「……いや、あの」
 ちらちらと嵐を見る朱里の視線は警戒と恥ずかしさに満ちている。これほど人見知りされてまで案内されるよりも、場所を教えてもらって自分で行った方が朱里のためにも良いのではないだろうかと嵐は声を上げた。
 しかし数野はお願いね、とだけ言うとさっさと廊下を歩いて行ってしまう。ぎしぎしと数野の体重に悲鳴を上げる廊下の声を、二人はただ突っ立って見送るしかなかった。



 二歩ほど離れて朱里の案内についていくが、それでも彼女の人見知りは度を越えているようだった。見知らぬ嵐が後ろにいるというだけでもう駄目なようであり、小柄な体を更に小さくして足早に歩を進める。
 それでもさすが旅館業を営んでいる家の孫であるからか、必要事項の説明だけはちゃんと行っていた。
「トイレと洗面は共同です。非常口もその隣にあります」
「……部屋の場所だけ教えてもらえれば一人で行くよ。お祖母ちゃんにも言わないし」
 そろそろこの苦行から解放してやるつもりで声をかける。だが、朱里は歩を止めて僅かに振り返った。
「お祖母ちゃんに頼まれたのは私です。お客さんをちゃんと案内します」
 思いがけず耳にした強い口調に気圧されていると、朱里はまた身を小さくして小走り気味に歩き始める。なるほど、この芯の強さは数野に似ているかもしれなかった。
「……今日はお客さんが少ないんです」
 廊下を歩きながら朱里が初めて、必要事項以外の事を口にする。
「だからいつもは隣り合った部屋にお客さんをどんどん入れていくんですけど」
 言いながら角を折れてすぐの襖の前に立ち、「こちらです」と示す。襖を開けて朱里が先に入り、照明の紐を引っ張って電気をつけた。
 こぢんまりとした室内には卓袱台と保温用ポット、お茶を入れる一式の道具が中央に置かれ、部屋の隅に小さな金庫と布団、床の間に可愛らしい花が活けてあった。クローゼットのようなものが無い代わりにハンガーが壁に引っかかっているだけだが、シーズンだけ開けている宿にしては随分と備えがいい。
 四面の壁の内、三面が襖という状態だが、下手な民宿に泊まるよりもずっと良かった。
 嵐が部屋の中央に入るのと入れ代わりに朱里は出入り口に戻る。
「今日はお客さんが少ないので、お隣さんはいません。だからいつもよりは静かに過ごせると思います」
 確かに、襖の壁では隣の声が丸聞こえだろう。そんないつもの光景を知っている朱里だからこそ、いつもより静かという言葉が出るのだ。他の客らしき声も微かに聞こえるのみである。
「お夕飯はもう少ししたらお母さんが部屋にお持ちします。食事が終わったら部屋の外に出しておいて下さい。……えっと、他に何かお聞きしたいことはありますか?」
 すぐにでもこの場から去りたいという雰囲気をかもし出す朱里に、質問があっても口にする勇気はなかった。
 無い、と言うと朱里は少しほっとしたような顔になり、丁寧に頭を下げて退室する。
 上着を脱いで寛ごうとすると、もう少し待つまでもなく母親らしき女性が夕食を持ってきた。寒さと空腹と疲労で一杯だった身には、素朴な品揃えであっても温かな食事が一番嬉しい。
 それでもしっかりと、揚げ物を除いた一式は揃って出されているのだから、部屋の具合といいシーズンのみの旅館業であっても、ちゃんと客をもてなす対応が出来ているのだと察せられた。
 ようやく人心地ついて一人食事を取りつつ、嵐はここについた時の妙に落ち着いた気分を思い出した。
 出来る限り面倒事は回避するが、そんな人間の足掻きを笑うかのようにごく自然と出来事が進んでいる時がある。
 予約を取ったはずが泊まれず、そこへ助け舟のごとく現れた数野の家は寺の流れをくむ──どう考えても日頃の運の向きからすれば出来すぎている。
「こういう時は流れに任せるに限る……」
 だし汁を含んだ熱い飛竜頭をかじった。冷え切っていた体も空きっ腹も一気に満たされていく。
 家を見た時に落ち着いたそれは、時に諦めとも呼ぶ感情だった。そんな時は下手に動かず、事の成り行きに身を任せた方がいい。
 一人でご飯をかきこむ嵐の耳に、どこからともなく談笑する声が届いた。



一章 終り

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