こてんこ ひのてん |
「きゃっ!」 「おい、どうした!」 生物実験室の片隅。衝立で遮られた細胞培養スペースを覗き込んだ由姫が短い悲鳴を上げる。気づいた天子が彼女を振り返れば、微かな唸り声が聞こえた。生き物の鳴き声だ。 「カエルでも脱走したのかよ」 「違いますわ! こ、これ…」 由姫が恐る恐る指を差した先に、体長10センチ程の何かがいた。ハムスターよりは大きいが、ネズミほど色はくすんでいない。その生き物は鋭い目でこちらを睨みつけている。近づいた天子はぎょっとした。 「なんだこいつ……俺…?」 ーーー 「ぴいぴい! ガルルルル」 スチール製のケージに噛みつき、その隙間から何とか抜け出そうと小さな体を捩じ込むネズミーーではなく、カンガルー。ケージをぐるりと取り囲むように様子を窺って、化学部の面々は頷いた。 「なるほど、てんこ先輩ですね」と彩音。 「マジでてんこそっくりだな!」と零。 「すごい。でも、なんでてんこ?」と薫。 顔や体は天子そっくり、しかし脚と尻尾はカンガルー。合成獣、いわゆるキメラと称するにはなかなか愛くるしいフォルムなので、みな戸惑いはあるものの『ミニカンガルーの天子』として受け入れられなくはない。もちろん、一番動揺を露わにしているのは本人だ。 「知るかよ! だいたいこんなやつ気持ちわりいだろ! とっととつまみ出せ」 「それはかわいそうですわ。もしかしたらお腹が空いているかもしれませんし」 どこかズレた返答の由姫は「キャベツなら食べられるでしょうか」と他生物用の食糧を持ち込んでくる。 キャベツの葉を小さくちぎって檻の隙間から差し込むと、ミニカンガルーはキャベツをクンクンと不思議そうに嗅いでから口を開けた。ぱりり、とかじられるキャベツ。わあ食べた、とはしゃぐ零と彩音。カンガルーは葉を檻の内側に引っ張り込み、そのまま両手で持ってかしかしと食べ始めた。気に入ったらしい。 「カンガルーってキャベツ食べるの?」と凛。 「ええ、草食ですから。リンゴなども好きだと思います」 「食べてるところは結構カワイイね」と彩音。 「でもてんこ先輩なんだよね…」と複雑そうな直。 と、そこで準備室のドアが開く。三年生の課外授業が終わったのだろう、お疲れ様ですー、とみなが挨拶を口にする。 「お疲れ様。みんなで集まってどうしたの?」と火野。 「こちらです。ご覧くださいな、天子先輩がカンガルーになってしまわれましたの」 「俺がなったわけじゃねえだろ」 火野が薫の後ろからそっと檻を覗き込んだ瞬間。カンガルーはふと顔を上げ、キャベツを放り捨ててガリガリと檻を引っ掻いた。先程よりもずっと甲高い声で鳴き始める。 「ぴい! ぴいぴい!」 「まぁ、ご飯に夢中でしたのに。どうしたんでしょう」 「この子、どこにいたの?」 火野はじっとカンガルーを見つめている。 「細胞の様子を見に行ったらそちらに佇んでいましたの。私、ネズミだと思ってびっくりしたのですけど」 「そう…」 ゆっくりと火野が手を伸ばしかけると、危ないですよ、と凛が横から割って入る。 「さっき、直が檻の位置を変えようとして触ったら噛みつかれたんです」 「痛かったよお」 直がしょげた顔で指を振って見せる。 「大丈夫だよ」 火野は微笑みながら、躊躇いなく檻の隙間に指を入れた。 「だって、てんこだもの」 僕に噛みつくわけないじゃない、と言わんばかりの台詞。その場がしんと一瞬だけ静まり返り、『そっかー』という謎の納得感が全員を包んだ。さすがの天子も言葉が出ないのか、居たたまれなさそうに額に手を当てている。 「ぴいぴい!」 