い自分を気遣っての言葉だったのだろうが、久しぶりの邂逅を少しでも引き延ばせたのは純粋に嬉しかった。
少し酔ったふりをしてゆっくりと歩きながら、院での研究内容や就活の思い出なんかを滔々と話した。仕事疲れなど微塵も感じさせないような笑顔で、彼は優しく相槌を打って聞いてくれた。

駅前のロータリー近くまで辿り着いたところで、またね、と彼は手を振る。
ふわりと翻されたコートに月光が反射した。全身から溢れていた高揚感が夜風に煽られ、瞬時に冷めた現実を映し出す。
咄嗟に、天子は手を伸ばしていた。

『どうしたの?』

コートを掴まれた火野は肩越しに振り返ると、困ったように微笑んだ。訳を言うまでもなく、こちらの気持ちは察していたに違いない。
何か言おうと思って引き留めたつもりはなく、しかしここで寂しいと告げてしまうのは、寂しくならないよう取り計らってくれた彼に対してあまりにも卑怯だ。かといって、さよならと言ってしまったら取り返しがつかなくなるほど自分は悲しくなる。酒が入っているせいか、感情の制御がうまくいかない。

――こんなに、大好きなのに。
金もあって頭もよくて顔もいいけれど、どれも自分はあまり興味がない。彼だから好きだと思えるだけで、本質はもっと違うところにあると知っている。だから、この人の容姿に惹かれる女たちとは違うのだと、ずっとずっと訴え続けてきた。

『好き、です』

眼鏡の奥の瞳が僅かに見開かれる。
寂しさを共有することができないのなら、溜めに溜めた想いをちょっとくらいぶつけさせてほしい。いつものように、曖昧な笑みで流してくれて構わないから。
暴れる鼓動を押さえつけて、天子はくるりと踵を返した。

『待って』

コートごと腕を強く掴まれて心臓が跳ねる。鼓膜から忙しなく鳴り響く己の脈が、体のどこかでぶち切れてもおかしくない程だ。

『ありがとう。嬉しい』

想いを告げる度に、何度となく返された台詞。けれど、彼は笑っていなかった。ごく真面目な表情で、それで、と穏やかに続きを発してくる。

『てんこは、僕とどうなりたいの?』

『え』

実に唐突な質問で面食らってしまった。脳内をふんわりと桃色に染めた酔いが全部吹き飛びそうだ。こうして尋ねられるのは、初めて告白した時以来ではないだろうか。

『前にも、たぶん言ったと思いますけど……』

寒空の下、天子は唇を震わせて言葉を紡ぐ。手足は小刻みに揺れるほど冷え切っているのに、体は奥底から燃え上がるような熱を生み出している。

『――付き合いたい、です』

感覚のなくなった手を丸めて握りしめ、天子はまっすぐに彼の瞳を見据えて告げる。怖くなかったと言えば嘘になるが、俯いていてはこの熱情の欠片も伝えることはできないと思った。

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