嵐が行かなければ、確かに忘れることが出来ていたのかもしれない。
「……あの」
 ぼんやりと廊下の向こうに視線を飛ばす嵐へ、朱里が不安げな声をかける。迷いを断ち切るように一端目を閉じ、再び開けると、朱里へ視線を下ろした。
「今、何時だっけ」
「六時半ですけど」
「じゃあ、お風呂入ってから大広間行くよ。迷惑かけて悪いな」
 ぽん、と朱里の頭を叩いてから自室に戻るべく踵を返す。その背中をぽかんとした表情で見送る朱里に苦笑しつつ角を折れた。戻り方がわからない、という嘘はつくべきではなかったかもしれない。
「……で? あんたはいつまで嘘をつくつもりだよ」
 角を折れた所で嵐は低く言い放つ。くつくつと笑う声につられて視線を上げると、廊下を横切る太い梁の上、暗がりに紛れるようにして矢柄が腰掛けていた。
 顔に浮かぶのは先ほどまで見たような穏やかな笑みではなく、明らかにこちらを馬鹿にした笑みである。
「いつ気付いたんだね」
「あの部屋に入った時から、妙なもんが紛れ込んでる気はしてたけどな。あんただと気付いたのはついさっきだ」
 男三人で入っていた予約、それは梓と山戸、入野のことだろう。彼らの過去の話も何かも彼らだけの話で、そこに矢柄という人物は入らない。
 おかしいのはどちらかではない。元々歪んでいた梓らの輪に矢柄が入り込んだことで、更にその歪みを大きくしたのだ。
「あんたはあの三人とは何の関係もない。会話が出来ていたのも、三人の記憶でも見たんだろ。あの人たちはあの人たちで、自分たちが死んだこともわからなくなってたみたいだしな」
「ふむ、良い目だ。私が入ったことで余計わかりやすくしてしまったかな」
「どうだかね」
 嵐は梁を見ながら壁に寄りかかる。
「人の真似事でもしたくなったか」
 この問いかけに、矢柄は目を細めて笑った。
「いいや。見ているだけで充分面白い。だが、あの男たちの因果は見ているだけではつまらなくってね、つい混じりこんでしまった」
「その割には化け方が上手いもんだが」
「やるからには徹底的がいいだろう?」
「……いい根性だ」
 話しながら疲れていく自分を感じる。
 彼らの歪んだ輪は、このようなものにつけこまれる隙間さえ与えてしまった。
 それは決して、歓迎されるべきものではない。ないにしろ、そんな隙間を与えてしまった責は彼らにもある。
──死んで償うっていうのはあまり好きじゃない。
 苦手な感覚だ。
 何度目かに嘆息して後、壁から離れ、煙草を突っ込んだカップ酒を矢柄に向けて掲げた。
「あの人たちが吸ってた煙草、あんたが持ってるんだろう。下手に扱われてこの家を火事にでもされたら困るんでね。返してくれないか」
「殊勝な真似をするね。お前は何をくれる?」
「何もやらないよ。俺はあんたの遊びを邪魔しなかっただろう」
 矢柄は肩を揺らして笑った。
「そうだね。殊勝という言葉は似合わなかったか。いいだろう、そら」
 ぴん、と指で何かを弾く動作をすると、そこから放物線を描いて火のついた煙草が飛び出し、嵐の手中にあるカップ酒へ着水する。火の消える音と共に三本目の煙草が底に沈んだ。
 それを苦い思いで見送ると、嵐は再び顔を上げる。
「あんたはこの家についてるのか」
「おっと、今のでお前と私の因果は帳消ししたよ。これ以上答える義理はないねえ。余所者はさっさとお帰り」
 一瞬、卑しい笑いを顔に貼り付ける矢柄を見つめてから、嵐は小さく息を吐いて足を踏み出した。
「そうだな」
 背後から、そんな嵐の背中を嘲笑うかのような矢柄の笑い声が聞こえてきた。



三章 終り

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