046.風切る坂道(1)
「……まだ続くのかよ」
「文句言わない。わたしだって嫌なんだから。ちょっとそこ、水溜り」
「うわっ」
バシャン、と派手な音と共にジーパンへ泥が飛びつく。むすっとした顔を隠さないネイサンの袖を引っ張り、ヘレエが足を速めた。
「勘弁してくれよ、ジーパンの換えもう無いんだぜ」
「あらそう。一度目は何?」
「入れ墨男のゲロ」
「吐瀉物って言いなさいよ、仮にも医者なんだから」
「お前ほど高尚でいられないもんでね」
「その印象を打ち砕くようで悪いけど、わたしもこの靴はさっき換えたばかりなの」
「お聞きしましょう」
「ホームレスの連れていた犬が外で盛大にかましてくれてね、気に入ってた靴が糞まみれになったわ」
「……ご愁傷様」
「ありがとう」
「どういたしまして」
それきり二人は黙り込み、黙々と急な坂道を歩く。この先に待ち受けているものを思えば馬鹿話に花を咲かせたいところだが、疲れた足がそれを許さない。
それでも目の前に続く長い上り坂を見れば口を開きたくなるのが人間というもの。ついて出たのが愚痴でないだけマシだろうと、ネイサンは適当に理由付けてヘレエの横に並んだ。
「な、ニアと涼ってできてんの」
「何それ」
あからさまに怪訝そうな顔でヘレエが見上げてくる。意志の強そうな顔立ちに色の濃い茶髪は見る者が見れば惹かれる対象になるだろうが、生憎、同僚として彼女の気性を知った身としてはそんな感情は微塵もない。
確か、若いレントゲン技師が彼女を気にする素振りを見せていたが、ヘレエには直球が効くことを知らないだろう。その真っ直ぐな意志が真面目さから来ていることを考えれば、すぐにわかることだ。
だが言ってやるつもりはない。野球のいい席を取ってくれるなら別だが。
「だって看護師連中じゃ有名だろ。ニアと涼が真夜中の逢引」
「三流雑誌でももっとまともな事言うわよ。ニアが涼を励ましてただけ」
「へーえ」
にやつくネイサンをヘレエが気持ち悪そうに見る。
「なに、その顔」
「別にい?そんなホットニュース、初めて知った」
「本人の意見も聞かずに噂が一人歩きした良い例ね。すぐわかることじゃない」
「じゃなに、聞いたのお前?」
「聞かなくてもわかるわよ」
ヘレエが更に足を速める。
「おい、待てよ、怒ることないだろ」
「怒ってないったら!」
「……その顔で怒ってないなんて言うなよな。ついでに友達のよしみで忠告してやるが、そこ水溜り」
バシャン、と派手な音と共にストッキングの足に泥が飛びつく。白かったスニーカーも一瞬にして黒くなった。憤然とした様子で立ち止まったヘレエの横にネイサンが並ぼうとするが、それを待たずに今度は落ち着いた速度で歩き出す。
「まだ怒ってんのかよ、いい加減……」
「スニーカーの換えがもう無いの。参ったわ」
不快な音と水を吐き出してヘレエのスニーカーが歩を進める。先刻、自分も水溜りを踏んだ身だが、彼女ほどの被害は受けなかった。
「それサイズ合ってんの?」
「合ってない。急いで買ったら大きいの買っちゃって」
「じゃ、病院への帰り道はマーケット経由だな」
「いいわよ、もう。諦めた」
両手を掲げて降参を示す。ネイサンがけらけらと笑った。
「そいつはいい心がけだ」
「お褒めに預かり嬉しいわ。あなたも見習ってみる?」
「そう言いたいところだが何せ、このジーンズは年代ものでね。一か月分の給料代はあるんだよ、そのスニーカーと違って」
これ見よがしにジーパンを示す。
「なに、一か月分?」
ヘレエは自分の調子を取り戻し、眉をひそめた。自分の経験則と照らし合わせても、ネイサンの足を包む古ぼけたジーパンにそんな価値があるとは到底思えない。
ヘレエの視線から疑うような眼差しを感じ取ったネイサンは大仰に身振り手振りで語る。
「ビンテージって言葉を知らない人間は悲しいなあ。ワイン然りチーズ然り、年代を経てこその味わいを感じられない心に同情するね」
「ワインもチーズも嫌いだから結構よ。わたしはスコッチしか飲まないの」
ひゅう、とネイサンが口笛を吹く。
「ビールも駄目?」
「ビールはオッケー」
「……なんだよその酒の趣味」
「たかだかジーパンごときに給料一ヶ月もつぎ込む人には言われたくないわね」
「たかだかって、聞けよ人の話」
「聞いたわよ。で、今のがわたしの結論。ついでに言わせてもらうけど、そこ水溜り」
「あっ、くそっ」
二度目の邂逅でネイサンのジーパンは盛大に汚れを広げ、仏頂面を見て悪いとは思いながらも、ヘレエは笑いを堪えることが出来なかった。
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