こてんこ
ひのてん

「実験生物ですから、この部屋で管理をしなければならないのですけど…先生や警備員さんに鳴き声を聞かれたら存在が知られてしまいますし」

「おとなしくしてろ。エサはそこにあんだろ」

「ガルルルル」

しがみついたまま、遺伝子の提供元に威嚇するカンガルー。
おいで、と火野は微笑みながら制服のポケットにカンガルーを招いた。潜り込んだフィット感が気に入ったのか、カンガルーはひょこっと顔を覗かせて満足そうにしている。

「連れて帰るんですの?」

「うん。生まれたての子をここに放っておくのは心配だから」

ポケットの上からぽんぽんと撫でてやると、安心しきった様子でとろとろと舟を漕ぐ。空腹も満たされ、遊び疲れて眠くなってきたようだ。

「この野郎…」

思わずそんな恨み節が天子の口をついて出た。甘やかされて、優しくされて、彼のマンションにまで連れ帰ってもらえるなんて。
控えめに言って羨ましすぎる。俺と代われよこのネズ公。

「『俺のこともお持ち帰りして下さい』ってこの際言いましょうよ、ね」

小声でそそのかしてきた彩音を軽くどつく。この際ってどの際だ。彼女は負けじと、天子に目配せしながら火野へ近づいた。

「火野先輩、図書館行くなら駅までわたしたちと一緒に帰りませんか」

ーーー

家から車が迎えに来る由姫を除いて、帰宅はおのずと帰る方向が同じ者で固まる。
第一中学校付近の零と薫と直。蓮華駅方面の彩音と凛、同じく駅へ向かう天子。そして学校付近に住んでいる火野。化学・生物が合同で活動する時はこのパターンに分かれるが、火野が蓮華の街に用事がある場合は駅方面のグループに合流する。そうなれば自然と二人で話す機会に恵まれるので、時たま訪れるこの時間が天子は好きだった。
部室で向かい合ってなんとなく言葉を交わすのもいいが、すぐ隣にいても許される距離は貴重だ。

「迷惑かけたね」

正門を出た火野の第一声はそれだった。丸まったポケットの膨らみを撫でつつ続ける。

「こんなことになるとは思わなくてびっくりしてるよ」

「……合成しちまったものはしょうがないんじゃないですか」

生態系が狂ったものを放すわけにもいかず、今更無に返そうものなら由姫が烈火の如く怒るだろう。解剖が趣味では説得力に欠けるが、彼女は無類の動物好きだ。エサもしっかり与えていた辺り、ミニカンガルーの世話を嬉々として行うに違いない。
諦めに近い感情で天子が返答する。

「まあね。僕も被験体として興味はあるし、しばらくは飼育しながら観察したいと思うよ。こてんこの細胞を取って、てんこの遺伝子とどれくらい似てるのかも比較したいね」

「こて……え?」

「ああ、この子の名前。小さいてんこだからこてんこ」

「あ、いいですね。こてんこちゃん、カワイイ」

前を歩いていた彩音が振り返る。お前、さてはずっと盗み聞きしてたろ。

「なんかパンダコパンダみたいね。覚えやすい」と凛。

ペットにしろ実験動物にしろ呼び名がないと不便だが、あんまりな名前だ。名付け親に文句が言えない天子はぶすっと黙り込んだものの、駅までの時間が惜しくなり、すぐに撤回して口を開いた。会話に勤しむために、こうして横を歩いているのだから。
蓮華駅の北口に到着すると、天子は彩音の背中に声をかけた。

「おいリス。お前なんで帰らねえんだよ」

彼女の家は北口手前の坂を下りていった先だ。普通ならとっくに別れている。えへへ、と彩音がニヤついた。

「わたしもその、本屋さんに寄りたいんですよね」

含みのある口調から、行き先がラモーブ横のアニメイトであるのは明白だった。

「またホモのエロ本買いに行くのか」

「エロ本とか言わないでください! わたしの教科書であり参考書なのに、そんな言い方セクハラですよ!」

「てめえ俺にだってあれこれ勝手なこと言ってんだろ」

お待ち帰りされろだの迫ってこいだの、あれがセクハラでなくてなんだというのだ。
分が悪いと感じたのか、お疲れ様でーす、と彩音は早々に手を振って話を切り上げた。凛もその後をついていく。お前もか。

