ほら、こんなにも温い


「ただいま」
先日まで一人暮らしだった古い木造アパートの床を踏み鳴らし奥へ向かってカカシは声をかけた。
彼女を引き取ってから同僚たちに眉を顰められる状態が続いている。余計なトラブルを引き入れている自覚はあるが、それでも彼は家に帰れば疲労など吹き飛んでいくようだと思った。
相変わらず彼女が自分に反応を示すことはないが、手を洗いうがいを済ませ、今日の任務でついた赤を流してくると、彼女の細い指へと己が手を這わせる。
どれだけ恋に盲目なカカシだろうとこの手をきれいと口にすることはできなかった。
苦労をしてきたのだろう。元々つぎはぎだらけの彼女の両手は投薬でさらに歪に歪んで変形していた。
骨から異常をきたしていて褒められる部分などストレスと栄養失調の為の細さ位しか思いつかないほどである。
指だけではない、身体も顔も余すところなく目を向けてきたカカシには彼女の本当の皮膚の色がどれなのかわからなかった。
国作りのための礎となったいち戦士の前髪に口づけを落とす。そのまま首の後ろに手を通して頭を抱きしめるが彼女の手が背中に回ることはなかった。
秘密の話をする少年少女のように女の耳のすぐそばまで口を持っていき、今日の出来事を報告する。
「皆、菫さんのことを死んでるって言うんだよ。こんなに温かいのにね」
でもそれを知ってるのはオレだけだから仕方ないよね、と眉を下げ微笑むカカシが生きていてよかったと呪詛のように今日も唱えた。
相変わらず彼女の反応はない。カカシには小さな夢があった。
彼女と並んで任務を熟し、共に生きていくこと。たったそれだけの、どこにでもありそうな小さな夢。
あの凛とした菫青石色の瞳を自分に向け笑ってもらう夢。もうきっと叶うことはないのだろうけれど。
それでもカカシはそこに菫が存在しているだけで幸せだったのだ。
取り零していったいくつもの命を悔やみ続け、背負い続け、やっと救えたたった一つの命だったのだから。
「菫さん、お風呂に入ろうか」
さっぱりしてからご飯にしようと優しく抱きかかえると、そのまま器用に菫の為に買ってきた女物の服を棚から取り出したのだった。


独身用の狭いアパートで人ひとり寝かせられるほどのスペースなどない。
動かない彼女を倒れないようにするため抱きこむように足の間に彼女を座らせこれまた彼女のために買ってきたスポンジで泡立てる。
滑るように傷とつぎはぎだらけの菫の肌を移動するも擽りにもやはり反応を示すことなく、着々と作業を進めていく。
一切甘い雰囲気にならないのにそれでもカカシの笑みは崩れることはなかった。
シャンプーが目に入ろうが痛がることなく翌日真っ赤に腫らした菫にカカシは慌て謝罪を繰り返したのだが、今ではもう慣れたもので、シャンプーハットの上で毎日カカシが整えている髪を洗い流し、隠れてしまった部分を最新の注意を払いながら再び泡に触れさせる。
幾日かたてば捕虜の時にはドブネズミのような脂ぎってごわついた髪の毛もつやを取り戻しだした。
虚空を見つめる彼女の代わりにちゃんとまだ生きているんだとカカシが喜んだ。ここに、いる。思わず抱きしめてしまったのは許してほしい。
そうやって彼女が生きている証を一つ一つ大切に記録していくカカシが彼女に服を着せ、流動食じみたご飯を食べさせ抱きかかえたまま床ずれ防止のためとマッサージを施してやったりしてゆったりとした時間を過ごし。
「受け入れてほしい、オレを愛して。菫さん……」
ベッドの上で菫の口にかぶりつくのだ。
飢えた獣のようである毎晩のハジマリの言葉はその実、縋るような弱さを見せるのだった。


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