Gatto nero | ナノ

041


「ミーチャ、俺のせがれの嫁に来てくれよ。そうすればミーチャは俺の娘になる。」
「そしたらノーノはどうなるの?」
「お前の親父はお前の親父のままだ。結婚ってのは、家族が増えるってことなんだよ。」
「おじさまと、ディーノともかぞくになれるの?」
「そうだ」
「なりたい!」
「ははっ今すぐには無理だ。大人にならなきゃ結婚できないからな」
「じゃあやくそくしてくれる?」
「そうだな、約束だ」
「ディーノにもいっておいてね、やくそく!」







 ふと窓も開いていないのに、どこからともなく風が吹いてきた気がした。ずっと昔の記憶が、その声が、風に乗って甦った気がした。遠い遠い、幼い頃に見ていた夢だったはずのものが、忘れていたはずの心の奥底で眠っていた願いが、突然手の中に飛び込んできて、今、現実になっていた。そんな、まるでお伽噺みたいな奇跡が、起こるなんて。

「……いいの?」

 ぽつりと口からこぼれたと同時に、瞬きと一緒にぽろりとひとつの涙がこぼれ落ちていった。私の中から勝手にころび出たそれらに、私が一番びっくりしていた。同じく驚きで見開かれたディーノの瞳を見つめていた筈なのに、どんどん涙で歪んで行って、本当に蜂蜜が零れ落ちたように見えた。

 私が選んでも、いいの?
 私が望んでも、いいの?
 私が許されて、いいの?
 私が生きてて、いいの?
 私が幸せになってしまって、いいの?

 いや、ダメだよ。それだけは。どこかで冷静な私が答えた。ディーノが今後必要になる、たった一人にだけ使える切り札になりえるものだ。この先その機会は何度でもやってくる筈だ。今、私なんかの為に使っていいものじゃない。彼は優しいから、私を助けようとそうしてくれているだけだ。優しい彼を利用するような事はしてはいけない。

「月華」
「う、うれしい、……っけど、」

 すぐに、毅然と、そして笑顔で、なんの冗談だといつもの私で。断らなければと思うのに、次から次に溢れて出てしまった涙が止まらなくなって、俯いた先のディーノの両手に降り注いでいた。それが申し訳なくて、震える両手で顔を覆ってみても、止めきれず隙間から落ちていってしまう。

「俺は、月華がいいんだ」

 限界だったのは心臓じゃなくて、心の方だった。もう押し殺しておくのは、私の中で留めておくことが、できなかった。ここまでされてしまっては、ここまで言われてしまっては、もう、その言葉を、信じる以外に道はなくなってしまった。

「……っ、」

 私の中で、小さな子供の私が、大きな声をあげて泣いている。嬉しいと、恋しいと、寂しいと叫んで泣いている。私にはもう、それが制御できない。子供の私と大人の私が引っ張り合うものだから、心が完全に、二つに裂けてしまった。

「突然で驚かせたよな、悪かった。今すぐ決めなくていいから、考えておいてほしい。」

 その言葉もまた、狡いと思った。彼は私には優しすぎる。差し出されたハンカチを素直に受け取って顔に当てると、あのさわやかでいてどこか甘い香水の匂いがした。けどその落ち着く香りのおかげで、震えと嗚咽を押し殺すことができた。

「もう夜も遅い。医者を月華の部屋に呼んであるから、とにかく行きなさい。今日はもう休むといい。ディーノ、送って行ってくれるかな」
「ああ、もちろん」

 そう答えるよりも前に心得たとばかりに私をひょいを抱き上げたディーノに、もう何も言う気力も抵抗する元気も一切なかった。暴れ出しそうな呼吸を押しとどめておくので何もかもが手一杯だった。

「動くと怪我によくないだろ。もう少しだけ我慢してくれ」
「ん。」

 こくりとひとつ頷いてから、ディーノの肩口に顔を埋めた。泣き腫らして赤くなっているであろう顔を誰にも見られたくなかった。ノーノがかすかに笑う気配があったがもう今更だった。どうせもう屋敷中の人間にも醜態を全部曝け出した後だ。もう、どうにでもなれ。全部もうどうでもいい。

「おやすみ月華」
「おやすみなさいノーノ」

 ボス自ら開けてくれた扉をくぐって、ハンカチで口元を覆ったまま会釈した。何やら話し込んでいたガナッシュとロマさんが揃ってニヤニヤ顔で振り返ったが、もう完全に無視することにした。とにかく体が重たくて、疲れきっていて、自分ではもう少しも動ける気もしなかった。ディーノに「部屋どっちだ?」と聞かれて方角を指した腕の上げ下げすら億劫だった。

