イエスマンの命日

星が死ぬ音を聞きながら、君と巡り合う準備をしている


がたたん。足裏から響く振動を逃がす方法は元より持たない。
通学手段として利用する駅のホームは帰宅ラッシュを迎える時間も相まり、地元中学の制服から社会人のスーツでごった返して色とりどり――というには地味な灰や黒い色に染まっていた。
もちろん自分もその中の一人として数えられるのだと、そう思うと何だか気持ち悪くてしょうがない。個性も取り柄も作業的な生活に塗りつぶされる様は海に一滴だけ落とされた淡水、のような。そう例えてしまうと私が何か特殊な才を持っていることが前提としてあるわけだが、どうだろうか。自問して、何もないや、と自答する。少しだけ人と違うかもしれない価値観しか持っていないと再認識して、残る虚しさを欠伸と共に噛み殺す。
こういうのが、嫌なのだ。電車の接近する気配も、数センチ間隔で羅列する人間たちの図も、人混みゆえのざわめきを静めようともしないホームも全部、居心地悪くて大嫌いだ。
がたん、がたたん。心音とうまい具合のずれを以て体の芯に浸透していく電車の振動音から逃れるべくローファーの踵を少し、地面から浮かせてみる。すれば指の付け根付近に黄色いブロックの凸凹とした感触が突き刺さって、なるほどマッサージ効果がありそうだ。などと頭の片隅に能天気を転がした。
そのとき。すみません、と控えめな謝罪が耳朶に触れて自分の背後の狭い空間に無理やり肩をねじ込み、通り抜けようとする人影を知覚する。再び静かに落とされた失礼しますを聞き、きっと後ろに並んでいる同じ制服の男の子が退いて隙間を作ってくれるだろうと自分は鞄の中の携帯端末を探ろうとした次の瞬間、肩甲骨に軽い衝撃を喰らった。
え、と瞠目をする一瞬、もしも並み以上の情報処理力があれば少なくとも線路に落ちそうになっている現状をしっかりと認識できただろうに。そもそもブロックより後ろにいればこんなことにはならなかったかもしれないのに。
何の準備もしていなかった身体は踏ん張り切れずに前へと押し出される。
反射神経さえ持っていれば咄嗟につま先で踏みとどまれたかもしれないのに。
迫りくる電車の強い反射光を乗せた窓ガラス。運転手は私に気付いているのだろうか。半分ほど浮遊状態に置かれた体に浴びるライト、引き延ばされる己の影。
嗚呼、死ぬ。漠然と浮かぶ“死”のたった一文字がその瞬間、私の脳を支配していた。

――――!!

不の色一色で染め上げられた意識を割って耳に響いた声音は私の口からあふれ出た断末魔ではなかった。
後ろから強く掴まれた自分の右腕を曲がるとは考えられない方向へ引っ張られて、力加減とそれとで正直痛みしかなかったが結果的に絶望的な浮遊感からは解放される形となった。……いや、違う。助けられたのだ。私は。

「……っぶな、かった……っ!」

またしても零された私のものではない言葉。
眼前を車体が走り抜けていく。停車直前で緩やかであったとはいえあれと衝突なんてことになっていたら、いや顔面を掠められるだけでも一溜りもない、頭を駆け巡る被害妄想にぞっと背筋が粟立った。
戦慄きながらに自分の肩越しに見遣った人物は水色の髪の、そう、私の後ろに並んでいた、私と同じ制服を纏った男の子……にしては随分と線細で少女と見間違うような顔立ちをしているけれど。
こんなにも華奢な腕で私を救けてくれたのか。気付いてしまうと関心しかでてこない。
停車した電車の扉が開いたのは数十秒は前の話で、それまで遠慮がちに私たちを伺っていた二つほど後ろの乗車客にどうぞと道を開ける。
そうだ、お礼。言わないと。助けてもらったというのに。このまま無言でいてどうする。
思い出して、パニックから逃れきれない頭を廻して言葉を探す。
そうだ、ありがとうございます、だ。と派手など忘れをやらかしながらも謝辞を口に滲ませかけていたというのにこちらを捉えた青の双眸が思考を綺麗に絡め取った。

「この電車、ですよね……?」

乗り込む列の最後の人を背に、開口したのは彼の方。

「え……あ、はい」
「なら急がないと」

棒立ち同然だった私の腕を引いて早足に乗り込む小柄な背中。発射の報せに続き、次の停車駅のアナウンスが和英双方で車内に流された。
がたん、がたたん。緩やかに、徐々に徐々にスピードを上げて、電車は発走する。
夕陽を纏った窓を流れ行く景色を一瞥してから少年へと視線を運んだ。

