32
うちの高校は柔道が強く、そのおかげで体育館とは別に武道棟なるものがある。一階が柔道場で二階が剣道場。剣道部は団体だと地区大会で入賞するかどうかのぎりぎりで、そこまで強くはないが練習はそれなりに熱心だ。
玄関で靴を脱ぎ剣道場のある2階に登ると、剣道部ならではの防具や汗の混じった匂いがする。一度友達をここに連れてきたときには臭いといわれたが、中学から続けているとなるとさすがに鼻も慣れてくる。
コートが二面取れる広い道場では、後輩が稽古準備で道場の掃除をしている。一人が俺に気付いて声を上げれば、連鎖するように全員が振り返った。まだ道場に先輩が居る様子は無い。意外と早く着いてしまったらしい。
後輩に返事をして、道場脇にある部室に「失礼します」と言いながら入ると、奥から気の抜けた返事が返ってきた。見れば、丸山先輩が胴着姿で壁を背に座り込んで漫画を読んでいる。
丸山先輩はうちの副主将で、おまけに学校の副会長もやっている。たれ目でオーバーリアクションな上に独特の方言を使うから、ついついイロモノ扱いをされる事も多いけど、喋りやすいし面倒見も良いので人望は厚い。同じ部ということもあって、結構目をかけてもらってるから俺も先輩が好きだ。
「お、城田。はやいな」
「おはようございます。丸山先輩、なにやってんですか」
「だって道場に後輩しかおらんもん、寂しぃで本読んどったとこ」
ぱたん、とコミックスを閉じて先輩は立ち上がり袴に付いたほこりを払う。
「寂しいって、堂々としてれば良いのに」
曲がりなりにも3年生だ。一年に遠慮する必要なんて無いのに。
しかし俺の言葉に、先輩はけらけら笑う。
「いやいや、お局様みたいなの俺は向かんし、そういうのは浅井の仕事」
浅井とは、主将の浅井先輩のことだ。
「まだ一年と喋るの慣れんしなぁ。でも、城田来たで心強いわ。ほれはやく着替えときぃ」
ぐいぐい俺の背を押してロッカー前まで押し込むと、先輩はかけてある俺の胴着をポイポイ投げてくる。
2年を味方にして心強いってのは、先輩としてどうなんだろう。
俺は苦笑しながら胴着を受け取ると、しぶしぶといった風を装って服を脱ぎはじめた。
胴着はひとまずロッカーに置いておいて、学ランをロッカー内のハンガーにかける。カッターシャツのボタンを外して腕を抜くと、上半身があらわになった。
置いておいた胴着を着ようと手を伸ばしたところで……俺はふと背中に視線を感じた。それは背後に先輩がいるんだから、当たり前なのだけれど、……何かを忘れている気がする。
先輩のゆるい雰囲気に、大事なことを見落としたような。
「……ん? 城田、背中ポツポツ赤いけどどうしたん?」
――しまった。
ざっと血の気が引いた。
背中には、夜と朝、本神先輩に無体をはたらかれた痕がくっきり散らばっている。
思わずがばっと胴着を被り、背中をかばうように振り返って、丸山先輩の眼も見れないままぎこちなく笑う。
「さ、最近、もう蚊が出てきましたよね」
まだ運動もしていないのに、額からじっとり汗が滲む。
「蚊ぁ? おまえ寝るとき裸なん? まだ6月前だけど」
「お、俺、蚊に刺されやすいんです!」
最近気付いたけれど、俺、言い訳や取り繕うのが壊滅的に下手だよな……。
「ふーん。めちゃ食われとるし、よっぽど城田の血ぃ美味いんかな」
「です!」
何か釈然としない節があるけれど、先輩がふんふんとうなずくように言う。
食ってるのは蚊じゃなくて本神先輩だし、食われてるのは血じゃなくて肌というかむしろ俺そのものだとは間違っても言えない。
ごまかせたとホッとした俺に、しかし先輩は最後の最後で爆弾を落す。
「でも、あんま他の奴に見せたらいかんぞー。何かキスマークみたいだし」
ぐっとつまりそうになるのをこらえ、俺はかろうじて笑う。
「き、キスマークって先輩、朝からなに言ってんですか!」
語尾が変に上ずり、平静を装うふりをしても心臓は早鐘を打つ。
「まぁ、ピュアな城田にはありえんか、ははは」
人をビックリさせておいて何事も無かったように笑うが、こっちはソレが事実なんだから……笑い事じゃない。
