「蘇芳さんの屋敷では観桜会ってやってましたか」
 淡い緑の液体が光に反射するさまを眺めていた店主は一瞬、ぽかんとして、それから考えるように視線を中空へ投げた。
「そうだねえ。……そうだなあ、やってるかもしれないね」
 それまでの鞭撻な口調はどこへやら、一気に心許ない口調へと変わった店主に嵐は更に聞く。すると、中空へ視線を投げている間にマグカップから溢れ出た緑茶に気付き、店主は慌てて台拭きで吹き始めた。
「ほら、あたしは遠縁だから呼ばれはしないさ。親戚の話を聞いてるとやってはいたみたいだけど」
「それと、あの」
 ここで初めて機会を得たとばかりに石本が口を開く。それまで槇や嵐としか話していなかった店主は石本の存在に初めて気付き、いくらか驚きながら彼の言葉を待った。
「蘇芳さんのご家族が入る前に、あの屋敷に住んでいた施工主の高屋敷さんって方はご存知ないですか」
 高屋敷、と呟いて店主は腕を組む。話好きのする人間なら、どこかしらで耳が噂話でも何でも拾っているものだ。そう踏んだ石本は期待で思わず身を乗り出したが、返ってきた答えは乗り出した上半身の力を失わせるのに充分だった。
「そういう一家が前にいたっていうのは聞いたことあるけど、なんせ、生まれる前のことだからねえ。さすがに生まれる前のことまでは知っちゃいないよ」
 悪いね、と苦笑する店主に槇と嵐は礼を言い、再び三人の作戦会議に戻った。
 落胆から立ち直ったらしい石本の手からメモをひったくり、読み返しながら槇は恐ろしく簡単な感想を述べてみせる。
「……めんどくさそうな奴」
「槇さんに言われたくないと思いますよ」
 容赦ない石本の一言に怒るでもなく、槇は一通り読み終えると嵐にメモを渡した。槇の汚い字で刑事は大概そういうものだと偏見を持っていた嵐は、予想外に見やすく、かつ理解しやすい石本のメモの取り方に少なからず尊敬の念を抱いたものだ。槇のパートナーとして捜査しているなら、嫌でもこういう細かい芸当が身につくものなのだろうか。それなら槇の影響力とは良し悪しは別にして本当に大きいのだろう。
 店主の速い弁舌に一生懸命ついて行こうとする努力が見えるメモを読みながら、嵐は槇に確認しつつ自分の中で整理する。
「蘇芳小五郎の前に蘇芳与四郎がいたんですね」
「そりゃ父親だからいるだろ」
「……じゃなくて、調べた時に蘇芳与四郎なんて名前、無かったんですよ」
「あの屋敷に転居した時に既に父親が高齢だったために息子が世帯主となった。昔だと個人情報の扱いも高が知れてる、じゃ駄目か」
「もしくは蘇芳与四郎が世帯主としての役割を果たせなかった為に、以下同文」
 石本も話に参加する。その頭を槇が軽く叩いた。
「何だよそれ。役割を果たせなかったって」
「知りませんよ。病気か何か……世帯主って世帯の中心になる人を言うんでしょう。その定義ははっきりとはされてませんが、世帯の中心になる以上、家計を担うと考えていいんじゃないんですか」
「それで家計を担うことが出来なくなって、ってことですか?」
 槇に叩かれた部分をさすりながら石本は答える。
「恐らくは。高齢でもそういう立場を気にする方は、安易に息子へ譲ったりはしないでしょう。昔なら尚更だと思いますよ。蘇芳与四郎という人は、聞く限りじゃそういう人みたいですし」
 極端なまでの厳格さ。昔の日本の父親像そのままの男であったことは、店主の話から想像に難くない。石本の説には頷ける。
「あまり深く考える必要もないんじゃねえか?」
 石本の言葉に耳を傾けて考え始めた嵐に、槇が一つ残ったサンドイッチを突き出した。
「とりあえず、それ食ったら再戦だ」
「またあの坂ですか……」
「若い奴がオレよりへばってどうするんだよ」
「槇さんが異常に元気過ぎるんですよ」
「あ?」
 二人の漫才まがいの会話を聞きながら、嵐は残ったサンドイッチを口にした。時間が経って、パンや野菜が乾燥し始めている。頬張った途端に口中の水分を吸い取るものだから、慌ててコーヒーで飲み下した。
──蘇芳与四郎。
 文章として残らなかった名前に、嵐はやはり引っかかるものを覚えずにはいられなかった。父親の名前だからこそ、昔ならば大事に扱うものではないのだろうか。



二章 終り

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