「ごめんね、花」
と、呟きました。
「あのね、花。わたし、あなたに渡したいものがあるの」
謝罪の意味を聞き直すより早く、鈴様が立ち上がり、部屋隅の棚の方へ向かいました。鈴様の甘やかなぬくもりばかりがわたしに残されます。
――鈴様。わたしはあなたに重大な裏切りをしているのです。
あなたはわたしをかようにも出来た人間のようにおっしゃりますが、本当はそうではないのです。わたしはわたしのわがままで、あなたに幸せになってほしいのです。あなたに、――結婚してほしくないのです。
わたしはすっかり切なさの海に溺れ、浸り切っておりました。この苦しみは鈴様には、鈴様にこそ伝えてはならないもの。
わたしは無意識にぎゅうと自らを抱きしめておりました。
「これをあなたに差し上げたいの」
わたしがソファで物思いに沈んでおりますと、鈴様は目当てのものを見つけ出したらしく、ぱたぱたとこちらへ戻り、ソファに腰掛けました。そうして、わたしに手のひらくらいの小さな箱を手渡しました。
「開けても、宜しいですか」
「ええ。開けて」
恐る恐る、わたしはその箱の蓋を取りました。
箱の中身。それは椿の髪留めでした。
この髪留めには心当たりがございます。数年前、鈴様が忍んで買われたものでした。どうしてもこの紅い髪留めが欲しかったのだと、当時、鈴様は壊れ物を扱うような繊細さで、その髪留めをわたしに見せてくださりました。それは、まさにその髪留めでした。紅の椿をあしらった、黒髪に生える艶やかな。
「これは、いただけませんわっ」
あなたが一等大切にされていたものではないですか。
わたしは慌てて鈴様にその髪留めを返そうとしました。
しかし、髪留めを返そうとするわたしを鈴様は静かに制しました。驚いて鈴様を見れば、「いいの」と首を振られます。
「わたしが持っていても仕方のないものだもの。わたしの髪は短すぎて止めることもできない」
鈴様は自分の髪をわずかにつまみ、悪戯っぽく笑みました。
確かに鈴様の髪は短い。髪留めがいらないくらいに。それでも、鈴様にはこの髪留めが必要なはずなのです。誰にも言えない秘密を抱えた鈴様がたった一度だけ自分に施した特赦なのですから。
なおも食い下がろうとするわたしに、鈴様は困った表情を浮かべました。
「お願いよ、花。それを誰かに見つかると困るの。特に結婚するとなるとね。
わたし、その髪留めが見つかっても結婚相手への贈り物だなんて言えやしないわ。そしたら、いろんな人に恥をかかせてしまう。迷惑になってしまう。
そこまでわかっているのだけれど、やっぱり捨てられなかった。失礼なのは承知しているわ。だけど、お願い、この椿をもらってちょうだい」
鈴様の手がわたしの頬に触れ、懇願する瞳がわたしを捉え、気付けばわたしはこっくりと頷いておりました。わかりました。と、答えておりました。鈴様の身体から力が抜けてゆきます。ごめんなさいね、と再度。
「わたし、花に非道いことしてしまったわ。赦して頂戴ね、本当に」
気付けば、鈴様の瞳からほろほろと涙が零れていました。
この方はなんて辛い定めを背負っているのでしょう。こんな、小さな椿すら所有を許されないなんて。わたしはなんの力にもなれない、と分かりきった悲しみに包まれてゆきます。
「いいのです。鈴様が望まれることならば、なんだって。それが侍女としての務めなのですから」
ですので、泣かないでくださいまし、と鈴様の濡れた頬に懐紙を当てます。僅かに黄みを帯びた紙は見る間に鈴様の涙を吸って色を変えてゆきます。哀しい色に。
「ちがうの。それだけじゃなくって」
しかし、鈴様はふるふると首を振るのです。
「花が結婚するのは、わたしのせいだから」
赤く腫れた瞳からほろりほろりと零れる滴は絶え間なく。鈴様の頬を濡らし、わたしの指を濡らしてゆきます。鈴様はこれほどまでの涙を我慢してこられたのかと思うと、胸がしくしくと痛み、いっそ裂けてしまいそうです。
「お父様がね、わたしとあなたのことを疑っているみたいなの。その、そういう関係なんじゃないかって。友達ですって、わたしは何度も申し上げたのだけれど、信じてくださらなかったの。今まではそれでも大目に見てくださっていたのだけれど、結婚するとなると少しの醜聞も許されないでしょう。あなたをお屋敷に置いておくわけにはいかなかったの」
鈴様の言葉に、わたしはようやく、急な縁談のわけも、大旦那様の訝しむ様子の意味も合点がゆきました。わたしは大旦那様にとって良くないものだったのです。
「縁談はいつかくる話ですから、鈴様がお気になさることありませんよ。もとより、しようのない事と思っておりましたから、不満はないのです」
……唯一、あなたに会えなくなることを除いては。
たった一言を心の中に押しとどめることがこんなにも辛いことだったとは知りませんでした。今にも喉を超えてしまいそうな慕情は、けれど、なんとしても押しとどめなければならないものでした。
わたしはニコリと笑いました。わざとらしさ一つも悟られてはなりません。
胸は痛くて、嵐の中のように心は乱れきっていて、鈴様と一緒に居たくて、なによりも美しい心と共に在りたくて、哀しく切なく、それでも笑いました。そんなわたしに、鈴様は再び涙をこぼしそうになり、慌てて取り繕うように無理矢理笑ってくださりました。
「わたし、あなたに出会えて幸せだった。これからも、生きてけるほどに」
「ええ。わたしもです」
「本当?」と、伺うように尋ねる鈴様に、わたしはしっかりと頷いて見せました。本当。本当です。
わたし、あなたのおかげで愛を知ったの。
「ねえ、鈴様。最後にこの髪留め、付けてみませんか」
「だっ、だめよ! わたしは花みたいに肌が白くないし、身体だって大きいし、なにより可愛くないから、似合わないわ。付けたって滑稽なだけよ」
いやいやと、首をふる鈴様。けれど、わたしも引くつもりはございません。これが最後になるのなら、せめてそのくらいのわがまま、許してほしいのです。
「鈴様、鈴様。鈴様はかわいいですよ。わたしの知る中で一番にかわいい、女の子です」
鈴様に詰め寄り、囁けば、見る間に顔が赤らんでゆきます。お願いです、とダメ押しでたので見れば、鈴様は渋々といった風で頷きました。
「でも、髪が短くて留められないから、当てるだけ。ね?」
「わかりました」
失礼します、と軽い会釈をして、わたしは手を伸ばし、鈴様の黒い髪に椿を当てました。


→続


  
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