「セクハラしたの?」

会話の断片が聞こえたのか、火野が苦笑しながら尋ねてくる。汚名はこの場で返上しなければ。

「俺はされてる方です」

「へえ、彩音ちゃんに。どんな?」

「どんなって、……」

口をつぐんだ天子はふーっと息を吐き出し、つまらなさそうにそっぽを向く。

「知ってるくせに、なんで訊くんですか」

「そうだね。これも広義で言えばハラスメントの範疇かな。ごめん」

「ぴいー……」

火野のポケットから上擦った鳴き声が漏れ、もぞもぞと身じろぐ気配がした。顔を覗かせたカンガルーもといこてんこは、ふわっとあくびをして主人を見上げる。火野がそばにいるか確認したかったのだろう。

「歩く振動で目が覚めたんだね。帰ったらちゃんとベッドを作ってあげないと」

ちょいと差し出された指を嬉しそうに抱きしめる姿に言いようのない羞恥が込み上げる。目を背けそうになるが、ふと気づいてしまった。小動物に向けられる優しい眼差しに。

ーーもし自分を愛してくれたら、この人はこんな顔をするのだろうか。

脆いミルフィーユのように、仮定と想像を繰り返し重ねてようやく得られる未来。それが今、目の前にある。
名前を呼んで、甘い声を囁いて、そっと肌を撫でて。その表情から、目が離せなかった。

愛されたい。大切にされたい。
心の内側から溢れる気持ちを、もう抑えたくない。

「っ………」

空いていた片手をぎゅっと掴めば、火野が小さく目を瞠る。

「好き、です…」

吐出する想いの大半を手の力に込め、声はボリュームを限界まで絞って伝えた。駅構内のざわめきの中で、彼にだけははっきりと聞こえただろう。どう切り返すかを考えているのか、火野は黙したままだ。
じりじりとした重い沈黙は、天子の悲鳴によってあっさり破られた。

「いってええ!」

親指の付け根に鋭い痛みが走る。見れば、全身でしがみついたこてんこがガブガブと容赦なく前歯を立てているではないか。ダメだよ、と火野がこてんこを手で覆って諌めた。

「大丈夫?」

「あー…まぁ、解剖メスで切るよりは」

檻の移動で噛まれた直は歯型がつく程度だったが、天子の手はうっすらと血が滲んでいた。とはいえ薄皮を切っただけで、傷自体は浅そうだ。
火野はポケットティッシュで血を拭い、てきぱきと絆創膏を貼ってくれた。彼でなければ『絆創膏持ってるとか女子かよ』とツッコミを入れたいところだ。
人気のない夜のペデストリアンデッキまで来ると、火野は犯人をひょいと視線の高さまで持ち上げ、諭すように静かな声で言い聞かせた。

「こてんこ、人に噛み付いてはいけないよ。守れないなら檻に入ってもらうからね」

「ぴい……ふええ」

叱られていると理解できたのか、カンガルーはしゅんと尻尾を垂らして弱々しい声をこぼす。

「反省する時はごめんなさいをするの。こうして頭をペコっとするんだよ」

実際にやってみせてから、火野がこてんこの頭部を指でちょいと押せば、カンガルーはぺこりとお辞儀してみせた。

「いい子だね。よしよし」

「ぴいー」

しつけタイムを終え、頭と背中を撫でられると甘えるような声で鳴く。じゃあ、と彼は天子に向き直った。

「また明日ね」

「えっ、ちょっ!」

ひらひらと手を振る後ろ姿を追いかけようとしたものの、天子は数歩先で立ち止まってため息をつく。追いついたところで何を言えばいいのか。

(はぐらかされた…)

いつもそうだ。もう何度も想いのたけをぶちまけているのに、『ありがとう』や『そうなんだね』と気のない返事ばかり寄越される。もちろん拒否されないだけマシと思うべきだが、相手にされない侘しさはどうにも紛らわせない。
受け入れるつもりがないのなら、どうして彼は同じ部活に自分を置いてくれるのだろう。
わからないまま、今夜も上りの電車に乗り込む。


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