「……ディーノの、」
「うん?」
「馬鹿。阿呆。お人好し。一体自分が何したか分かってる?」
「俺は何もしてねぇよ」
「してるでしょたくさん」
「記憶にないな」

 来た時とは違ってゆっくりゆっくり進むディーノの歩みの揺れが心地よくて、肩に凭れながらつい力が抜けてしまった。頭がぼんやりするのは泣いたせいか、飲んだ薬の副作用かもしれない。考えるべきことがたくさんあるはずだが、今はもう何も考えたくない。つかれた。

「ありがと、ディーノ」
「だから何もしてねぇよ。まだ。」
「まだ?」

 後ろから付いてきていたロマさんが我慢できないとばかりに吹き出した。むしろこれ以上一体何をすることがあるのか。お願いだからもう今日はやめてほしい。お願いだから大人しくしててほしい。本当に、切実に。私が死ぬ。

「なんだボス、暴れたりねぇのか?」
「だから、そもそも暴れてねぇよ」

 その返事にも笑い転げるロマさんに、ディーノも彼を無視することにしたらしく押し黙った。確かにそうだったと今思い出した。彼についてる通り名は"跳ね馬"だ。なんだか今日、改めて、その名前に納得した。

「本当に、嬉しいのは本当だから」
「ああ」
「少しだけ時間を、ください」
「うん、わかった」

 ノーノの言う通り、世話役だろうメイド数名と白衣の医者が私の部屋の前で待機していた。私達を見て無言で頭を下げる。「まずはお着替えを」という彼女達に従って、ディーノも私をベッドまで運んでそっと下ろしてくれた。

「じゃあな月華。あちこち痛むだろうに連れ回して悪かった。おやすみ」

 私の頭をさらりと撫でて、呆気なくそのまま去って行こうとする手になんだか突然急に名残惜しくなってしまって、思わずその手を捕まえてしまった。あんなに早く離れたいと思っていたはずなのに。

「……また、来てくれる?」
「当たり前だろ」

 振り返ったディーノは私と視線を合わせるように膝をついて、握ったままの私の手の甲に、ひとつキスを落とした。

「呼ばれなくても来る。月華に呼ばれたら、いつでもどこでも全部放って飛んでくる」
「それはダメでしょ、ボス」

 そこでやっと、ここに来てからはじめて、ディーノは解けたように笑った。

「さっきの返答と取っていいのか?」
「そ、そっちはまだ保留です」
「それは残念だ」

 全然全く残念そうではない声で笑いながら、少しだけ手を引かれて今度は親指の付け根のてのひらにキスされた。あの、いきなりスキンシップが激しくないでしょうか。また眩暈がしそう。

「あの、そろそろよろしいでしょうか」
「はいすみません!」

 しどろもどろになって言葉を出せない私を知ってか知らずか、年配のメイドがこほん、とひとつ咳払いをしてくれたので、その強烈な呪縛から解放されることができた。そしてなんで私が謝っているんだろう。むしろ心の声を代弁してくれたので感謝の意を伝えるべきだった。

「おやすみなさい、ディーノ」
「おやすみ」

 待機している部屋の外へ聞こえるよう「ロマさんもありがとうおやすみなさいー!!」と声を張り上げて叫んだら、がははと笑いながら彼からもおやすみをもらうことができた。肋の状態なんてものをすっかり頭から追い出してしまっていて、ちょっと脇腹に響いたのはここだけの秘密にしたい。以前折れた肋が肺に刺さった事があったが、痛みがこんなものではないし呼吸もままならなかったので恐らく今回はそんなに酷くはないと思う。この後医者にもそれを伝えながら触診をうけて苦笑いされたのは言うまでもない。

 メイドの世話と医者の治療を受けて、私はそのまま気絶するように眠りについた。途方もなく長い長い1日が、やっと終わった。










「手応えはどうだ?ボス」
「俺が聞きてぇよ、脈あると思うか?」
「さぁな。せいぜい返事があるまで怯えて過ごすんだな」
「……早まったと思うか?」
「”ボス”が決めたんだろ。なら俺たちファミリーは誰も異論なんてねぇよ」
「……ありがとよ」
「結果はどうあれだけどな」
「はぁ、勘弁してくれよ。これでも今余裕がなさすぎたって反省してんだぞ」
「自覚してるんならいいじゃねぇか。ほらボス、まだ仕事が残ってんぞ」
「ああ、そうだな」










 翌朝、身体の痛みで無理矢理引き上げられた意識のせいで最悪の目覚めだった。発熱しているらしい。そういえば怪我の翌日はよく熱を出して寝込んでいたなと昔を思い出す。昔の怪我の方がもっとずっと酷かった。幾分かマシだ。と言い聞かせつつ寝返りもうてない痛みに、現実逃避するようにそのまままた眠ってしまえともう一度目を閉じた。

