WT | ナノ
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -




01

今日、あの人は居るだろうか。
大きく伸びをしながら、朝特有の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込む。まだ日が昇ったばかりのこの時間帯は、活動している人が殆どいなくて車の通りもない。いつもの喧騒が嘘のような朝の静けさが私は好きだった。
右手に持ったリードを強く握り、楽しそうに左右に揺れる尻尾を見ながら毎日のルートを辿る。すれ違う人はいつも見かける顔ばかりで、ジョギングや散歩をする人だったり、同じように犬の散歩をする人だったり様々だ。目が合えば軽い会釈をして、犬同士がじゃれあうと挨拶を交わしたり一言二言世間話をしたりもする。年配の方が多いので大体それだけで終わりだけれど、これから行く公園はちょっと違った。


「チョコ、今日は会えるかな?」


名前を呼ぶと、くるりとした瞳で私を見上げてくる。会いたい、という気持ちが無意識に出てしまったのだろうか。自分の声が期待で弾んでいる事に気が付いて思わず苦笑する。
私の住んでいる蓮乃辺から、三門市方面に向かって歩く事二十分。ちょうど三門市に入った辺りの場所にある公園は、小さいけれど無料開放されているドッグランがある。早朝のこの時間帯に利用する人は殆どおらず、チョコも目一杯遊べるという理由からお散歩コースに決まったのだけれど、ここ半年の間はもう一つ別の理由があった。
公園に着くや否や、グッとリードが引っ張られて前のめりになる。興奮しているのか、ぶんぶんと千切れんばかりに振られる尻尾。チョコがこんなにも逸るなんて、もしかして――。


「……居た」


フェンスに囲まれた中で、放たれたボールを追いかける一匹の犬と、見守るように立っている男の人。彼を認識した瞬間、私もチョコと同じように駆け足になる。カサカサと草を蹴る音が聞こえたのか、フェンスの扉を開ける直前彼の視線がこちらへ向いた。
距離があるのにも関わらず、一目で分かる端整な顔立ち。朝なのに気だるそうな雰囲気は全くなくて、にこりと優しげな笑みが浮かべられた。


「おはよう」
「おはようございます」


風を受けたせいで乱れてしまった髪の毛を手櫛で整えた後、早く早くとこちらを見上げるチョコのリードを外した途端、凄いスピードで駆けていった小さな姿。彼の愛犬のコロちゃんとじゃれ合うのを見て、つい笑いが漏れてしまう。


「はは、元気だな」
「本当ですね」


隣で笑う彼の事を、私はよく知らない。年齢も職業も住んでいる場所も、名前さえも分からない。落ち着いた雰囲気だし、何となく年上かな? と予想しているだけだ。
初めて会ったのは半年前。毎日私とチョコで独占していたこの場所へコロちゃんと一緒にふらりと現れた彼。会釈とともに軽い挨拶を交わして「ここ、有料ですか?」そう聞いてきた彼に「無料開放されてますよ」と返したのが最初の会話だったと思う。
そこから時々ここに来るようになって、チョコとコロちゃんが同じ犬種だった事もあり、少しずつ話すようになった。話す度に彼に好感を抱く自分が居るけれど、中々一歩が踏み出せない。
元々積極的な性格ではないし、コミュニケーションに長けているわけでもない。彼はカッコイイし、彼女がいたっておかしくない。そう考えてしまうと踏み込むのを躊躇ってしまう。せめて名前くらいは、と思ってもこの場所のメインはあくまで犬たちなのだから何となく聞きづらくて、今に至るというわけだ。


「今日は晴れて良かったですね」
「そうだな」
「最近雨が続いてたから、チョコが元気なくて」
「コロもつまらなさそうだったよ」
「久しぶりに走れて嬉しそう」


私達の他に誰も居ない公園はとても静かだ。唯一の音を立てている二匹はとても楽しそうで、その様子を二人で眺めていた。いつもは遊ぼうと言わんばかりに私に寄ってくるチョコも、今日はコロちゃんと会えたのが余程嬉しいのかずっとじゃれている。もし私が犬だったら、きっとチョコみたいに彼に纏わりついて離れないんだろうな。なんて今の自分では不可能な事を考えていたが、「そういえば」と、隣から聞こえて来た声に思考を止めた。


「これ、よかったら貰ってくれないか?」
「え……でも」
「使わなければ誰かにあげてもいいんだが」
「いいん、ですか?」
「もちろん」


控えめに差し出した手にポトン、と乗せられたのものを近くに寄せて見てみれば、どうやらスマホリングのようだ。黒の五角形の中に星のマークが抜かれているものが五つ、円を描きながら並んでいて、更にその中に星が出来ているというデザイン。白と黒をベースに赤で縁取られたそれはシンプルだけど可愛くて、使いやすそうだった。


「かわいい。ありがとうございます」
「実はサンプルで貰ったものなんだ」
「サンプル?」
「ああ。でも自分で使うのはちょっとな……」


少しだけ眉を下げて困ったように笑う彼に、首を傾げる。自分で使うと何か不都合な事があるんだろうか。私だったら喜んで使うけど、デザインが気に入らなかったとか? でもこのデザイン……どこかで見た事がある気がする。何かのブランド? でもこんなロゴの会社あったっけ? 何かが引っかかっているのに、それが何なのか思い出せなくてもやもやしてしまう。一つヒントをもらえればすぐに思い出せそうな気がするから尚更だ。これが友達なら何の躊躇いもなく聞くんだけど、彼相手となるとそうもいかないのが辛いところだ。
それにしても、サンプルでこういう商品をもらえる事ってあまりないよね。大学生かと勝手に思っていたけど、実は社会人だったりするんだろうか。もしそうだったら益々手が届かないなあ。ただでさえ彼の事を何も知らないのに、更に知らない事が増えていく。
何か一つでも……名前だけでも知れたらいいのに。今度、思い切って聞いてみようか。きっと彼なら嫌な顔せず教えてくれると思うから。


「あ、もうこんな時間」
「本当だ。早いな」
「もう行かなきゃ。チョコ、おいで」


楽しそうに遊んでいるところをただ見ていただけだったが、随分と時間が経っていたらしい。素直にこちらへ戻ってきたチョコにリードを付け直すと、彼に向かって軽く頭を下げた。


「ありがとうございました」
「またな」


ふわりと柔和な笑みを浮かべながら言われた一言に心が浮き足立つ。彼にとってはただの挨拶だったのかもしれないけど、またな、という次を匂わせるような言葉が私には凄く嬉しくて、思わず破顔する。


「はい」


私は彼の事を何も知らない。
でも、彼の事が好きなのだ。


back] [next



[ back to top ]