第十九章 ただいま
まだ水の入った桶に勺を突っ込み、オッドがアスを振り向いた。
「イークが憎いかね?そしてわしのことも」
落ち着いた顔でアスは頭を振ろうとし、止めた。そして頷く。
オッドは小さく笑って水をまいた。
「憎悪は時として生きる糧となる。イークにも卑怯者と言われたからの」
「……憎いけど、でもそれは自分のものとは違うと思う」
「ほう?」
水をまく手を止めて、半身振り返った。
「憎いと感じたのは、家族がいると知った自分だ。でも、今の私はそこまで激しい感情は持てない。だから涙も出ないし、どこかで冷静に見てる」
ふむ、と言って向き直ったオッドに対して、アスは眉をひそめてみせた。
「でも、それは卑怯なことじゃないのか?家族がいると知ったのに、今の私は悲しいと思わない。そんな自分が嫌だ」
「そして過去の己までをも憎むかね。……それは止めた方がいい」
静かな声が気持ちを落ち着かせていく。
「その時その時生きた自分を消せはしない。憎んだところで殺せるわけもなく、だからと言って今を生きる己まで憎んではあまりにも悲しすぎる。……迷うのは良い事だが、もう少し、自分を許してみることをお勧めしよう。だが、それが出来るかもしれないとわかるから、そなたは己の心を見定めたいのではないかね?」
心を掴まれた気がした。言葉をつむぐことも出来ず、無言で頷く。
「ならば、自分の心に従いなさい。憎いと思うのも己、そうではないと思うのも己、そして信じることが出来るのも己自身だ。何があっても、最後までついていくのは自分しかおらんからの」
「……そうだね」
ようやくの思いで出した声は震え、そして静かに微笑む。昨晩、オッドから手記を渡された時のような激情は見受けられない。
「もう守ってもらうだけの人間ではいたくない」
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