短編

砂糖に触るとわからなくなる 前編


■R18
■夢的ハロ嫁後日談・前編
■怪我人降谷の風呂介助🛀



10月31日、爆弾魔プラーミャによる渋谷壊滅を阻止し、情けなくも満身創痍となった僕が家路につく頃には時刻は午前零時を回っていた。
あまりにも慌ただしい4日間だった。最も、首輪で犬小屋に繋がれた駄犬よろしく地下シェルターでおとなしく息を潜めているほかなかった僕は、全てのきっかけとなる首輪爆弾を取り付けられた28日と、クライマックスとなるハロウィン当日以外は安楽椅子探偵を気取っていられたわけだが……その分、協力者として働いてくれたあの少年や部下の手を煩わせてしまった。

11月1日、午前1時半。数日ぶりの帰宅となった我が家の窓には意外にも灯りが灯されていた。僕はまさかと思いながら、引きずらなければ禄に歩けないほど痛む足を急がせる。
閑散としたひとりきりの家で孤独を煮詰めて眠っているであろう彼女には、『今日は帰れる』と連絡は入れてあったが、時間が時間なので読んでくれることに期待はしていなかった。それでも律儀にメッセージを打つのは、癖か、儀式か。
逸る気持ちを抑えられず、がちゃがちゃと乱雑な手つきで鍵穴に鍵を差し込み、勢いよくドアを開け放す。

「あ、零君おかえりなさい! お疲れ様! ねぇ、渋谷でテロあったって知っ――」

僕の惨状を前に、出迎えてくれたなまえが口を噤む。額には包帯を巻き、スーツや深緑色のジャケットには滲んで乾いた血液が大きな染みの汚れを拵えている。足を引きずらせるほどの負傷は衣類に隠れて見えないが、頭部の包帯だけでも彼女から声の続きを奪い去る程に衝撃だったのだろう。
しかしそれは彼女が平和な日々の中で暮らしていることの証左でもある。僕の国家への献身が、こうして彼女の暮らしにも通じているのだと思うと誇らしかった。

彼女が口にした渋谷のテロ。まさかその現場にいましたとは言えない。当然、あのCDショップの前のスクランブル交差点に落下にしたヘリコプターから這い出て帰ってきました、とも。
そしてあれはテロではない。或る爆弾魔が自身を追う復讐者達の組織と、僕と僕の同期を一網打尽にするべく企てた、大規模な殺人事件である。僕らのことが表沙汰になることはないだろうが、テロの疑惑はやがて報道の中で訂正されていくことになるだろう。

「え……なにその怪我……。どうしたの!?」
「ちょっと仕事でね。それより、」

――早くこうさせて。

靴も脱がずに僕はなまえを熱く抱擁した。回した腕は半ば縋るようで、格好がつかない。
彼女の体温。彼女の香り。あらゆる知覚を震わせる彼女の存在感が、僕に安堵をくれる。事件の終幕のあとの、木枯らしのような寂しさを温めてくれる。
プラーミャの計画を阻止できたのは、今は亡き旧友たちのおかげと言っても過言ではない。もう思い出として愛でる以外では触れられないと考えていた彼らの面影を、事件という最悪な形とは言え身近に感じられて、まるで青春を再演するかの如き数日だった。それだけに、幕引きは寂しい。
行かないでくれと追い縋るほど青くもないが、またいつもの降谷零の顔を取り戻すまで、黄昏れる猶予くらいは欲しかった。

「……ただいま」

なまえをきつく抱き締めながら呟いた。

「お、おかえりなさい」

二度目の言葉を返してくれた彼女は、そっと僕の背中に腕を回そうとする。しかし。

「……っ!」

処置は受けているとはいえど塞がっていない肌の裂け目に力を加えられ、僕は眉を顰めた。
彼女は服の下の傷の在り処も、そんなものが隠されていたことも知らないのだから仕方がない。

「えっ、そんなに酷いの!?」
「駄目。離れないで」

驚愕に表情を染め、僕の腕の中をすり抜けていこうとする彼女を抱き込んで引き止める。
すれば、彼女は観念したように総身の力を抜いて、僕に従順に抱き締められることを選んでくれた。また傷に触れることを恐れてか、腕を回してくれないのは些か寂しいが、こちらとしても痛いのは嫌なので我儘は言えない。

「お疲れ様……。大変だった?」
「まぁ、少しね。でも久しぶりに昔のことを思い出せて……なんだか懐かしかった」
「そっか」

僕の職務の秘匿性を理解している彼女はそれ以上何も追求してこない。その優しささえこの寂しげな夜では傷に染みるようだった。

「はぁ……ごめん、ずっと風呂入れてないんだ。悪いけどシャワー浴びさせてくれ。っていうかそんな状態で抱きついて悪かったな。臭かったろ」
「いいのに。嬉しかったよ、甘えてくれて。……怪我してるのにお風呂入っていいの?」
「湯船に浸からなければ大丈夫って話だった。推奨はされていないみたいだけど、汗以外でもどろどろなんだ……。このままじゃとても寝られないよ」

手榴弾を射撃するためにヘリポートを転げ、火を吹くヘリに飛び乗り、落下した先の交差点に膝をつき……。煤やら砂やら衣類にこびりついた血液やらで、今の僕はとにかく汚い。そんな状態で大切な恋人を抱きしめるなと言う話だが、数日ぶりに拝む笑顔に絶えきれなくなってしまったのだ。
そんな彼女は僕の入浴には反対のようで、顔を顰めている。

「心配?」
「だ、だって傷口開きそう……」
「なら君が監督してくれたらいい。一緒に入れば僕が倒れないかやきもきして待つ必要もないよ」

まるで名案とばかりに提案する僕に、何かを察したらしい彼女は「私もうお風呂入ったよ」と引き下がる。幾らなんでも今の下心の隠し方は下手すぎたみたいだ。

「実は腕も怪我していて、あんまり上がらないんだ。洗って欲しいな。勿論君さえよければだけど」
「……えっち」
「腕の怪我は本当だよ」

やだなぁ、なんて笑って言うと納得を得られる。
怪我が頭部だけではないことを開示したことで、表情を曇らせてしまったのは可哀想だったが、どうせ一緒に入浴するのならすぐに知られてしまうこと。
黒いキャップを脱ごうと頭に手を伸ばせば、空振りする。そういえばヘリポートから躍り出た際に紛失したのだった。何もない頭部を気にする僕を、傷が痛むのだと解釈したらしいなまえは、「お風呂、いこ?」とおずおずと手を引いてくれる。なんて可愛らしいのだろう。

「脱がせて」
「う、うん」

洗面所の灯りを点けて、彼女に向き直ると、その手がくすんだ深緑色のジャケットに掛けられる。じりじりと焦らすような速度でファスナーを下ろされると、身を捩って袖から腕を抜くのを手伝った。
彼女はぱさり、とジャケットを洗濯籠に落とし、ネクタイの結び目に指を差し込む。着け慣れても外し慣れてもいないネクタイに格闘する彼女がかわいらしくて、僕は敢えて助け舟を出さずにその様子を見つめていた。やがて、しゅる、という小気味良い衣擦れの音を奏でながらネクタイが襟の裏を滑り、抜き取られる。
ヘリクルー用のジャケットによって守られていたスーツの上はそれほど汚れてはいなかったが、それを脱がされてワイシャツ1枚になると、赤黒い汚れがべったりと広がる袖が彼女の視線の先に晒される。

「……っ」
「……大丈夫、もう出血は止まってる」

泣きそうな顔になったなまえの、引き攣った頬にキスを落とし、髪を撫で、どうかそんな顔をしないでくれと頭の半分で祈りながら、もう半分では僕の怪我を悲しんでくれる彼女の優しさを、嬉しいなどと歪曲的な眼で見てもしまっていて……。
どうしようもない僕を叱って欲しい。

「痛くない?」
「少しさ。大したことはない」

ほら、はやく、と促すように髪を梳いていた指を抜くと、なまえはぷつりぷつりとシャツの釦を指で弾き始めた。
包帯とガーゼだらけの上半身が露わになると、彼女は一層面持ちに刻まれる悲愴を深めてしまう。
無言で伏せられる睫毛を眼下に見据え、艷やかな前髪を指で横へ流してやった。そのまま顎から耳の裏のあたりまでを差し込んだ掌で包むと、彼女はそれが合図のように顎を上向かせてくれるので、唇を重ねる。
触れ合うだけの啄みを呈していたのは最初の数秒のみで、すぐに僕は自身の存在を押し付けるように口づけを深める。忍び込ませた舌に戦いて後ずさる彼女のことは、耳の裏から後頭部へと滑らせた手と腰に回した腕で縛り付け、逃さない。
混じり合った互いの唾液の中に鉄の風味を感じ、自分の口腔が切れていることにそこで初めて気がついた。

「ふ、ぁ……っ、れい、くん……」
「ん……そんな顔しないでくれ……。でも心配してくれるのは嬉しいかな」

涙の膜に覆われた彼女の瞳に囁いて、やり場なく肩から垂れ下がっているだけの手を取り、腰のベルトの金具まで導いた。
彼女は自分の手の在り処を確かめるように下げた視線を、再び持ち上げ、困ったように僕をまなざす。その瞳を覗き込んで。

「外して?」

と、ねだると、金具に指が差し込まれ、かちゃ、という薄い金属音が耳朶を引っ掻く。

「いい子……」

いいこいいこ、と僕はなまえの額にキスをした。
もどかしいほど不器用にベルトをまさぐるその手が、時折その下に収めた熱に無意識にか当たり、どうしようもなく欲が助長されていく。
やがて腰が寛げられたかと思うと、白い手によってベルトを引き抜かれていく。腹や腰の窮屈さは和らげられたが、下着の奥で滾りつつあるそれはまだ少し苦しい。
なまえはかじかんだように覚束ない指でスボンのファスナーを摘み、恐る恐る引き下げた。すとん、と落ちるそれを足首から引き抜き、ついでに靴下も脱いで籠へ放る。
彼女の指先が下着の縁に引っ掛けられ、僕は堪らずごくりと喉を鳴らしてしまった。
熱が色を求めている。開放されるときを今か今かと待ち望んでいる。しかし彼女はあろうことか下着を下げようとしていた指を引っ込めてしまうのだった。

「そ、それは自分で脱いで……っ」

耳まで赤く染め上げてそっぽを向くと、彼女は自身のパジャマの釦を外し始める。
最後まで脱がせてほしかったし、欲を主張するそれが下着から飛び出るや否やその小さな手に握らせるつもりでいたのだが、あっけなく逃げられてしまう。
しかし洗ってくれと食い下がって触らせるという手札も残っているので、それ以上咎めず、僕は眼前で行われる彼女の拙いストリップを楽しむことにした。

ぱさぱさとパジャマの上下を脱ぎ捨てるまでは円滑に熟した彼女だが、下着姿になったところで僕の穴を開けんばかりの視線に気づいたらしく、唐突に手を止めてしまう。見ないで、とその眼が言外に訴えてくるが、鈍いふりをして僕は綺麗な微笑みで返した。
降伏か、はたまた覚悟を決めたのか、濡れた視線を床へと差し向けたなまえは、背中に腕を回してブラのホックを外す。するり、とストラップを肩から引き抜いて、それを捨てた。
次いで、ショーツをそろそろと降ろしていく。脚から引き抜くために身を屈めると、支えを失った胸が下を向いた。思わず手を伸ばしてしまいたくなるのを手の甲をつねって耐える。

「じゃ、入ろうか」

こくりと頷く彼女の手を引いて、僕は浴室の扉を開ける。扉の隙間から漏れる湿気と生ぬるい空気は彼女が僕の帰宅前に身を清めていたことを裏付けていた。
洗濯機の上からバレッタを取り、なまえの髪を軽くまとめてやる。
シャワーヘッドを掴んだ彼女が蛇口を捻り、水温が人肌に刺激を及ぼさないほどになるまで、手で温度を調べながら待っている。恥じらっているのか無言で俯いている綺麗な背中を一瞥し、僕はバスチェアに腰を下した。

「洗うね」
「頼む」

僕の背後に回り込んだなまえがシャワーの水を僕の髪に落とす。

「熱くない?」

目と口を閉ざしたまま、僕はかぶりを振って応じた。平気だ。
なまえに髪を洗われるのは酷く心地が良かった。汗みどろになった頭皮や全身を、髪の隙間を塗って滴る水の束が撫でていく。それに、子犬でも撫でるかのように髪をくしゃりと梳いていく彼女の優しげな指使い。鼓膜をさりげなく引っ掻く雨の降るような水の音色。地下シェルターで腐り果てそうだった総身が少しずつ清められていく。
指の腹で泡立てられたシャンプーの泡を、またシャワーで流して、そこで終わりかと思いきや、なまえはコンディショナーを手に取った。

「それもするのか?」
「せっかくだからいいじゃない。髪さらさらの方がかっこいいよ」

必要ないとは思ったが、サービスだと微笑む彼女に甘えることにする。まるでしてこなかったヘアケアだが、されて損をするものでもない。
なまえは気分良さげに僕の髪にコンディショナーを塗り込んでいく。とろみのあるシャンプーとは違い、固まった油のような感触が強く、あまり髪の上では伸びてくれないらしい。

「しばらく置くから、先に顔洗ってくれる?」
「……顔はやってくれないのか」
「身体は洗ってあげるから……!」

冗談だよ、と笑ってボディーソープに手を伸ばすと、なまえが「零君頓着なさすぎ」と言って、自身が愛用している洗顔用の固形石鹸をくれた。仄かに柑橘系の香りのする美味しそうなオレンジ色の石鹸で、大きさの割にはそれなりに値の張るものだったはずだ。その分肌に優しいのだとか。せっかくだからそれを使わせてもらう。
顔の泡を流し終えると、僕の手からシャワーヘッドを取り上げたなまえが髪を流してくれる。
コンディショナーを使った髪を手櫛で梳いてみると、心なしかいつもより引っかかりがない。

「じゃ、じゃあ、身体、洗うね……?」
「あ、待って」

僕はポールにかかっているタオルに手を伸ばす彼女を戒め……。

「手で洗って欲しいな」

ことん、と首を傾げて甘えてみる。彼女が僕のどんな顔や声や言葉に弱いのか、どん頼み方、甘え方をすれば頷いてくれるのかは熟知していた。
伊達に組織で探り屋を演じていない。ロミオトラップで培った自分をよく魅せる術を惜しみなく使い、彼女に揺さぶりをかける。従ってくれた素直な恋人には、耳元でとびきり甘い声色で「いい子」と囁いて。
背もたれのないバスチェアに座った僕の前に裸の彼女が膝立ちして、向かい合う。恥じらいを耐え忍ぶように唇を引き結びながらも、僕の願いを懸命に叶えてくれようとするいじらしさが堪らない。

彼女は掌に伸ばしたボディーソープを指で泡立て、それを僕の腕の上に広げていった。
泡立てられる前の、白くもったりとした液状の石鹸を掌に溜めておく仕草すら、自分の精を彼女の手にぶちまけたときのことを想起させて、それだけでまたひとつ脈が上がる。
小さな手のひら2つを僕の腕に滑らせて、一本ずつ丁寧に洗う。続けて足首のあたりから脹脛まで、少しずつ手を登らせていく。
傷口を刺激しないように包帯のある箇所はあからさまに避け、無傷のところすらくすぐり回すような、愛撫するような力加減で泡を引き伸ばす。
彼女が姿勢を変える都度、ふるり、と揺れる胸が僕を煽った。
緩やかに隆起しているペニスなどとうに彼女の眼にも触れているであろうに、そこには頑なに触れてこない。自分で洗えということなのだろうが、却って焦らされ、期待に胸が高鳴るだけだ。

「なぁ……もっとえっちな洗い方、できるだろ?」

意地悪く要求すれば、え、と疑問符を浮かべて眼をぱちくりと瞬かせているなまえ。彼女のふるりと柔らかそうな胸の双丘をつんと指で指し。

「わからないか?」

と問えば、僕の言う“洗い方”を察したらしい彼女は「もうっ」と悪態にもならないかわいらしい呆れ顔をした。そののち僕を睨むが、そんな瞳をされてもこちらは昂ぶるだけだということがわからないらしい。
なまえは改めてポンプを押すと、新しく作った泡を僕の身体ではなく、彼女自身の柔らかな胸の上に乗せた。そして泡の塗られた谷間に僕の膝が挟みこまれる。気持ちのいい重みが足の神経を伝う。雄の愚かな脳を熱くするその夢心地の脂質の下では、彼女の心臓が僕にも負けないほどの荒さで脈を打っていた。

「……っは、えっろ。思ってたよりやばい、な……これ……」
「っ、見ないで……」
「それは……無理だろ」

今にも涙を零しそうな、厚く水の膜を張った瞳が、上目遣いで僕を見つめた。
胸で脚を、まるで性器にそうするように扱いて――残念ながら洗えていないことに気づいた彼女は、谷間ではなく膨らみそのものを僕の腿に乗せる。横に流れず、下向きかつ一点に集められた乳房が、僕の膝の上で潰れている。脚に対する擬似的な紅葉合わせも視覚に対する大胆さが堪らなくえろかったが、やわはだを思い切り押しつけられるこちらも堪らない。
彼女の胸を手以外で弄んでいる背徳感も、彼女が積極的に奉仕してくれている現実も、僕の頭を沸騰させた。
上肢を起こした彼女が、そろそろと僕の背後に回る。泣きそうな顔をしている癖に、続けてはくれるらしいのだから、健気にも程がある。

正面を向いていても、脇の鏡が背後で中腰の姿勢になった彼女の姿をありありと映し出した。
石鹸の泡を乗せ直した胸がぽふりと背中に押し付けられた。濡れた床の上で、僕は劣情を逃がすようにつま先を丸める。
口実に過ぎない躰の洗浄という大義名分はまだ息をしており、洗うためにより体を寄せてきた彼女によって、更に強く押し当てられた。彼女は膝を伸び縮みさせて上下に動き、肌をすり合わせる。
泡が密着した肌同士の滑りを良くし、なめらかに感触を堪能させた。
鏡越しに盗み見る彼女は、まるで騎乗位で自ら僕のペニスを出し入れし、快楽を追っている折のような動き方で胸を押し付けてくれており、その絶景を正面から眺められなかったことを悔やんだ。
前へと回された手が、僕の身体の表側もするすると洗ってくれる。禄に泡を纏っていない手でそうされても、どちらかといえば撫でられている……愛撫を施されているといった感覚が強い。

「ん……っ」

前を洗っているなまえの指が乳首を掠め、驚きの余り声が出そうになった。舐めさせたことも触れさせたこともないので、快楽より違和が勝ったが。
予期せぬ刺激にぴくりと肩を震わせると、僕に胸を密着させているなまえが尻尾を踏まれた子猫のように甲高く鳴いた。

「動いちゃ、やぁっ……! こすれちゃ……っ」

――擦れ……!?
言葉の意味を理解すると、僕の肩甲骨の下辺りに押し付けられている胸のまろさのなかに、一点だけ、仄かに尖った突起めいたものがあることに気づいてしまう。

「乳首、立ってきた?」
「……っ、いわないで」
「かわい。こっちおいで」

自分の前まで彼女を引っ張ってくると、バスタブの淵に腰掛けさせる。
片手でボディーソープのボトルのポンプを押し込み、とろりと石鹸を掌に乗せると、その手をかわいらしく窪んだ臍に這わせた。触れるか触れないかのフェザータッチで腰の輪郭を撫ぜ上げると、手の下でその肢体がびくびくと跳ねる。

「ほら、お前のことも洗ってやろうな」
「え、あっ、洗ったっ、もう洗ったっ! さっきお風呂入ったから……!」
「洗い残しがあるかもしれないじゃないか。僕が綺麗にしてやる」
「ちょ……、んひゃぁっ、零君……っ!」

浴室に彼女の色めいた悲鳴はよく響く。湿った空気の溜まった天井に木霊する声は僕の耳朶を焦がして、より下肢に血潮を集めた。

「随分かわいい声出すんだな。僕はただ洗ってやってるだけなのに」

とぼけた顔で彼女の色の乗った声を指摘した。
僕の指は彼女の胸をその豊かな重みを確かめるように、胸の下部の膨らみから脇にかけてを撫で、それを掬う。バスタブの上、弱々しく握った拳の甲を唇に押し当てて瞼を震わせる彼女に、もっと素直に喘いで欲しくて、泡をたっぷりと纏わせた指で胸の突起をすりすりと撫でた。乳房全体を手中に収め、揉みながら、指同士の間に先端を挟むと、指を擦り合わせるようにしてやわい刺激を加える。

「んっ……、ひぁ……っ! き、今日は絶対しな、い、からぁ……っ。怪我……っ、治るまではぁっ、あっ……絶対、駄目……!」
「はいはい」
「聞いてよ、零君……っ!」
「聞いてる聞いてる」

怪我が治るまで。彼女が立てた制約は僕への気遣いに満ちていたが、続きを期待するように甘やかな嬌声をあげている姿、というわかりやすい据え膳を前に、熱の矛を収められるほど老成していない。
首輪爆弾に命の手綱を握られた4日間に、今夜の落ち行くヘリの中での格闘。なぶられるように生命の危機を感じさせられたあと、スパートをかけるが如く突き上げるような危険な刺激を味わわされたばかりで、脳は妖しい薬を嗅がされたように覚醒しきっていた。
命を危険に晒されて昂ぶった心を、愛しい相手を前に性的な興奮に置き換えてしまっているだけなのだとしても、持て余すにはつらい熱だ。
泡を連れた指で、その白い腿のうちがわを垂れる雫を指で救うと、水よりも粘りけを孕んでおり、彼女も興奮してくれていることがわかる。

「僕のこと洗ってくれただけでこうなったんだ? えっち」
「やだぁ……したくないっ、できない……っ。触っただけで痛そうにするのに、無理だよ……。お願い、怖い、こわいよ……やめよう……?」
「ここはしたいって言ってるみたいだけど?」

水とは違う潤い、泡とは違うぬめりを蓄えた、肉の亀裂。なまえの懇願を他所に、そこを指でなぞり、愛液の源泉に第一関節ほどまで沈める。

「うぁっ!? 嘘……うそうそっ、だめだよっ」

ばっ、となまえが手を脚の間に差し込み、肉の丘を僕の視線や指から遠ざけた。

「君こそ駄目だろ、隠しちゃ」

彼女のかわいらしい拒絶を、性に惑った甘ったれた声で叱りつけ、華奢な手首を掴んでどかせる。
彼女の両手は僕の手で片方ずつ繋いで指を絡めたなら、閉じ合わされた腿の間に肩を捩じ込んで開かせようとした。やだやだ、なんてバスタブの細い縁の上でばたばたと暴れさせる彼女を「落ちるぞ」と諌めておとなしくさせ、秘部に鼻先を埋めようとする。が、しかし。
ごつっ! という骨に骨のぶつけられる音と同時にこめかみに鈍い痛みが響く。

「痛っ!」

先程血を流していた箇所――というより包帯の撒かれている箇所全体を避けて膝を打ち付けられたのは彼女の慈悲だろう。
床の上でよろめいた僕が顔をあげると、僕を膝で蹴った張本人は、バスタブの上で瞳も唇も拳もわなわなと震わせ、こう叫んだ。

「馬鹿! 最低! こっちは心配してるのに! 怪我人となんて落ち着いてできないよ!」

涙混じりの怒りの声を浴室に反響させた彼女は、壁にかけられていたシャワーヘッドをむんずと掴んだ。振り上げられたヘッドを前に、それで殴るのはまずい……と僕は喉をひくつかせるが、流石に弁えているらしい彼女は豪快に蛇口を捻るだけ。

「ちょ、なまえ落ち着――ぶっ!」
「治るまでしないから!」

ざっ、とシャワーを真上から顔に掛けられる。水圧が強く、一瞬息が止まる。湯に変わるまで待たなかったせいで冷たい水が、僕へのしおきだった。
水がぬるさを持ち始めた頃、彼女はさっとシャワーを浴びて裸に纏わりついていた泡を流すと、そのまま浴室を出ていった。彼女に放り投げられたシャワーヘッドが音を立てて床に転がり、ひっくり返って明後日の方向に水を放射する。

――や、やらかしたか……?

頭が急冷していく。それどころか氷結したように思考が打ち止められ、彼女に嫌われたかも知れないという衝撃だけを反復していた。
唖然のひとことに尽きる。
甘やかな空気が引き潮のように立ち去り、水を打ったように静まった浴室に、熱に浮かされた馬鹿な男だけが置き去りにされていた。
見限られたという事実がぐわんぐわんと鈍く痛む頭をさらに揺さぶる中、欲をとどめておくことなど到底できず、下肢に集っていた血液は散り散りになる。

彼女が放り捨てたシャワーヘッドは、ひっくり返って天井に向かって水を放射していた。それを拾い上げると、彼女に洗ってもらった躰を流す。
この世の終わりのような顔で風呂を上がると、意外にも彼女はすぐそこの脱衣所で待っていてくれた。なんで、と思うが、思えば怪我で腕が上がらないから洗って欲しいと言ってもつれこんだ状況だった。嘘と事実がちょうど半々の配分の、「腕をあげられない」という言葉を未だに信じてくれている健気な子は、着替えさせてくれるつもりでいるらしい。
パジャマを着直したなまえがバスタオルを広げて僕を迎える。柔らかなタオル越しの彼女の手に頬を包まれながら、僕は項垂れた。

「悪かった。君が心配してくれているのは知ってたのに……その、つけ込むような真似を、して。それに、合意でもなかった……」
「もう怒ってないよ」

ぱたぱたと、性愛からは切り離された手つきで僕の躰を拭いてくれたあと、彼女は言う。棘のない、涙ぐんでいない、張り上げられてもいない、いつもの声色だった。
合意のないセックスは反吐が出るほど嫌いだ。しかし甘い声で「やだ」「やめて」と恥じらい由来の拒絶の意をもたない言葉を繰り返されるのに慣れると、制止の言葉を制止の意味として捉えられなくなってくる。愛し合っているという認識に自惚れて、無理を働いたことを心から悔やんだ。
心なんて、繋ぐものがなくなれば錨を外された船のように港から去っていくのに。

「抱き締めていいか? えっちなことはしないから」

ん、と腕を広げたなまえの胸に飛び込むようにして抱きついた。躰は拭いてくれたとはいえ、髪はまだしとどに濡れており、垂れた水を彼女の耳や鎖骨に振りまいていたけれど、何も言わずに腕の中にいてくれた。
傷に遠慮した彼女は受け入れるだけでそちらからは求めてこない。配慮とわかっていてもやはり抱き締め返してもらえないのは寂しい。早く治さなければ、と尚の事思わされる。
先に上がった際に彼女が用意しておいてくれた下着とズボンを身に纏う。腕は上げると多少痛むが、堪えきれないほどではない。しかし少し大袈裟に眉を顰めると、彼女はTシャルを着るのを手伝ってくれた。我ながらずるい男だ。

「元気になったらなんでもしてあげるから今日はやめておこう? ね?」

バスタオルを持ち直したなまえが、僕の頭にそれを被せてわしゃわしゃと水気を拭き取る。タオルで顔の横を遮られ、狭くなった視界の中、そんなことをのたまう彼女は、自分の発言の危うさと眼の前の男のずるさに気づいているのだろうか。

「……なんでも?」
「え、う、うん。零君顔怖いよ」
「後悔しないな? 取り消すなら今のうちだぞ」
「……お仕事頑張ったんでしょ? なるかわからないけど、ご褒美」

さて、僕はいつ招集の連絡が入ってもいいようにいつも風呂に入るときは着替えと一緒に携帯端末をおいている。そしてそれは今日も同じ。
『元気になったらなんでもしてあげるから今日はやめておこう? ね?』『……お仕事頑張ったんでしょ? なるかわからないけど、ご褒美』言質とばかりにたったいま録音した音声をその場で再生するとなまえは青褪めた。

「怖……きも……」
「怖くてきもい男を好きだって言ってるのは誰だっけな」

――ていうかこれくらいで引くな。この家には各部屋に盗聴器複数個と監視カメラを3台設置して、君のスマホにも盗聴とGPSのアプリを仕込んであるんだぞ。無論教える気はないが。

「何でもするとは言ったけど……ひ、酷いことはしないでください……」

ちょこん、と畳の部屋のベッドの上に縮こまって腰を下ろした彼女が、呟く。
グラスの中の水を飲み干し、シンクに置くと、僕はキッチンから移動して彼女の隣に座した。体重を受け止めてマットレスがたゆんと弾む。

「僕をなんだと思ってるんだ……。回復祝にちょっとしたハロウィンのリベンジに付き合ってもらうだけさ」

言いながら、開いたのは通販サイトである。

「お前はどれがいい?」

彼女に見せた画面を一通りスクロールすれば、そこに並ぶのはコスプレ衣装の数々。メイド、ナース、女医、そして婦警。

「め、メイドはクラシカルのロングスカートのが好きです……」
「へえ、覚えておくよ。じゃあメイドにする?」
「ご褒美だし、零君の好きなのでいいよ。年齢不相応に際どくなければ、何でも」

僕は少し迷ってから、その場で婦警の衣装を購入した。下着同然のものもあったが、一応衣服の様相を呈しているものを選ぶ。
職業柄、細部や現実との乖離が気になってしまって警察官もののアダルトコンテンツを見ていられないのだが、この子に自分と同職のコスプレをさせて卑猥な言葉を吐かせていじめ倒すのは悪い気はしない。

時刻は深夜の2時と相成っていたが、ただでさえ死地に瀕して覚醒状態だと言うのに、風呂場での情交を中途半端に切り上げたおかげで眠ろうにも眠れない。
なまえはあくびをし始めていたが、僕に付き合って起きてくれているようだった。

「久々の零君だから」

なんてかわいいことまで言って……。
僕が無理強いをしたことなどなかったことのように、なまえは僕の膝を枕にしてベッドに横たわる。結局あれ以上彼女は僕を責めることはしなかった。
僕が自分が似たような状況に陥ったならば、きっとねちねち嫌味の一つでも言うだろうに、この子はと言えば母猫を信じ切った子猫みたいに僕に身を委ねている。
部下からの連絡に返事をする傍ら、なまえの頭を撫でた。

――ハロウィン……死者が帰ってくる日……。日本で言うお盆、なんだよな。だからだったのかな。

初恋の人も、幼馴染も、同期も、みんなこの世を去ってしまった。
名は体を表すという語を体現するが如く、何もかもをとり零してきたこの手に残っているのは、仇と、守るべき国家と使命、そして膝の上の彼女だけ。
失った旧友をより近くに感じられた事件は、それだけに終わってしまうと西日のように孤独の影をより濃く引き伸ばす。不謹慎だがこのハロウィンはあの頃の友との日々へと帰ったようだった。
君はいなくならないでくれ――幾度となく彼女におしつけた、たった一つの願いを、また胸の裡で復唱する。

「なまえ、そろそろ寝るか?」
「零君が寝るなら……」

彼女の鼻筋を指の甲でするりとなぞり、おねむだろ、なんて敢えて幼子に使うような言葉を選んでみるけど、それに突っ込まれることはない。
時間が時間だ、僕もいい加減寝るべきだろう。でもくすぐったいと言って笑う彼女とこのまま戯れてもいたい。

「寝る前に一杯やらせてくれないか」
「お酒?」
「あぁ……帰れなかった数日、或る事件に巻き込まれていてね、死んだ同期のことを思い出していたんだ。彼らのおかげで事件を解決できたから、献杯がしたい。駄目かな」
「じゃあ私も付き合うよ」
「ありがとう。本当は眠りが浅くなるから、入眠前には飲まないほうがいいんだけどな」

僕は薔薇のバーボン・ウィスキーこと『フォアローゼズブラック』という銘柄の酒をキッチンの棚から出す。その横にはスコッチ・ウィスキーや日本酒も仲良く並んでいたが、今夜は自身のコードネームでもあるバーボンだ。
“four roses”――4輪の薔薇。薔薇の花言葉は花束にした時、本数によって揺れ動くが、4輪の場合は「死ぬまで気持ちは変わりません」。
バーボンといえばアメリカン・ウィスキーで、『フォアローゼズ』もアメリカのケンタッキー州の生まれだが、黒いラベルに薔薇の印の映える『ブラック』は、その中でも日本国内限定で売り出されている品だ。シリーズ内のスタンダードな銘柄と比べると、原酒に差があり、熟成期間も長め。味わいはやや重たげで、スパイシーさが目立つ。
僕はロックに適した味だということと、日本限定という売り文句に惹かれてこちらを好んで買っている。

