嵐は今度は深く吸い、沢山の紫煙をくゆらせた。青空がキャンバスのようで、煙草の煙がそこに一瞬だけの雲を描く。
雨は降りそうにない。
「傘、探していたみたいですから」
──降らなくていい。
あのような暗闇を呼んでしまうような雨ならば、降らなくていい。
誰の肩にも、ただ冷たく突き刺す雨ならば。
「……そうだな」
雨の季節は終わる。
だがあの男はまだ、雨のたびに誰かを訪れているのかもしれない。
亮一は急いでいた。付き合いとはいえ終電までの飲み会には付き合っていられない。
既に電車もなく、タクシーを拾うため大通りを目指す。しかも最悪なことに小さく雨粒まで落ちてきた。嫌なこととは重なるものである。
「ああもう……ったく」
明日を思うと気が滅入る。早々に帰宅したと、付き合いが悪いと散々言われるのは目に見えていた。
だが亮一には帰宅を急ぐ理由がある。
家族もいたし、何よりも先月あたりから囁かれる噂が足を急がせた。
──出る、って。
出る。この場合の意味は、つまりそうなのだろう。亮一には有難くない。
彼は見える方だった。
といっても姿形がはっきりと見えるわけではないが、そこに居る、というのはわかる。
だから急ぐ。わざわざ恐い思いはしたくない。
強くなってきた雨足に閉口し、亮一はカバンを傘代わりに掲げる。雨が降るなんて聞いていない。
ぱしゃん、と水が飛ぶほどに雨がひどくなった時、亮一は人影を見た。
僅かにほっとする。その歩みは普通だが、その人もまた傘を持っていなかった。
仲間だな、と内心ほくそ笑む。ただ歩いているあたり、既に諦めている風でもあった。
──やれやれ。
微かな親近感を抱く。
もう追い越そうというところで、亮一は哀れな同士の顔を見てやろうと、ちらりと振り返った。
古そうなコートと帽子の間。
思わずあげそうになった悲鳴を飲み込み、亮一は足を更に速める。転ばなかったのが奇跡なほど、足や体が震えている。
──なんだ。
なんだ、あれは。
人、という印象は受けなかった。
ただ影が蠢いている。
例の噂のやつだろうか。見てしまったという反面、亮一は自慢出来ると気持ちを奮い立たせた。
出来るじゃないか。霊感があってちょっと嫌なものを見たから気分悪くて──言い訳のネタとしては良い。
亮一は実際見えるのである。言及されても言い返すだけの体験が多々あった。
──早く帰ろう。
恐ろしいと思ったのは久しぶりに見たからだろう。気が付けば体の震えもおさまっている。車が行きかう大通りも近い。
「あー……冷て」
ぶるりと肩を震わせる。雪になるのだろうか。
早く帰ろう。そして家族に面白可笑しく聞かせてやろう。
亮一は足を速め、力強く地面を蹴った。
──何故だか、背中に圧迫感を感じながら。
雨垂れのまろうど 終り
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