series,middle | ナノ


ひとひら





ガチャリ、扉を開ける。
ごくりと唾を飲み込み、口を開いた。



「―――悪い、遅くなった」



言葉を言い終わるか否かのタイミングで、ゴッと鈍い音。次いで壁へと叩きつけられて、両側からの息ができなくなる程の痛みに腹を蹴り跳ばされたのを理解する。



「…っぐ、げはっ、ごほっ…」
「おかえり俊(シュン)、遅いよ。10分遅刻」
「っは、んぐっ、わるい…っ」



胃からせり上がってきそうな物を無理矢理飲み下し、なんとか謝罪を絞り出した。なんで俺がこんな目に遭ってんだ。嫌ならこの部屋に帰ってこなきゃいい話なのはわかっているけれど。
口内に大量に分泌される唾液と共に分泌される鼻水をずびっと吸った瞬間、二発目が来た。倒れ込んだ俺の腹へと、二発、三発。躊躇なく降り下ろされる足は、さすが指定暴力団の跡継ぎとだけあって、一発一発が重い。



「っ、がはっ、がっ、あ"っ」
「んっとにもう、いつまで寝てるのかなしゅーんちゃーんはー」
「うぐっ、が、もっ…」



ガスガスと詰まらなそうに降り下ろされていた足が、急にピタリと止まった。その瞬間に再びせり上がってくる物。今度は飲み込むなんてできないと判断した俺は、尋常じゃない痛みを訴える腹と背中に力を入れてブルブルと震える体でなんとか四つん這いになった。



「げっ、ぐ、お"ええっ…」
「あーらら、今日は夜ご飯いっぱい食べてきたんだ」
「っふ、おえっ…くっ、はっ」



ピカピカに磨きあげられている床にびちゃびちゃと散らばる嘔吐物。あのまま吐いてたら絶対窒息してた。そう思うくらい、食べたものを全部一緒くたにしてぐちゃぐちゃに擦り合わせたような物がどんどんと逆流してくる。



「げえっ、う"、おえ…っ」
「はは、苦しそうだね。でも俊が遅刻するからさ」



止まらない。ちくしょう、なんで俺は今日に限ってあんな食べたんだ。生理的に溢れる涙と唾液と鼻水でぐちゃぐちゃな顔。ぐっと体温が下がって冷えた体の震えは止まらないし、自分が出した物のツンとした吸えた臭いに、情けなくて情けなくてもっと泣きたくなる。
散々蹴られまくったせいで腹が内臓破裂してるんじゃってくらい痛い。逆流した胃液のせいで食道が焼けるように痛い。なんで、なんで、なんで俺がこんな目に。この野郎、絶対いつかぶっ殺してやる。



「まったく、こんな心配かけて…もうお仕事なんてできないように切っちゃおうか、指」
「…っ」



ようやく吐き終わって、ぜえぜえと肩で息をしていると掛けられた言葉。事も無げに言われたそれと、すうっと爪でなぞられた第一関節の筋に、ゾッと背筋に冷たいものが走る。こいつの場合は脅しだとか、冗談だとかじゃないのは、今まで散々見てきたから。
目を見開いて慌てて上げようとした顔は、自力で上げるよりも先に髪を思いきり引っ張られて無理矢理上げさせられた。容赦のない引き方にぶちっと髪が束で抜け、首はおかしな方向を向く。
目の前に現れた絶世の美人は、それはそれは綺麗に笑ってみせた。



「あっはは、顔どろっどろ。この姿でみんなの前に出したら会長降ろしてもらえるかもね」
「っ、彬(アキラ)、やめろ…っ」



ぎりっと睨み上げると、愉快そうに歪んでいた切れ長の瞳が途端にうっとりと潤んだ。ほうっとため息を吐きながら、色んなもんでどろどろなはずの俺の頬を、綺麗な手が愛しそうに愛しそうに撫でる。