差し込まれた指先をきゅっと両手で挟み、カンガルーは嬉しそうに頬擦りし始めた。堪えきれなくなったのか、彩音がぷっと吹き出して腹を抱える。 「ほんとだ、てんこ先輩だ! やばー!」 「うるせえ!!!」 断言してもいい。天子は決して手に頬擦りなどしたことがないしさせてもらえるような関係でもない。もちろんしたいかどうかはノーコメントだ。 檻越しの接触がもどかしいのか、カンガルーがほっぺたをつぶしながら腕を伸ばしているのを見て、火野が由姫を振り返る。 「出してあげてもいいかな」 「ええ、なついているようですし」 檻の扉を火野が引き開けると、カンガルーは後ろ脚をバネにしてぴょんと懐に跳び込んできた。火野の手の中にすっぽり収まり、猫のようにごろごろとじゃれている。指先で腹を撫でられると気持ちよさそうにぴいいと鳴いた。 「あら、なんだか本物より可愛らしいですわね」 「ああ? てめえなんつった」 相好を崩し始めた由姫を天子がぎろりと睨む。カンガルーをあやしながら、ごめんね、と火野が天子に苦笑を向けた。 「僕の悪戯が原因なんだ」 「え」 彼の言い分はこうだ。 ある日、ガン細胞の研究論文を読んだ彼は各種の動物細胞をどこからか取り寄せた。 ネズミカンガルーの細胞をチューブに移す段階で、実験台に落ちていたあるものに気づく。髪の毛だ。黒なら長さ次第で自分か由姫か判別できるものの、この色は十中八九天子だろう。火野はあまり深く考えず、好奇心でその髪をカットし、カンガルー細胞と共にチューブへ閉じ込めた。 彼の言の通り、培養スペースを改めて確認するとチューブが一つ、破れて落ちていた。つまりこのカンガルーは、謎のメカニズムで生成された天子のクローンなのだ。 「にわかには信じられませんけど、信じるしかありませんわね」 と言いつつ、由姫は火野の手のひらでくつろぐカンガルーにふりふりとキャベツ片を振る。前々から気づいてはいたが、生物部はみなどこかしらの思考がブッ飛んでいる。もうちょっと真剣に論じようよ、と直は困り果てた瞳を向けるだけ向けてみた。言えないから仕方ない。 天子はというと、げんなりした顔でカウチにうずくまっていた。それはそうだろう。自分がいつも抑えている感情を別の自分がまざまざと披露しているのだ。精神的に堪えるものがある。 「てことはなんですかね、もはや火野先輩大好きなのは遺伝子レベルで刻み込まれてることなんですね」 素知らぬふりで彩音が死体に鞭を打つ。あんたね、と天子を気遣いながら凛が口に人差し指を当てた。 「でもさ、確かに似てるけどその、細胞? カンガルー成分が入ってる時点でてんことは別もんじゃん」 全く空気を読めないはずの零が助け舟を出してくれる。まぁそうか、と天子もようやく顔を上げた。 考えてみればそうだ、簡単に自分が増えてたまるか。これはあくまで遺伝子操作された別人であって、自分とはなんら関係のない生き物だ。生きようが死のうが火野になつこうが、淡々と傍観していればいい。 「おや、もうこんな時間だね」 時刻は十八時半が近い。部活としてはそろそろお開きの時間だ。普段なら火野はまだ居座るはずだが、今日は図書館に寄るので早めに帰ると言う。 おやつの食器類を部員が片づけ、火野はそっとカンガルーをケージに戻そうとした、が。 「ぴい! ぴいぴい!」 置いていかれそうな雰囲気を察したのか、カンガルーはぎゅっと指に抱きついて離れようとしない。嫌がる子供のような甲高い鳴き声だ。困りましたわ、と由姫は眉を落とした。 →next ×
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