「あ、ありがとうございました」
「あっいえ、僕こそごめんなさい。駅員さん、呼んだ方がよかったですよね……」

自信なさそうに眉を下げて肩を落としてしまう彼。私は滅相もないと首を振った。
乗車待ちの列の二人して先頭とその一つ後ろであったはずなのに乗り込んだのは一番最後(それもぎりぎり)で、少なかった空席は残念なことに全て埋められていたので居場所に困った私達は揃ってドアそばの空間に身を寄せていた。
水色の髪とそれより少し濃いサファイアの双眸。中性的な目鼻立ち。グレーのブレザーは小柄な骨格には大分余裕があるようで上下ともに余らせた袖を捲っている。その見てくれから自分と同じ学校の生徒であることは知っていた。一応の救世主を前にして堂々とスマートフォンを開く勇気などなかったので思い切って口を開いてみた。

「椚ヶ丘の生徒さん、ですか?」
「は、はい。一応は」
「私もです」
「あぁ、やっぱり」

起承転結ってなんだっけな。何の凹凸も無い面白味も無い地平線の如き真っ平さの無意味かつ無価値な会話が出来上がってしまって、とりあえず自分を呪いたい。
この人もおとなしそうな見た目からの印象に違わず話下手なようで目を合わせないようにと相槌を打つごとに目線を下の方で彷徨わせているから尚思う。可哀相な迷子の子羊でも見ている気分だ。
こんな時間早く過ぎてしまわないだろうか、なんて思った時。

「さっき、」
「……え?」
「さ、さっき、引っ張った時、」
「はい、ありがとうございました。助かりました」
「いや、そうじゃなくって、僕、絶対腕引っ張る方向間違えましたよね……。痛くなかったですか?」
「大丈夫ですよ。あなたがいなかったら間違いなく死んでたし、捻ったとかじゃないから、これくらいは」

はは、といつもそうするように愛想笑い。細めた目で受け止めるにも差し込む太陽は突き刺すようで、視界を狭めた程度では受け止めきろうにも足りなくって。目の前の話し相手から自分の靴元へと視線を落とす。
過ぎ去り後ろへ置いて来た風景を何となく窓ガラス越しに覗いて振り返った。三年間、ずっと見続けている景色は家々店々が入れ替わり、立ち代わり、微妙な変化を遂げながらも豹変と呼ぶにはいくらも足りず。ゆったりと時間をかけて作り変えられていくからだろうか。
薄い金属同士を擦り合わせるブレーキの音を遠くに聞いて、ふっ、と瞬き。
私達のドア付近に列は作られておらず特に退くこともなく黙って出発進行の古臭い掛け声を待っていた。だがそんなアナログな声は車掌はもちろん駅員からも上がらない。代わりに電子音に創られた全線全駅共通のアナウンス。
先の会話、といって良いのかわからない言葉の交わし合いを振り返って、多分会話のキャッチボールというものはこうやって作っていくのだろう。独自解釈の元、手探り状態で不器用なりに「駅、どこなんですか?」と今度は私から尋ねた。

「私は次の次です」
「僕はその一個先です」
「あぁ、意外と近いんですね」
「今まで気づかないだけで会ってたかも」

綻んだその人の表情は穏やかで、柔らかで。

ゆらり、ゆられてよろめいて跳ね上がる社内で派手に崩された足場にくすくす笑って。
そうして、また一つ。駅を追い越した。

「名前、なんていうんですか?」
「え、僕?」

できればまた会いたい。会って、もっとゆっくりと話をしたい。久しぶりにそう思えた相手だったから。
窓の景色が流れることをやめた。着いてしまった。なんて最悪なタイミング。早く降りたい降りたいとしつこく送った念が今になって現実として叶ってしまうとは、運が悪い。
恐ろしく短い停車時間を気にして、開いた自動ドアから表に出る。すると思い出したように彼の時間が進み出したようで、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせながら薄い唇を開いた。
響くだけ響いておいて、まるで頭に入ってこない発車アナウンスを割り裂くように、声が投げられる。

――潮田渚。

しおた……なぎさ。
開閉音に吸い込まれそうになりながら、心地良く響く中性的な声音に届けられた6文字が扉が閉まって走り出す姿を見送っても尚、耳に残り続けた。


2016/12/25

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