「大丈夫、冗談だよ…こんなエロい俊を見せるわけないじゃん」
「っちょ、や、なにして…っ」
「ん…」



唐突に合わさった唇。俺は目をかっぴらいて抵抗する。信じられない、たった今吐いていた口とキスするなんて、いったいどんな神経してやがる!!
闇雲に暴れるも、しかし体力の消耗しきった体での抵抗なんて彬の前で意味などないに等しい。頑として口を開かない俺に焦れた腕が、四つん這いの体を引き上げて腹へと巻きつく。彬の上に座らされ、逃げられないところでぎゅうっと絞められた腹からの余りの痛みに呻くと、開いた口の隙間から舌が侵入してきた。



「んっ、やめっ…アキ…っ」
「黙って」
「んうっ、ふあ…っん」



口内を好き勝手に蹂躙する彬の舌。それが口の中の物をすべて回収するかのように蠢いていたと思えば、今度は大量の唾液が送り込まれる。飲み込みきれずに口の端からとろとろと溢れてさらに俺の顔を汚す。
気持ち良すぎて、頭がぼーっとする。知らないうちに勝手に熱を上げる体。自力で背筋を伸ばしておくことなんてできなくて、親鳥に餌を貰う雛鳥よろしく口づけを貰った。キスひとつで、心身ともにとろとろに蕩けさせられる。



「はっ、ふあっ…はあっ、はっ」
「…すげぇかわいい」
「んんっ…」



ちゅうっと離れていった唇に吸い付いてもっと、と強請れば、腰に回っていた手が背に回り、くたくたな体を支えながらキスしてくれる。絡まる舌。舌を引っ張りだされてじゅっと吸われるだけで、脳髄まで痺れが走りびくんと体が跳ねた。
やばい、気持ちよすぎておかしくなりそう。



「んっ…はっ、よくできました」
「んっ、はあっ…」
「ていうか、なーんで縋りついてこないのかと思ったら、このせいか」



持ち上げられた手。何度もその背中に回しそうになって必死に耐えたそれは、さっきの嘔吐物で汚れていて。



「俺が汚れないようにしてくれたの?ほんとかわいーんだから」
「あ、アキ…?もういいだろ…」
「んー…」
「ちょっ!待てなにして…っ」



情欲に濡れた瞳に写る自分の汚れた手が嫌でぐいと引っ張る。しかし視界から逃げることを許してはくれず、引き戻されたそれに、彬の口が近づいて。
れ、と徐に出された真っ赤な舌が―――俺の、ゲロで汚れた指を、舐めた。



「ちょっ、やだ、やめろ彬…っ!」
「ん、ん…っちゅ、」
「いやだ、やだ、はなせ、も、はなせよ彬ァ!」



目の前の光景が信じられなくて泣き叫ぶ。指の間から手のひらから爪の下から、すべてを綺麗に舐め取っていく彬の舌。
嫌で嫌で仕方ないのに。離してほしくて堪らないのに。
それなのに、赤く卑猥に蠢く舌から目を離すことができなくて。



「あき、彬、いやだぁ…」
「んんっ、かわいーね、俊…」
「あ、やだ、や、ひうう…っ」



ぐずぐずと彬の上にへたり込む俺に、目尻をほんのり赤く染めた瞳が緩む。そして追い討ちのようにぬぷっと口内に取り込まれる指。一本ずつねっとりと舌を這わせ、じゅぽじゅぽと音を立てながら出し入れされる指に、ひくひくと腰が跳ねる。最後に先っぽをちゅうっと吸われ、びりびりと全身に痺れが走った。ぼろぼろと涙が溢れる。



「はっ、あ、あ、あき…ひんっ」
「ほんっとかわいいんだから…まだ片手なのにね」
「やだ、も、ほしい…っあき、あきらぁ…っ」
「だーめ。まだだめだよ、俊」



もう本当にやばいのに。もうこれ以上与えられたらおかしくなるのに。
それなのに、軽くダメだと笑ってみせる、美しい悪魔。



「もっともっと、深ぁくまで、堕ちておいで」



きっともう俺は、なにをされようとこの人から逃げることなどできないのだ。
なにも考えられなくなる直前に、一瞬それだけが、頭を過った。






*end*



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