019.福沢諭吉


 ここのコンビニにあるもの、一万円分下さい。

 かしこまりました、と言うだろうか。それとも何を勘違いしているのかこの女、と思われるのだろうか。警察を呼ばれて窓に格子の入った病院に連れて行かれるのかもしれない。

 馬鹿らしい、と自分の考えながら鼻で笑い、麻衣子は自分の手の中のものに視線を落とした。百二十円のおにぎり。安いものはとうに売りきれてしまっている。

 少し前までは安くて良いもの志向だったのに、いつのまにか世の中は高くて良いもの志向になってしまったようだ。

 麻衣子はその流れについていけない唯一の人物だろう。

 別にどこどこの鮭じゃなくていいから、百円に戻してほしい。

 お金に余裕がないわけではなかった。現に今勤めている会社の給料は良い方で、そこそこに人付き合いもよくやっていると思う麻衣子は、今日も同僚と愚痴に花を咲かせる資金として一万円財布にしまってある。

 入っているのではない。しまっている。

 フリーマーケットで買った千円の財布に福沢諭吉さんは窮屈そうで、無造作に入っているというよりも大事にしまっていると言った方が正しい。

 何のための一万円だろう。愚痴に投資するための?本音を言えばそんなことに投資したくない。愚痴を聞くのも言うのも、もう飽きた。

 そりゃ人生、愚痴も必要だろうけど。

 今度は大きく嘆息する。特に行きつけというわけでもない大衆食堂的な飲み屋で、同僚数名は延々、愚痴を並べ立てる。あれが嫌だ、これが嫌だ。あれは駄目だ、あの服はおかしい、そういえばあの人の奥さん、そういえば二課の松本さん……

 そして気付いたように声をかける。

 麻衣子は?

 愚痴がないと言えば嘘になる。

 言い分がしっくりこなかったり、明らかに自分の所為ではないことを、さも麻衣子が悪いかのように言う上司。

 ただ、折角の諭吉さんをそんなことに使いたくない。窮屈な安物財布にしまってまで来てくれたのに、愚痴のために使われたとあっては彼もうかばれない。と、麻衣子は思う。

 そうね、わたしならもっと楽しいことに使うわよ。自分がとても満足する方法。日帰り旅行なんかもいいわ。エステも楽しいかもね。映画を観まくるのもいいかもしれない。観たかったものが溜っているから。

 考えながら麻衣子は結局百二十円のおにぎり二個と、百円の紙パックの紅茶を持ってレジに向かう。消費税込みの表示は有難い。レジが間違っていてもすぐ暗算出来る。

 三百四十円です。

 パートのおばさんが事務的な口調で言う。麻衣子は財布から小銭を出し、それから少し考えてお札も出した。どちらを出すのかと軽く動向を見守っていたおばさんには小銭を渡し、レジ隣の募金箱に一万円札を入れる。

 おばさんは目を丸くし、通りすがった男は麻衣子から目を離せない。

 それらの視線を無視して麻衣子は昼食の入った袋を受け取り、歩き出す。

 そんな驚かないでよ。皆だって百円くらい入れるじゃない。それがたまたま一万円だっただけのことでしょう。結構満足してるんだから。

 愚痴投資よりも自分に投資よりも、こっちの方がずっといいでしょう?

 ほら、募金箱の諭吉さんだって笑ってるじゃない。

 多分ね。



終り


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