そろそろと後ずさる雑鬼をねめつけた嵐は手を払い、飄々として返した。
「何でもない。虫」
「うそ、取れた? 潰したりしてないでしょうね?」
 真琴は慌てて背中を見分しようとする。だが、どう足掻いたところで自分の背中が見れるはずもない。
「飛んでいったよ。潰してないと思う、多分」
「多分って何よ」
 詰め寄る真琴に、うるさそうに顔をしかめて角を曲がった時、二人に驚いて足を止める小柄な人影があった。驚かれるとは思わなかった二人も同じようにして口を閉じて凝視してしまい、凝視された方は思わず後ずさる。
 短く切った髪に大きな目、背丈は中学生くらいの少年だった。茶色のダッフルコートのポケットに両手を突っ込み、コートの裾から伸びるジーンズの足は俊敏そうな印象を与える。まだ成長途中という相貌でありながらも、一瞬、見せた驚きをひっこめて台頭させた睨みは大人に通ずるものがあった。凄みをきかせているつもりだろうが、人間の──特に子供のそういったものには怯まなくなった嵐にとっては猫が牙を向いているのと同じで、仕方なしに体をどけて道を譲る。面倒事は避けたかった。
 通り過ぎる間際にもう一睨みきかせると、少年は印象そのまま、軽快な足取りで駆け抜けていく。後ろを振り返らず、ただ走る後ろ姿は冬の風のようだ。
 半ば呆気に取られてその後姿を見送っていた真琴が思い出したように声をあげる。
「……見たことある、あの子」
「知り合い?」
 腕を組んで呻り、真琴は地面に視線を落とす。
「武文の友達よ、確か。名前何て言ったっけ……戸倉、じゃなくて上山でもなくて」
「……知り合いも驚く記憶力だな」
 ぶつぶつといくつもの名前を列挙しては否定する真琴を置いて、嵐は歩き出す。その後を慌てて追いかけながら、真琴は反論した。
「仕方ないでしょう。友達の人数だけは多いんだから、あいつ」
「へえ」
 自分には縁遠い悩みだな、と気のない返事をする。
 一方で、真琴は嵐に馬鹿にされたことがよほど悔しかったのか、嵐が歩く横で中空に視線をさ迷わせながら必死に脳内の検索をかけているようだった。真琴の家も間近になってきた頃、いい加減出ないものは出ないと諦めたらと思った嵐の肩を真琴が何回も叩いた。
「……なに」
「思い出した、思い出した」
 うんざりした顔を向ける嵐に反し、真琴はすっきりした顔を向ける。
「あの子、笹山君だわ。武文のグループん中では結構珍しいタイプだったから、やっぱ記憶に残ってた」
──笹山。
 響きを確かめるようにその名前を繰り返した。
「何、変な顔してるのよ」
 真琴はきょとんとして嵐を見返す。
「とみがさっき行ってた氏神さんのお隣さんでしょ、笹山さん家」
「……ああ、そうか」
 この件で腑に落ちない部分は色々とあり、しかもそのどれも名前をつけ難いものばかりであった。何がどう疑問なのか理解に苦しむ自分と、子供の癇癪だと割り切る自分がいたのだ。
 その中で聞いた「笹山」の二文字は嵐の頭に清涼な風をもたらした。もっとも、そうしたところで何の解決策にも結びつかないのが現状なのだが。
「芋作ってるんだっけ、あそこ」
 ついこの間仕入れた知識を披露すると、真琴が「なにそれ」と笑いながら駆け出した。目を上げれば久方ぶりに見る宮森家が顔を覗かせている。相変わらずの近代的な様相を呈した家は見るだけで落ち着かない。
 その家の背景に広がる空は白とも灰色ともつかぬ色を下界に向け、昼か夕方かという時間の感覚を嵐から奪った。
 恐らくこの空もこの感覚も、武文はまだ知らないのだろう。


四章 終り

- 149/323 -

[*前] | [次#]

[しおりを挟む]
[表紙へ]




0.お品書きへ
9.サイトトップへ

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -