「兄ちゃん、なんだよね」
「姉ちゃんに聞こえるか」
「違う。そうじゃない。何しに来たの?」
「あー……」
 そういえば、と頭をかく。
 話を聞いてやってくれと言われただけで、具体的な行動を起こせとは言われていない。何しに来た、とは的を射た質問だ。確かに何をすればいいのかわからず、かと言って正確な目的を述べることも出来ない。
 気まずい気持ちで頬杖をついていると、声はたまりかねたように話す。
「……何も考えてないんじゃん」
「悪かったな。お前の話を聞いてやれって言われただけなんだよ。だからお前が話せばそれでいい」
「おれが?」
「夏から学校行ってないんだろ」
 さらりと言い放つと、途端に空気に緊張が走る。
──おや。
 肌でその緊張を感じ取りながら、嵐は違和感を覚えた。
 行きたくないという純粋な拒絶とは違う、そこにある何かに対する恐怖交じりの緊張。学校に行きたくないというだけの子供が怯えるものなどあるのだろうか。
 暴力か何か──それ以外のものか。
 頬杖をついた手で口許を覆った。
「いじめじゃねえな。原因」
 様子を見るつもりでぽつりと呟く。すると僅かに空気が震えた。
 なるほどな、とあぐらをかいたまま壁によりかかって息を吐く。あまりいい雰囲気の話ではなさそうだが、自分の範疇にある話と断言するのも早い。
 だが、なによりも。
「……寒い」
 ジャケットは一階に置いてきたまま、暗い廊下に暖房など勿論あるはずもない。我慢しいしい話をしていたが、冷えてじんじんと痛む足先は限界を訴えた。あぐらをかいた足も動かそうとすると凍りついたように筋肉が張り、わずかに軋んだ。どうにかこうにか動かして立ち上がり、体を大きく伸ばしてドアに近づく。
「悪い、もう帰る」
 無言が答えた。
「話したくなったら電話しろ。お前の母さん、多分、うちの電話番号知ってるはずだから」
 電話ぐらい出来るだろ、と念押しするとか細い声が答えた。先刻までの口調とは違う、話すことを躊躇う様子は自分にも覚えがある。元々、一日でどうにか出来るとも思っていない。心が見知らぬ他人に対して簡単に開くなどもっての外である。
 そもそもが子供に好かれないタチなのだ。好かれようとして空回りするのも馬鹿らしい。
 じゃあな、とドアを叩いて階段を降りる。一階でのんびりとお茶を飲んでいた母親に断りと入れてジャケットを羽織り、呼ばれればまた伺うむねを伝えた。そう驚くでもなく、それを了承した母親に微かな不快感を抱きながら家を出る。
 秋の日のつるべ落としとはよく言ったもの。夕方の五時で既に、辺りには夜闇が忍び寄っていた。星が瞬くにはまだ早いようだが、遠くに金星が輝きを放っていた。冬が近い空の透明度はいつにも増して高く、見上げれば果てのない夜空に目が痛くなる。果ての無い暗闇に抱くのは恐怖か畏怖か。
 明滅を繰り返す街灯を辿るようにして帰路につきながら、嵐は汽車のように空に向けて白い息を放った。目の前で掻き消える白い息を見送り、寒さに肩をすくめてジャケットのポケットに手を突っ込む。
 頬がおそろしい勢いで冷えていく。息を吐く口の周りや鼻の下だけが暖かかった。
──夏から、と言ったか。
 この寒さも彼は未だ体験していないのかと思うと、それは少し寂しいことのように思えた。


二章 終り

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