大粒の氷を背の低いウィスキーグラスに転がし、お決まりの“薔薇のバーボン”を注ぐ。
オン・ザ・ロックスを二杯用意し、鈍色のマドラーをかき回していると、背後でなまえが怯んだ。……彼女の好みとアルコールの適正量を熟知している僕がこんなに強いものを出すわけもないだろうに。
三杯目のグラスを用意すると、背後のなまえが纏う張り詰めた空気が氷解するように和らぐ。
同じバーボンをカロリーオフのコーラで割って、コークハイにしたものを彼女には出してやった。

「二杯も飲むの?」
「いや……これは、お供物だ」
「そっか……」

畳の上のローテーブルにグラスを三つ並べ、ベッドを背もたれに畳に座る。隣に腰を下ろしたなまえが僕の肩にしなだれかかってきた。あたたかな重みを受け止めながら、微笑みを唇に灯す。
スマートフォン内の厳重にロックを掛けたアプリを起動し、警察学校時代の同期5人が写った写真を表示した。バッテリーも兼ねているスマホスタンドに横向きに端末を立てかけて、写真の中の彼らの前にグラスを置く。
自身のグラスをそれに重ね、かつん、という硝子同士の弾む音に耳を傾けながら、僕は「……乾杯」と呟いた。

「私ともしよう?」
「ああ。乾杯」

かつん、となまえとグラスをぶつけあう。
彼女は飲みやすく作ったコークハイにするすると三つも口を重ね、こくりと細い喉を上下させる。
ぱち、という弾ける炭酸が氷を舐める淡い音が、隣のグラスから聞こえてきた。

「……みんないなくなってしまったから、君が僕を心配してくれることがすごく嬉しいんだ。だからさっきは本当に悪かったと思ってる」
「私もう怒ってないよ」

それは僕の肩に擦り寄せられる君の頬を見ればわかるけど。

「景光君、カクテル作るのも上手だったよね」
「嗚呼……ヒロの、美味かったな。また飲みたいよ」

染み染みと寂しさを滲ませた舌に、少量のウィスキーを乗せた。
僕の物悲しさに共鳴するように視線を伏せている彼女は、既にグラスを半分ほど開けているではないか。これだから僕の眼の届かないところでは飲ませたくないのだ……。

「ね、気づいてる? 零君の料理の味、どんどんヒロ君に似てきてるんだよ」
「え?」

睡魔にか、アルコールにか、とろかされた瞳が、僕を見上げている。
――そう、か。
むしろどれだけ上達しても亡き友の味を再現できないことに歯噛みをしていたというのに。
――近づけていたんだな。
戻れない過去を、振り返れない足跡を、夢幻のように思ってしまう。まるで儚い水鏡。

しかし松田の爆弾解体の技術はあの東都水族館の大観覧車の件でも僕を救ってくれたし、“焦りは最大のトラップ”という言葉はふとしたとき失いそうになる冷静さを取り戻させてくれる。
伊達班長の情けをかけていては正義を遂行できないという教えは、プラーミャの肩の負傷という急所を的確に突かせ、ヒロの撃ち込んだ銃弾は、その急所を作り出すに至った。
さらにプラーミャが僕に首輪爆弾を取り付けて生かして帰した理由は、死そのものを伏せられているヒロをおびき出すためであり、つまりヒロの死が公となっていた場合、僕はあの場で爆殺されていたこととなる。皮肉にも人知れず命を落とした幼馴染が僕の命を現し世に繋ぎ止めてくれたのだ。
萩原に至っては……時を超え、あの少年に渋谷を救う策を授けている。7年前に他界している萩原と、6、7歳の小学一年生がいつ邂逅したのだという野暮かつ最もな指摘は口にするまい。今回ばかりは救世主の顔を立てて、整合性を捨て置いていてやる。
ちゃんと“居た”のだ。あいつらは。

――これはお前らと解いた事件だよ。

からん、氷の崩れる音がする。
目の下の彼女の旋毛にキスのひとつでもしようとして――こいつらに見せるのは癪だ、と端末の画面を眠らせた。僕が画面を落としたことに気が付き、もう寝るの、とタイミングよくこちらを見上げてくれた彼女のその唇を奪う。

「んっ……!? に、っがい……!」
「……チェイサーの代わりさ」

高濃度のアルコールの味と刺激に口を歪めたなまえの顎を捉え、そんな言い訳とともにまた塞いだ。


後編へ続く

2023/06/26

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