025.澄み切った水面


 やれやれ、と男は心中で息をつく。声に出して言ってみてもよかったのだが、生憎聞いてくれる相手もいない。一人小言を呟くのは恥ずかしかった。

 勿論だれもいないのだから、その羞恥心すら不要なのだが。しかし、ひしひしと感じる視線に男は苛まれていた。

 ああそんなに見ないでくれ。本当に恥ずかしい。大勢の前に出るのは苦手なんだ。

 時折、ずうんと内臓を揺るがすような地響きが轟く。目だけを動かし、視界の本当に端で熱帯特有の木々が倒れ、驚いたような声をあげて飛び立つ鳥の群れが見えた。しかし轟音にその声はかき消され、ついでとばかりに爆風と炎によって姿もかき消える。

 黒い点々が意思をなくしたかの如く地上に落ちていった。

 顔を空へめぐらすと、男の存在など無視した戦闘機が飛び去っていく。耳を押さえなければならないほどの轟音が地上に落とされるが、男はだらりと両腕を体の横に置き、寝転がったままだった。

──すぐそばで手榴弾が爆発し、気付いた時には既に無音の世界へ入り込んでいた。

 時間が経っても音が戻ってこないことから、男は鼓膜が破れでもしたかと見当をつけていた。

 また戦闘機が頭上を早足で駆けていく。森林の多い地帯で敵兵の姿もよく見えない。次はナパーム弾あたりで森を焼き払うつもりだろう。森も動物も、敵も味方も一掃する。

 やれやれ、と男はまた心中で息をついた。

 私たちが上陸した時にそれをやってくれればよかったものを。

 海からやってきた男たちは呆気なく銃弾の的となった。

 手榴弾の爆発で気絶していた男を死体と間違えたのか、立つ者がいなくなった海岸に銃弾があびせられることはなく、戦場の中心は内陸へと移動した。

 そうして男はぼんやりと、海岸に体を投げ出している。

 仲間の半分が陸にあがることなく死んだ。残りは男の周り四方八方に横たわっている。それでも最初は呻き声もあったのだ。だが十分も経たぬ内に、海岸は遠く銃撃の音とさざ波の音に支配された。

 それも、男の知る範疇にない事柄である。とりあえず耳も聞こえず、ずしんずしんと繰り返される衝撃で戦況を知ろうとしたが到底無理なことだと悟り、横たわっている。

 目を閉じようかとも思った。だが閉じた瞬間、完全に自分が世界と隔絶されるようで怖くなり、無理矢理にでも目をこじ開けている。

 一際大きい衝撃が体を揺らす。ナパーム弾が落とされたのか。

 まだ自分の心臓が止まる気配はない。男はゆっくりと体を起こし、指先から足先まで任意で動かせることを確認した。図太い図太いと言われ続けた神経はやはり丈夫だった。体のあちこちが痛く、体が動くことを認識した途端激痛が貫く。

 どうにか体を起こし、男はうろんな目で海を眺めた。

 曇り空。白い空が重い顔をして海を見下ろしている。海の表情も冴えず、青とも群青とも言えぬ濁った顔だ。

 数分前までは、モニュメントのように仲間の手や足や体の一部が水面から突き出しているのを目の端で捕らえていた。

 今はもうない。

 海で流されたのか沈んだのか。

 時々、波が男の足に絡み付き、じゃれついてから海に戻る。

 海に来いと言っているのだろうか。仲間が、あるいはずっと前に亡くなった戦士が。

 いや、無理だよ。ごめんよ。行けないんだ。本当にごめんよ、ごめん。

 ごめん、ごめん、と男はひたすらに謝り続けていた。

 だってさ、おかしいんだ。何でか知らないけれど、どうしても綺麗に見えるんだ。

 仲間の血が漂った、中途半端に澄み切った水面を。

 ごめんよ。ごめん。



終り


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