とき色ディスペア


あの日、ナマエを絶望から救ったのは、絶望をばらまく男だった。



ひとり屋上のふちに立ち、吹き付ける冷たい風の向こうできらめき出すネオンを、虚ろに見つめていた。

下を覗き込めば、そこにも宝石のような輝きが満ちていて、ヘドが出る。

目下の世界はナマエにとっての深淵でしかなく、おぞましい何かが心臓へまとわりついて、離れない。

(ここで飛んでも、悦ばせるだけかしら)

ナマエは、視線を前方に戻した。とき色の夕暮れに黒くそびえるビル群を見て、首を降る。

どうでもいい。どうせ暗闇に沈んで、何もかも分からなくなる。その方が幸せなのだ。

任せたところで持ち上げる力もない風に身体を乗せようと、瞳を伏せる。

「───おォやおや、翼もないのにどうやって飛ぶつもりなんですかァ?」

刹那、背後から掛かった声に反射的に肩を揺らした。

「危ないですねぇ。この高さなら、散ってしまうのも容易いこと」

ゆっくり振り返ると、そこに紳士がひとり。シルクハットと、鳥のような風貌が、暮れる景色によく馴染んでいる気がした。

「それに、勿体ないですよ」

それまで穏やかでおどけた口振りだったのが、瞬時に冷ややかになる。

「貴女のその絶望、どうせなら"素敵なこと"のために使ってみません?」

素敵なこと?

訝しげに眉を潜めたナマエに、男は懐から何かをちらつかせた。───結晶だ。深い闇色をした、大きな結晶。

男の薄ら笑いがさらに濃くなる。

ああ、胡散くさい。信用性に欠ける。こんなペテン師など。

心の片すみ、まだ温度の残るところではそう考えた。けれどナマエの瞳はもう、結晶に釘付けだった。その奥底に秘められた輝きに惹き付けられて、迷わず手を伸ばす。

「まあ、私みたいな怪物になっちゃうんですけどねえ! …………しかし」

心臓がひとつ大きく脈打つ。霧がナマエの身体を取り巻いて、沸き立ってくる黒々とした感情。骨が軋み形を成していく痛みさえ、気にならない。

「貴女自らそれを望むなら、きっと絶大な力が手に入るでしょう」

悠然と、まぶたを開く。

先までの、否、今までの自分の何もかもを脱ぎ捨てて、生まれ変わったかのような。胸に巣食う感情は、燃えるように冷たい。

「さあ、我々と共に行きましょう」

嘘か、誠か。

そんなことは、考えるより前に現実が教えてくれる。

一番星が光る頃、苦痛と虚無感だけがせめぎあう狭くて広い箱庭に、さよならをする。



ーーーーー



「───ナマエ!?」

対峙するむてん丸一行の中にいたひとりが、彼女の名前を呼んだ。

「ナマエ、ナマエだよね、なんで、そっちに…………?」

ハチマキをした忍者の少年は、信じがたいと言いたげにナマエを見つめている。「シノブ、知り合いか?」彼の仲間も、その様子に戸惑って、ちらちらとナマエに目を向けていた。

(…………なに?)

ちり、と胸の奥が焼け付く。しのぶ。シノブ。彼の名前。

「んー? お知り合いでしたかァ? ゆっくり談笑する時間でも設けて差し上げたいところですが、生憎忙しいですからねぇ。残念ですけど……」

くつくつと笑い、卑しい笑みでそう言ったシルクハットの男───シック。

「またの機会にでも」

言葉の端々に茶目っ気を含ませて、彼は目に痛いグリーンの翼を広げた。傍らに控えるエリスやリトール、そしてナマエを包んで、この場から退くために。

「ま、待ってよ!」

シノブがナマエに向かって手を伸ばす。焦るその姿にまた、何かが焦げ付く。どうしてだろう。

「ねえ、キミはだれ? なんでわたしの名前を知ってるの?」

「……………………、えっ、?」

瞬間、まるで時が止まったかのように。

「わたしはキミのことなんて知らない」

鮮やかなライムグリーンに視界が遮断されるまで、ナマエは彼の顔から瞳を逸らせなかった。



ーーーーー



むてん丸たちと共に歩む旅路のなかで、懐かしい少女を見た。

遠い記憶に違わぬ面影を残した女の子は、けれど今や怪物となって、シックと共に絶望をばらまいている。戦うべき相手として、シノブの前に立ちはだかっている。

(ナマエ、キミに…………何があったの?)

長い前髪の下で、眉を寄せる。十年以来の再会なのに、こんなの悲しすぎる。

いったい、どうして?
小さい頃は一緒に無邪気に遊び回ったし、太陽みたいに笑う女の子だったでしょ?

ぎゅう、と拳を握り締めた。折れそうな気持ちを持ち直すように、きつく。

(助けなきゃ)

ぜったい助けて、もとの優しいナマエを取り戻して、昔と同じにまた笑い合うんだ。ぜったいだ、ぜったいに!

まだちっぽけだけれど、拙者はヒーローの端くれなんだから。



2019/01/13.







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