「……何故、何を、している」

 薄く辺りを照らす月明かり、木の影から地を這うような声が響く。声のした方にランプを向ければ、思い描いた通りの顔があった。慣れ親しんだ花の香り。

「アウネさんは優しいから、夜に森を歩けば心配して会いに来てくれるかなって」
「…………」
「会いたかった」

 だから逃げないで、後ずさろうとした身体に必死で抱きつく。彼ならば俺の力なんて簡単に振り払うこともできるだろうに、それをしない。戸惑ったように身体を震わせるだけだ。赤い瞳は薄明りの中でもはっきり分かるほど輝いて、俺を見ている。

「会いたかった、会って話をしたかった」

 洞窟に行ってもいなかった。どこを探しても見つけられなかった。二度と会うつもりがないのか。焦りにも似た気持ちのまま森の中を歩いて歩いて、やがて沈み始めた太陽を見ながら、俺は自分を囮にすることを思いついた。彼の良心を利用することは気が咎めていたが、実際に来てくれた彼を見るとどうしようもなく嬉しいと思ってしまった。俺はもう、駄目だ。

「あんなのは理由になってない。男が要らないなら、それが分かった時に捨てておけば良かったんだ、拾う必要なんてなかったんだ。なのに、なのに」

 ぎゅうと抱きつく腕に力を込めれば、彼は俺の拘束に手を伸ばしそっと外す。思わず顔を見上げれば、異形の美丈夫は、逃げぬ、とだけ呟いた。月明かりを反射して、波打つ白髪がきらきら揺れる。

「……吾等は罪深い。だから、傍に居たくない。己の罪深さで息苦しくて仕方がない」

 ぽつり、ぽつりとアウネンゴデムは語り出す。寝物語を語るような、静かな声だった。満ちた月が、俺と彼を静かに見ている。

「吾等は恋しい人間の記憶を消しては攫った。家族も友も、何も分からなくなったその者をつがいにした。やがてつがいは子を産み、死んだ、産んだ子に喰われて」

 吾等はきっと生き物として歪なのだ、彼は自嘲するように言った。

「母を喰らう生まれたばかりの我が子を見て、吾等は罪を思い出す。母を喰らって生まれてきたことを。つがいの記憶を奪っただけでは飽き足らず、惨い死に追いやったことを。己の身体が彼女らの血肉で出来ていることを」

 恋をしたから花が咲き、その花で恋しい人をつがいにする。愛しているから、苦しい。騙したことが。奪ったことが。自分のせいで、愛しい人が、苦しむことが。褐色の手に指を伸ばせば、彼は逃げなかった。手と手が触れあう。

「父親となった者は己の罪に絶望し、苛まれ、自ら死を選んだ。けれど、残された子供もやがて成熟し同じことをする。母を喰ったことなど知らぬが故に、本能のままに、そうして吾等は続いてきた」

 こんなことならいっそ知性など無ければ楽だった、貪るだけの獣であれたならば苦しまずに済んだのだ。彼は目を伏せた。

「吾の父は全てを見届けてなお、すぐに死を選ぶことをしなかった。吾を育て、その時が来るまで知るはずのない罪業の全てを教えた。そして、独りで生きよ、と。滅びることにしよう、と。誰かの人生を、命を、その軌跡を奪うことはこの上なく惨いことなのだから、と」

 父が正しいと思ったから、その言葉を胸に今まで生きてきた。自分で終わりにしようと思った。触れ合っていただけの手が動いて、指を握られる。 

「……なのに、初めて見た時、一目で恋をした。どんな手を使ってでも、つがいにせねばならぬと思った。思ってしまった」

 ある日、薬草を摘む人間を見つけたこと。母の遺した衣服によく似たものを纏っていたから、あれが人間の女なのだと思ったこと。恋を、したこと。よく一人で歩き回っていたから、こっそり後をつけて守っていたこと。後姿を見守っているだけで、胸が躍ったということ。どんな声をしているのか、どんな風に笑うのか、独り想像しては恋しさを募らせていたということ。いけないと分かっていながらも、姿を見かければ、見るだけと自分に言い訳をして後ろを付いて行ったということ。

「一度だけ見た、太陽のように輝く金色の瞳に映されてみたいと、思った」

 故に。ゆえに。アウネンゴデムは俺の頬の形を確かめるように指でなぞる。

「吾の背にも、忌まわしき花が咲いてしまった」
 
 赤い花が揺れる。甘い匂いがする。そしてあの日、初めて悲しそうな顔を見た。放っておけなかった。目の前の人間が涙を流せば我が事のように苦しかった。泣きやんでくれるのなら、何をしてもいいと思った。忌まわしい毒を使って、記憶を消してしまっても。それがこの人のためなのではないか、と。

「…………そうやって自分に言い訳をして、攫って騙してその者が辿った軌跡すらも消し、そうした誰かを愛せば愛すほど、己への拒否感は強くなるばかり、だから、だから皆死んだのだ。分かった。分かってしまった、ああようやく身をもって理解したとも!」

 怒りに震える声。自分への嫌悪と怒りに震える、悲しい声。黒く染まった白目から、心臓のように赤い瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれた。

「ぬしは思い出を必死になって探していた、だからやはり、奪ってはいけないものだったのだ。奪った末に傍に居られることを喜んでいた吾は罪深く、生まれて初めて心の底から楽しいと思った吾は、どうしようもない生き物だ」

 月が見ている。彼の涙が柔く握られたままの指を一度解いて、その手を握りしめた。彼の身体がぴくりと跳ねる。

「……アウネさんは、俺に似てるね」

 愛しい者から大切なものを奪ってしまったことが恐ろしくて仕方ないでしょう。幸せになるのが怖いでしょう。そんなことは許されていないと。俺も、俺もそうだよ。握った手に力を込める。

「でも、ここで手を離してしまう方が、きっと、ずっと怖い」
「レ、ム」
「何もアウネさんのせいじゃない、絶対に違う。それでもあなたが自分を赦せないのなら、俺が赦してあげるから」

 屈んで、泣き止まない彼にそう告げると、整った褐色の顔が緩やかな速度で降りてきた。そろりと彼の頬に両手を添えると指が濡れる。親指で目尻の涙を拭えば、心地よさそうに睫毛を伏せた。こんな時なのに些細な触れ合いで心のどこかは満たされていて、温かく鼓動を打つ。少しでも彼が同じ気持ちであってくれたなら、嬉しい。
 
「アウネさんは、俺が男で良かったって、素直に笑っておけばいいんだよ」

 背伸びをして、触れるだけのキスをした。俺孕まないから死なない、ずっとそばに居られるね。そう言って口を離せば、彼の赤い瞳は見たこともないくらい丸くなって、俺を映している。首のあたりから顔がじわじわ赤く染まっていく様を、可愛いと思った。かわいい。いとしい。

「アウネさん、俺のこと、まだ、好き?」

 すぐ傍で赤い花が揺れている。甘い香り。顔のすぐ傍、ぽん、と音を立てて、新しい赤が花開いた。それらに負けないくらいに顔を真っ赤に染めて、アウネンゴデムはゆっくり頷いた。すきだ、耳元でたどたどしく告げられた言葉に、俺は心臓が壊れそうなくらい高鳴るのを感じた。俺の頬もきっと彼と同じくらいに熱い。俺もアウネさんが好き。あなたが好きで、幸せ。




   ←      (main)      →   



×