言われ、振り返る。しかし庭はただ庭として存在し、雑多に伸びた草花や木の影にも人の姿は見当たらない。幽霊の正体見たり、と言ったところだろうか。
何かを見間違えたのだろうと察し、彼は嵐に向かって微笑んだ。
「誰もいないよ。ほら、おいで」
 嵐はむっとしたように顔をしかめる。
「いるよ。おじいちゃんの前にいるじゃないか」
 頑なに主張する孫をなだめるつもりで庭をもう一度見渡す。先刻と何ら変わりはない。それとも自身の視力によるものか、と眼鏡を動かしたりもしたが、少し気分が悪くなっただけだった。
 またかな、と軽く息をつく。このようなことは今に始まったことではない。虚空を見つめて笑ったり、話しかけたりもする。誰もいないことが明らかな場所で誰かいる、と指摘することも度々だった。自分の娘にも似たような癖はあったのだが、嵐ほどではない。加齢するにつれその癖もなくなっていった。
 真一文字に結んだ口の形が娘に似て、彼は苦笑を禁じえない。妙なところが母親譲りなのか。下手に否定をすれば余計に意地をはる。ならばとばかりに嵐に尋ねた。
「おじいちゃんは見えないな。どんな人だい」
「男の人」
 相槌を打って続きを促す。
「若い男の人。髪の毛が短くて、何か黄土色の服着てる」
 黄土色、と口の中で繰り返した。
「膝の下を両方とも包帯みたいなのでぐるぐる巻いてて、腕のところに」
 こう、と言って道具を下に置き、右腕の肩近くを示した。
「日本の国旗みたいなのがある」
 日本の国旗とは断定できなかった。嵐が知る国旗は白地の真ん中に赤い丸があるだけの簡易な形だ。男の腕についているそれは基本の形こそ同じものの、赤い丸から赤い線が放射線上に伸びている。嵐はそれを知らない。
 だが彼は、その形を知っていた。
 一時は自身の腕にもあった、大日本国の国旗である。
 名前は、と無意識に聞いていた。道具を持ち上げた嵐は躊躇うことなく言う。
「斉藤和正さん。だって」
 両目を最大限にまで広げ、自身の前に広がる暗い庭を見つめる。しかし庭はその相貌を崩すことはない。無邪気に放たれた言葉の真意を図る必要は感じられなかった。嵐は嘘をついているわけでも、ましてや妄想で物を言っているわけでもない。
 斉藤和正。遠い昔、黄ばんだ短冊に平和を願った彼の友人である。そのことは一度たりとも──妻にさえ言ったことはない。嵐になど言うわけがなかった。
 目頭がじんわりと熱くなり、鼻の奥が痛い。ぼやける視界を明瞭にすべく、眼鏡をあげて滲んだ涙を拭いていると、後ろで嵐が小さく呟いた。行っちゃった、と。


- 128/323 -

[*前] | [次#]

[しおりを挟む]
[表紙へ]




0.お品書きへ
9.サイトトップへ

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -