039.社会人一年生


 生まれたての頃、ぼくの体は成人のそれであっても、世界は1から12までしかなかった。

 物心ついた頃には体は綺麗に成長しきっており、培養槽の中から見た外はただただ青かった。

 それが培養液の色なのだと知るのには数日かからず、ぼくは見るもの全てから学習し、自身の知識として溜め込んだ。

 それが何の役に立つのかも知らずに無節操に知識を溜め込んでいたのだから、スポンジのようだと言ってもいい。

 白衣の彼等はどうやらぼくの覚醒を喜んでくれているようだ。

 皆が皆、恍惚とした表情でぼくを見る。口の動きから何を呟いているのかも、わかるようになっていた。

 セイコウダ。

 セイコウ。せいこう。この場で使うのに適しているのは成功。

 シンヤクノタンジョウダ。

 シンヤク。しんやく。新薬。

 タンジョウとは、生まれることだろうか。ぼくが目覚めたことと同義である誕生。

 成る程、と自分の記憶を整理する。

 ここ数日、呼吸をするマスクから流れていた不思議な香りのする気体が新薬で、おそらくぼくはその実験体になったのだろう。

 そうだ、ぼくは実験用のクローンなんだっけ。とりあえず何の反応も示さなかったから、これが成功とやらなのだろう。

 よかった。彼等の役に立ててよかった。

 ジュウジニジュウサンプン・230−Bゴウシンヤク・ジッケントウヨシュウリョウ。

 手首を返しながら、すぐ側の女が近くの男に告げる。

 後半は訳せたものの、ぼくは前半のジュウジニジュウサンプンとやらが何なのか理解するまでに少し手間取った。

 ああ、そうか。これが時間というものか。

 ぼくは時間というものの概念を知らない。培養槽の中から見る限り時間というものの概念を示すものはなく、とりあえず白衣の彼等の口元を見てどうにか知った。

 数の概念は随分前に把握していたので口の動きから変換することは可能だったが、ジュウジというものをぼくは本当の意味では知らない。

 ただそういった言葉を発する時、彼らは決まって手首を見る。気になって視線をずらした時、丸い円盤の縁に沿って1から12までの数字が書いてあるのが見えた。

 これが時間なのか、とひどく寂しく思う。

 1から12までしかない時間の世界はあまりにも狭すぎやしないか。

 ジュウニジを過ぎるとどうやらぼくの番は終わって、代わりの誰かの番になる。耐久がないのだそうだ。だからジュウニジ以降の世界をぼくは知らない。

 ジュウニジ以降の培養槽の向こうは、ただコンピュータのディスプレイから流れ落ちる光と闇だけしかなく、白衣の彼等は代わりの誰かのもとへ行ってしまう。

 耐久など無視して、もっと側にいてくれればいいのに。ぼくはそんなことで彼等を恨んだりはしない。彼等の手で生み出されたのだ。その手で壊されても、ぼくは厭わない。

「きみは一つの泡沫か」

 そう、ぼくは一つの泡沫でいい。

 脆くても儚くてもいい。その一瞬を誰かの為に生きられるなら、ぼくはただの泡であることを選ぶ。


+++++


 不意に、暗かった外が明るくなる。彼等が戻ってくるにしては早すぎる。しかし外は人を迎える用意が出来たようで目の前のドアが開いた。

 白衣じゃない。

 灰色に青が混じったような、見たこともない色の服を着た男や女がなだれこんでくる。

 なんだろう。白衣の下はあんなに寒い色ではない。

 彼等は入るなりぼくを見て顔をしかめた。

 ナンテヒドイ。

 酷い?どうしてそんなことを言うのだろう。そんなことを言う彼等の方がよっぽど酷い。

 その時、今まで聞いたことがないほどの大きな音がした。外からではない。培養槽の上からだ。

 途端にぼくの体にまとわりついていたチューブやコードが巻き戻されるように上へ引き上げられ、驚くことも出来ずにそれを見ていた。

 酸素マスクを外されたら困る、と考えていると培養槽に直線が走り、ゆっくりと開き始めた。青い培養液が滝のように流れ落ち、ぼくはそれに抗うことも出来ず一緒になって培養槽の外に投げ出される。

 重い。体が重い。こんな苦しい所で何故彼等は平気にしていられるのだろう。

 見上げた先で男が駆け寄り、自分の上着をぼくにかけて起き上がらせた。

「もう大丈夫だ」

 何が。こんな苦しい場所に放り出しておいて何が大丈夫なのだろう。文句を言ってやりたかったが、ぼくは声の出し方を知らない。

 長いこと培養槽にいて、声の出し方を忘れてしまっていた。

「クローンはもう自由なんだ」

 クローン。そうだ、ぼくはクローンだ。

 けれどジユウとは?聞いたことがない言葉は頭の中で照合することも出来ず、ただぐるぐると巡る。

「クローンも社会に出れる。お前は晴れて社会人一年生だ」

 わからない。そんな言葉聞いたことが無い。イチネンセイ。また新薬を入れられるのだろうか。

 彼の手は暖かく、そんな暖かさを知らないぼくはそれが火傷しそうなほどに熱かった。目でそれを訴えようと彼を見るが、生憎男は手首に視線を落としていた。あの円盤を見ている。

 1から12までしかない。狭い時間の世界。

「二十時五十分、クローン保護。伝えといてくれ」

 ニジュウジ。

 初めて聞く。初めての響き。ジュウニジ以降の世界があるのか。

 食い入るように円盤を見ていたぼくに、彼は数字を示して教えてくれた。

「二十時。午後八時のことだよ。もしかして時間は十二時までしかないとか思ってたか?」

 思っていた、というよりもなかった。ぼくの世界に十二時以降はなかったのだ。

 男は面白そうに笑い、円盤のベルトを外してぼくにくれた。

「やるよ、社会人一年生。少し時計の見方を知っておくんだな。そしたら十二時以降の時間もお前のもんだ」

 円盤に書き込まれた1から12までの数字。それは今までのぼくの世界。

 社会人一年生。

 未だ意味はわからないが、それはぼくに十二時以降の世界を与えた。

 泡になって消えるのは少し後でいいのかもしれない。

 とりあえず、12の次に来る1は13時と読むのかどうか。

 その読み方がどこまで続くのか。

 それを知って認識するまでは、社会人一年生とやらになってみるのも悪くない。

 重い世界でも、いいような気がした。



終り


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