がしゃん。
「あれ、もう夜だ」
何処か知らないビルの屋上で呟いたのが聞こえた。寝転がって触れている地面は冷たい。 右手のリングノートの表紙はのっぺらぼうで、相変わらず穴を通る輪は食い違っている。黄色い紙をめくろうとしたらむき出しの針金が邪魔をした。空に星は出ていない、気持ち悪い色の分厚い雲がいっぱい、曇りか、あれ、でもさっきまで晴れてなかったか、、、
何でかなぁ。現実は俺の記憶と食い違う。さっき見ていたのは青い空、太陽、あとそう、……えっとなんだっけ?また合わない。
(リングと穴が噛み合わないとノートはノートにならないのに。) (困るよ。お前は記憶なのに。) (ただの紙は集めるのに時間がかかるだろう?) (そんなの何も書けない。)
……あれ、俺は何を言っているの?書けなくてもいいじゃないか、いや、そもそも何のハナシ?
こういう俺みたいなの『ヘン』って言うんだって。誰かがそういってた気がする。誰だ ろうな。知らない。手が熱い。指はあった。握ってはなした。指はある。
がしゃん。
「どうした」
覗き込む顔。平ら。朝だ。でも空が重い。寝転がる俺の上に雨。冷たい、染み込む、たたきつける。覗き込むのをやめない顔。誰だコイツ。
「どうもしない」
答えたのは俺か。右手のリングノートは相変わらず食い違っている。黄色い紙をめくろうとしたらむき出しの針金が邪魔をした。手が熱い。握ってはなした。指が一本足りない。手が赤い。
「指が足りないな」 「しってる」 「何処に落してきた?」 「しらない」
「探しに行かないのか」
しらない。それが俺に必要かどうかもわからない。そもそも何処がないんだっけ。
「左手の小指」
そっか。
がしゃん。
俺は立っている。白い部屋、白白白白白。床には赤い模様、ううん違う、ぐるぐると丸まる糸。右手のリングノートは相変わらず食い違っている。黄色い紙をめくろうとしたらむき出しの針金が邪魔をした。広いのになんだこの閉塞感、息が苦しい。手が熱い。握ってはなした。指が一本足りない。手が黒い。
「あ」
黒いものがこびりついた指が落ちている。俺のゆび。近づいた。逃げられた。ぴこぴこ跳ねる指。
「まて」
しばらく追いかけていると、変な奴がぴょこりと指を捕まえた。見下ろす顔。平ら。誰だコイツ。人差し指と親指で器用にそれを摘まむと、俺の目の前にかざした。
「欲しいか」
ほしい?右手のリングノートは相変わらず食い違っている。黄色い紙をめくろうとしたらむき出しの針金が邪魔をした。なら俺にはわからない。知るすべがない。俺の頭は真っ白だ。
「お前は欲しいか?」
わからないよ。黒い左手を翳す。どうしてアレがないと俺が欠けているような気がするのかも、もうよくわからない。
「選べ、お前が。お前が選ぶなら、己れは、」
強い光と、目だけが見える。
がしゃん。
俺はきっと水の中にいる。ゆっくりと液体に侵され気管を塞がれてゆく感覚。下を見ると黒。俺は強い力に引きずり込まれるように、ただただ深淵に沈んでいく。
パチン、泡がはじける音と、俺の声が。俺の声が、エコーを引き連れて暗い水底から這いずり上がった。響くのは、俺の声、だ。
『おれはその目がほしい』 ((しらないだろう、おまえは、おまえが、おまえの、目。))
目。上を見ると、強い光と目だけが見えた。
ゴボ、吐いた息が球になって浮かんでいく。光を閉じ込めた空気の塊。俺はただ見つめている。俺はただただ沈んでゆく。俺は落ちてゆく。
『おれは、執着、したい』 ((しらないだろう、おまえの、おまえは、おまえが、手。))
手が熱い。握ってはなした。指が一本足りない。ゴボ、息を吐く。見上げると、ゆらりと歪んだ光。握ってはなした。俺には、何かが足りない。
『おれは、おまえみたいに、』 ((しらないだろう、おまえが、おまえの、おまえは、指。))
指が一本足りない。遠くで波の音がする。右手のリングノートは相変わらず食い違っていて、、、
『おれは、』 ((しらないだろう、))
「……欲しい」 ノートが音を立ててバラけた。黄色い紙が飛び散る、視界。俺の中で何かが外れ暴れだす、音が。遠くで波の音が。
「ほしいほしい欲しい欲しい欲しい欲しい、俺は……、欲しいッ!」
音がはじけた。白が爆発して視界を塗りつぶす。
俺はいつのまにかあの白い部屋に立っていて、そう、目の前には。
「……そうか」
見つめる顔。平ら。……ちがう、アレは、俺だ。俺じゃないか。俺の手のひらが俺の手のひらに重ねあわされる。俺は白い左手を翳す。握ってはなした。指はある。
「……ゆび、俺の」 「運命、お前の」
そっか。 左手を大事に大事に抱え込んで、俺はきっと笑った。
がしゃん。 遠くで、何かが壊れた音。
泣くなと囁く声がした。
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