丸山先輩のせいで、その日の朝練にはちっとも身が入らなかった。
玄関で靴を脱ぎ剣道場のある2階に登ると、剣道部ならではの防具や汗の混じった匂いがする。一度友達をここに連れてきたときには臭いといわれたが、中学から続けているとなるとさすがに鼻も慣れてくる。
コートが二面取れる広い道場では、後輩が稽古準備で道場の掃除をしている。一人が俺に気付いて声を上げれば、連鎖するように全員が振り返った。まだ道場に先輩が居る様子は無い。意外と早く着いてしまったらしい。
後輩に返事をして、道場脇にある部室に「失礼します」と言いながら入ると、奥から気の抜けた返事が返ってきた。見れば、丸山先輩が胴着姿で壁を背に座り込んで漫画を読んでいる。
丸山先輩はうちの副主将で、おまけに学校の副会長もやっている。たれ目でオーバーリアクションな上に独特の方言を使うから、ついついイロモノ扱いをされる事も多いけど、喋りやすいし面倒見も良いので人望は厚い。同じ部ということもあって、結構目をかけてもらってるから俺も先輩が好きだ。
「お、城田。はやいな」
「おはようございます。丸山先輩、なにやってんですか」
「だって道場に後輩しかおらんもん、寂しぃで本読んどったとこ」
ぱたん、とコミックスを閉じて先輩は立ち上がり袴に付いたほこりを払う。
「寂しいって、堂々としてれば良いのに」
曲がりなりにも3年生だ。一年に遠慮する必要なんて無いのに。
しかし俺の言葉に、先輩はけらけら笑う。
「いやいや、お局様みたいなの俺は向かんし、そういうのは浅井の仕事」
浅井とは、主将の浅井先輩のことだ。
「まだ一年と喋るの慣れんしなぁ。でも、城田来たで心強いわ。ほれはやく着替えときぃ」
ぐいぐい俺の背を押してロッカー前まで押し込むと、先輩はかけてある俺の胴着をポイポイ投げてくる。
2年を味方にして心強いってのは、先輩としてどうなんだろう。
俺は苦笑しながら胴着を受け取ると、しぶしぶといった風を装って服を脱ぎはじめた。
胴着はひとまずロッカーに置いておいて、学ランをロッカー内のハンガーにかける。カッターシャツのボタンを外して腕を抜くと、上半身があらわになった。
置いておいた胴着を着ようと手を伸ばしたところで……俺はふと背中に視線を感じた。それは背後に先輩がいるんだから、当たり前なのだけれど、……何かを忘れている気がする。
先輩のゆるい雰囲気に、大事なことを見落としたような。
「……ん? 城田、背中ポツポツ赤いけどどうしたん?」
――しまった。
ざっと血の気が引いた。
背中には、夜と朝、本神先輩に無体をはたらかれた痕がくっきり散らばっている。
思わずがばっと胴着を被り、背中をかばうように振り返って、丸山先輩の眼も見れないままぎこちなく笑う。
「さ、最近、もう蚊が出てきましたよね」
まだ運動もしていないのに、額からじっとり汗が滲む。
「蚊ぁ? おまえ寝るとき裸なん? まだ6月前だけど」
「お、俺、蚊に刺されやすいんです!」
最近気付いたけれど、俺、言い訳や取り繕うのが壊滅的に下手だよな……。
「ふーん。めちゃ食われとるし、よっぽど城田の血ぃ美味いんかな」
「です!」
何か釈然としない節があるけれど、先輩がふんふんとうなずくように言う。
食ってるのは蚊じゃなくて本神先輩だし、食われてるのは血じゃなくて肌というかむしろ俺そのものだとは間違っても言えない。
ごまかせたとホッとした俺に、しかし先輩は最後の最後で爆弾を落す。
「でも、あんま他の奴に見せたらいかんぞー。何かキスマークみたいだし」
ぐっとつまりそうになるのをこらえ、俺はかろうじて笑う。
「き、キスマークって先輩、朝からなに言ってんですか!」
語尾が変に上ずり、平静を装うふりをしても心臓は早鐘を打つ。
「まぁ、ピュアな城田にはありえんか、ははは」
人をビックリさせておいて何事も無かったように笑うが、こっちはソレが事実なんだから……笑い事じゃない。
丸山先輩のせいで、その日の朝練にはちっとも身が入らなかった。