鼓膜に響くノック音とは違う、床を蹴りつける音が足元を伝う。嵐が槇に教えた合図だ。
不意にノックが止んだ。
突然訪れた静寂はどこか不気味で、嵐の前の静けさを思わせる。あんなにうるさかった音が懐かしい。
そう思う自分に違和感を感じながら、嵐はノブを小さく回した。身を屈め、飛び出す用意をする。
その時だった。
「こっちだ! こっちに来い!!」
槇のどら声が響き渡る。
途端に男の気配がドアの向こうから消え去る。波のようにさっと引いたのを感じ、嵐は勢いよくドアを開け、小雨の中に飛び出した。
次いで外門を開けて高仲に道を譲る。
脇目もふらず走る高仲の背を微かな安堵と共に見やり、湧き上がる不安と共に槇の姿を探す。
開いたままの玄関は何か穴のようだ。入ったら最後、決して出られない。
「何やって……」
いらいらしだした時である。乱暴な足音が聞こえたと思った先に、槇が靴を抱えて飛び出してきた。
こけつまろびつ外門まで出てきた槇の背中を押し、嵐も走り出す。
「遅いですよ!」
「こけたんだよ! 知るか!」
叫ぶように言う。言葉を発するたび雨粒が口に入り込み、二人は自然と無口になった。
──否。
それだけではなかった。
背後に。
足音はせずとも気配のみが追いかけてくる。
獲物を失うことのないよう牙を剥き出しにし、殺気だけをあてがう。
背中をぞわりと虫酸が走り、冷たい手が胃の底をなでているような悪寒を覚えた。
ぱしゃん、と踏み出すたびに聞こえる水音。その連続が虚しく聞こえる。
口を開けて息を吐くことも、必死になって両腕を振っていることも全て無駄ではないのか。
後ろからひたすらに追いかけてくるあの男には、通用しないのか。
「てめぇっ……こらっ!」
走りながら槇が嵐の後頭部を叩く。
呆けていた嵐は現実に戻り、口に入り込んだ雨水を吐き捨てた。
更に腕を大きく振り、足を持ち上げる。白っぽい視界の向こうに背負われた間宮の背が見え、そのもっと向こうに交番の赤いランプが見えた。
──いける。
行ける。逃げられる。
この理不尽な恐怖から逃れられる。
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