第二十三章 麦の穂



 ひゅう、と息を飲んで体を固くしたロアーナに辞去を告げ、アスはドアに向かって歩き出す。すると、切羽詰ったような叫び声が背中に叩きつけられた。

「ライまで連れて行かないで!」

 心臓を掴まれるような声に思わず振り向く。ベッドの上でロアーナが身を乗り出し、真っ赤な目からは涙が零れていた。

「お願い……!」

 ロアーナの心の拠り所がライのみになっていることは知っていた。だが、ここまで強く想っているとは予想だにせず、アスは言葉に詰まる。

──だが。

 アスはロアーナの顔を見て、小さな声で「ごめん」とだけ呟くと、制止の声も聞かずに部屋を出た。扉を閉めても尚聞こえるロアーナの声が身を切り裂くようで、その場から足が動かない。

「……ごめん」

 自分の心に嘘はつけない。ロアーナがそうであるように、アスもまたそう決めていた。嘘をつけばついただけ、自分は段々と己というものを失っていく。それは自身を裏切る行為に等しい。

 だが、嘘をつかなかったが為に失うものもまた、あるものだ。

 す、と目を閉じて唇を噛み締めた。

──この痛みを忘れないように。



 季節は変わる、実りの季節へと。しかし実りを待たずに訪れる戦禍を誰が防ぐのだろうか。誰が防げるのだろうか。

 頭を垂れる麦穂がこれから死にゆく人々へ鎮魂の礼をしているかのようで、彼らを傍目に古城は移動を開始する。緑の丘が滑らかな動きをして、丘の起伏をなめていった。

 人々の慌しい空気など意に介さず秋へと変わる風が、そのうちに血と炎の匂いを届けるのだろう。

 そうして視線を上げた先で黒煙が立ち上るのを見るのに、そう時間はかからなかった。



二十三章 終

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