041.燃え立つ朝日(1)


 ぶうん、という何かが唸る音しか聞こえない。

 意識の外でそれをとらえながら、涼は手の中の紙コップに視線を落とした。ゆらゆらと揺れる茶色の液体は既に冷たくなって久しい。

 無意味に暖かい涼の手はその冷たさを拒み続けていた。指先や手の平から侵食していく冷たさも、血液の流れに触れるや否や衰えを見せる。

 ひんやりと冷たい。しかし瞬時にしてそれは微かな痛みを伴った温かさとなった。

 涼にとって温かさとは痛みだった。

 ぼんやりとした温もりをどうしようもなく惨めな気持で拒絶しようと試みる。ところがそんな涼の気持を嘲笑うかのように、手は赤みを増すばかりだ。そうして熱くなる。だがコーヒー一つも温められない熱さは無用の長物に思えた。

 腰掛けている椅子の鉄パイプ部分が剥き出しになっている所を触る。心地よい冷たさだった。しばし快感に身をゆだねた後、手を引く。するとぼんやりとした温かさが戻ってくる。

 涼は眉をひそめた。

 何をやっているんだろう。何をやりたいんだろう、俺は。

「へこんでるの?」

 涼の自問に答えるというわけでもない、あっけらかんとした声が響く。視線をやれば同じく紙コップを手にした看護師のニアが立っていた。仮眠中だったところを起きたのか、白いパンツの看護服姿の上にカーディガンを羽織っている。その目はとろんとしていて今にも落ちそうだ。

 ふい、と顔を前に戻した涼の態度に気分を害するわけでもなく、彼女はのんびりとした歩調で歩き、涼が座る椅子と背中あわせになっている椅子に腰掛ける。

「へこんでるんだ」

 ず、と紙コップの中身をすする音がした。

「こんなとこで」

 首を巡らせて周囲を見回す。

 青白い光を垂れ流す三台の自販機、整然と並ぶ長椅子、ブラインドの下りた窓、遠くに見える非常口の緑色、そして味気ない色の壁。どれも昼間に見ればそれなりに清潔な印象を与えるものばかりだが、消灯時間を過ぎて暗闇が支配する時間となった今、それらはただ静かに鎮座する怪物のような存在だった。

 息をひそめ、言葉を発することなく新たな太陽の光を待つ。この待合室で幽霊を見たという噂がたったのも、あながち嘘ではなさそうだ。

 ぶうん、と自販機が一声あげる。

 夜の病院の待合室は誰を待つ場所でもない。ただの怪談の舞台にしか成り得なかった。

「あのお爺ちゃん、ロイドさんだっけ。亡くなったんだってね」

 涼は重い物が胃に落とされるのを感じた。

「結構頑張ってたわよね。ガンがあちこち転移しまくって、うちの医者だってお手上げだったのに」

 ニアはまた、紙コップをすする。

「それで?」

 涼に声をかける。体を逸らせてその表情を窺おうとするも、顔を背けられて見ることは叶わなかった。

「答えは無し。……じゃあイエスってこと」

「うるさいな」

 ここで初めて発する声に涼は自身で驚き、こほんと一つ、咳払いをした。

「さっさと寝てろよ。仮眠中なんだろ」

「あいにくさま。急患が来るっていうから叩き起こされたところ」

 急患、の一文字に耳が反応する。

 知らぬ間に「事故?」と聞き返していた。ニアが頷く気配が背後でする。

「乗用車三台、トラック二台の玉突き。死亡一名、軽傷六名と重傷四名がこっち。そのうちの一人が子供だって」

 聞きながら、涼はコーヒーの冷たさが手を侵食していくのを確かめていた。

「今ごろ、ERは大騒ぎね」

 他人事のように言い、カップの中身をすする音がする。

 実際、外科勤務である彼等にとってERは同じ建物内にありながら、他所もいいところであった。急患が最初に辿り付くのはERであり、そこである程度の処置を施してから、外科的処置の必要な患者はここまで上がってくる。

 急患の知らせを受け取ったERは今ごろ受け入れ態勢を整えるために、ただでさえ忙しいなか時間と人員を割いて準備していることだろう。

 後にその騒がしさもここにまで来るのだが、さしずめ嵐の前の静けさと言ったところだろうか。

「あ、あんたはタカミネ先生の助っ人」

 どこか上の空で聞いていた涼の耳に、ニアのはきはきとした声が飛び込む。

 弾かれたように振り返り、睨みつける涼にニアは指を突きつけた。

「拒否権なんて無いんだからね」

「おい、ちょっと……」

 一気にコーヒーを飲み干して立ち上がるニアに言い募ろうとする。

 だが、彼女は涼には構わず、くしゃりと握りつぶした紙コップを遠くのゴミ箱に向かって投げた。

 低い放物線を描いて飛んだそれは、ゴミ箱の手前であえなく落下する。

 落胆の声をあげながら、ニアは肩を落とした。

「いつも駄目なのよね、あそこで落ちちゃうの。手首のスナップ、もっときかせたほうがいいのかな」

「知るかよ……」

 うんざりしながら言葉を返す。この女は一体何がしたいんだ。

 むかむかするものを口に出しかねている涼に、ニアは「あのさ」と呟く。

「医者は万能じゃないのよ。誰かを死なせることだってあるし、助けることだってある。どちらが多いとか聞かれたら、実際、死なせることのほうが多いのよ」

「うるさいな」

「じゃあ、あんたは触れた人間を皆、治してくれるわけ?」

 す、と見据えるニアの瞳が強い光を帯びる。涼は言葉に詰まった。

「そんなのは教会の仕事。まあ大変、でも聖人がいますからね、すぐ治してあげましょうね」

 声色を変えて口真似をする。

 だが次の瞬間、勢いよく吐き捨てた。

「馬っ鹿みたい」

 感情にまかせたそれが、普段のニアからは思いつかない怒気を帯びたもので、涼は思わず肩をすくめる。


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