040.浴衣(2)


「いいのよ。娘にあげる予定だったけれど、あげる前に死んでしまったし。わたしはもう長くないからね、寝たきりになる前に施設に入るつもりだ。それであなたに今までお世話をしてもらった御礼としてね、着物を仕立て直して浴衣にしたの」

 少女は言葉に詰まった。娘家族を一度に失った時の彼女の様子が目に浮かぶ。こんなことを言わせるつもりで言い返したわけじゃないのだが。

 俯いた少女の手を思いのほか強い力で握り、彼女は浴衣をその手にとらせた。

「クローンは解放されるのね」

 少女は頷かない。それは少女が望んだことではなかったからだ。誰かにつくすために生まれてきたはずなのに、それを奪いどうしろと言うのだろう。

「自由に生きなさい」

 しわがれた、それでいてしっかりとした声が響き、少女は顔をあげた。老婆が必死な顔で少女の目を覗き込む。

「あなたがあなたでいられるように生きなさい。もう働きたくないのならそうしなさい。誰かのために働きたいのならそうしなさい。あなたはもう、わたしに縛られることはないのよ」

 必死だ。今までにないその目を見ながら、少女は強く浴衣を握り締めた。

「それと恋をしなさい。誰でもいいのよ。誰かを好きになって、結婚してくれたら嬉しい。そうして子供が出来た時に、この浴衣をその子に渡してくれたら有難いわ。けど、そうね」

 彼女は少女から身を離す。

「どうしてもお金に困った時はこの浴衣を売りなさい。布も細工も上等のものだし、花の縁は金糸で縫ってあるからそれなりのお金にはなるでしょう。……どう使ってくれてもいいわ。今、受け取ってくれるだけでわたしは嬉しいからね」

 にこりと彼女は微笑む。少女はようやく反論出来る場を与えられた。

 けれどどんな言葉も出てこない。

 ありがとうも、いらないも、全て彼女から少女を隔絶する言葉になる。

 嫌だ。

「嫌です。ぼくはずっとあなたの為に働いてきたんです」

 ただのクローンである自分を、一個の人間としてくれた唯一の人間。

 それは既に主ではなく、親に近い親愛の情を抱く相手となっていた。

「今更、いらないなんて言わないで下さい」

「違うわ。お疲れ様と言いたいの。寝たきりの世話はあなたには大変だからね、施設に入って余生を過ごすわ」

「嫌です。寝たきりでもお世話します。あなたがいなくなったらぼくはどうすればいいんですか。どうして今更自由にするんです。ぼくは今までの方がいい。働く事で喜んでくれるなら、ぼくはそっちの方がいい」

 堰を切った言葉は止まることを知らず、少女は感情が高ぶるのを抑えられなかった──抑える術を知らなかった。

 こんなにまで悲しくなることがなかったからだ。

「不公平だ。あなたは死ぬための準備をする道具としてこれを縫ったんだ。それでぼくを自由にするといって、あなたは安らかに死ねるだろうけど、ぼくは?どうすればいいんです。ぼくはこれ以上の生き方を知らないんだ。あなたが死ぬまでにその生き方を教えてくれるなら公平です。その時になったらこれは受け取りますが、今はいりません」

 少女は浴衣を畳んで自分と老婆の間に置いた。彼女は落胆しているとも呆れているとも見える顔で少女を見つめた後、浴衣を手にとって小さく息を吐いた。

「折角、縫ったのにねえ」

「自己満足でしょう。ぼくに押し付けないで下さい」

 少女は自分の調子を取り戻しつつあった。

「施設にも、電話しなきゃね」

 見ると、老婆の顔には困ったような微笑が浮かんでいる。

「いやだわ。この年になってお母さんなんて」

「……それぐらいの年の母親なんてざらにいます」

 少女は微かに顔が温かくなるのを感じた。それが涙と気付くまでには数秒を要し、やれやれと言って立ち上がった老婆を見上げながら手の甲で素早くぬぐった。

「あなたの鉄面皮が剥がれたのを見れただけでも良しとしましょうかね。何だかお腹が空いてきたわ。ご飯の用意お願いね」

 ややむっとしながら立ち上がり、少女は台所に向かった。

 それを見送りながら彼女は畳んである浴衣を手に取る。

 滑らかな肌触りだ。それなりの価値があるのは確かだろう。

 けどその価値を確かめるのはもう少し後でもいいような気もした。

「この年になって説教されるなんてね……」

 嬉しそうにひとりごちながら、彼女は浴衣を箪笥の奥底に丁寧にしまいこんだ。



終り


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