 白くとろとろとした意識を強引にもう一度夢へと沈み込ませる。けれど暫くすると深い眠りに落ちる前にまた浮かんできてしまう。再び目を閉じて堪える。何度か繰り返していると昨日と同じメイドがやってきた。動けない私を見て再び医者を呼んでくれたが、病院ならともかくここで出来る事は限られているだろう。それに肋なんて出来る事は保護のコルセットと、あとは痛み止めを飲んでじっと寝てるしかない。耐えるしかない。

 全ての体力を睡眠へと注ぎ込んで無理矢理眠り、浅い眠りを繰り返した。おそらくまだ、何も考えたくなかった。何も聞きたくなかった。そんな私の逃避を知ってか知らずか、昼過ぎにヴィルがメイドと一緒に様子を見にやってきた。減っていない食事を見てあからさまに溜め息をつくのはやめてほしい。起き上がろうとした私を制しながら、おはようございますというこれも嫌味だろうか。

「お加減はいかがですか?」
「寝てれば大丈夫」
「ボスも心配していましたよ」

 ならば自分で様子を見にこればいいのに、と卑屈になる反面、おそらく風邪だといけない、感染るといけないと守護者に全力で止められているノーノが浮かんだ。先日も調子を崩していたばかりだからおそらくそうだろう。昔私の風邪の看病をしようとして、見事にうつしてしまった事があるので間違い無いと思う。あれ、風邪じゃなくてインフルエンザだったか。両方かもしれない。

「昨日はありがとう、ヴィル。貴方がいてくれて助かった」
「お褒めに与り光栄です」
「あの後は何もなく?」
「はい、恙無く。」
「そう、良かった」

 ほっと息をついたのも束の間、笑顔のままでただこちらをじっと見つめているヴィルに気付いてしまった。彼の笑顔はいつもの事だが、なんだかすごく嫌な予感がした。

「早速噂になってますよ、月華様」

 何を、というのは聞くまでもない。昨日のディーノの奇行と言っていいあれこれだろう。昨日パーティーを一緒に、しかもあんな形で抜けたのだから色々と噂は立っただろう。

「ち、ちなみに、どんな……?」
「勿論、キャバッローネ10代目とボンゴレの娘の熱愛について」
「ね……」
「それはそれはドラマティックに美しく語られているのでご心配なく」

 怖くて聞きたくなかったのに、訊いてしまった自分に猛烈に後悔した。好奇心はよくない。主に心臓に。体が勝手にびくりと反応してしまい、脇腹に酷く響いた。呻き声も押し殺して静かに悶える私に気付いているであろうに、ヴィルは続けた。

「今もその心労で倒れて寝込んでいるとか。」

 確かに昨日は疲れた。ものすごーく疲れた。今すぐこのまま気絶してしまいたいくらいには。猛烈に今も思い出すだけで、そして今この状況にもつかれてきた。

「このまま、こちらも既成事実でも作ってしまいましょうか。募った想いが暴走し、他の男に取られてるのならその前にと寝込みを襲ってしまった、これはこれでドラマティックな噂になりそうですね。」

 徐に距離を縮めてベッドに手をついたヴィルはそれでも貼り付けた笑みを絶やしていない。本気ではないからこそサラサラと口に出せるのだろう。

「抵抗しようにも今手加減できないと思うから、やめてね」
「貴女に殺されるなら本望ですよ」

 まだ若いメイドが顔を赤くしながら、慌てて部屋から出て行くのを視界の端で見送った。本当に噂になるかもしれない。勘弁してほしい。本当に寝込みそうだ。

「この手に転がり込んできた宝石を、私が手放すと思いますか?」

 ふと、手の中の夢を、手放せずにいるのは、彼も同じなのだと気付いてしまった。けれど私は、ただ確かめに帰ってきたに過ぎない。ここが、本当に私の居場所ではないということを。そして私が帰りたいと思う場所を。ただ、確かめたかった。そしてそれは間違いなく確信へと変わっただけだった。悲しいほどに、それだけだった。

「期待させてごめんなさい。貴方の期待には私は応えられない。貴方とは私は結婚しない。できない。したくない。」
「それでも諦めませんと言ったら?」
「貴方にも幸せになってもらいたいんだけどな」
「私は貴女様と一緒にいられればそれで幸せですよ」
「だって自分が努力して登るよりも、誰かを引きずり下ろした方が楽だもんね。」

 思わず返してしまった本音に、彼のが一瞬歪んだように見えた。ただなんの感慨もなくそれを見つめていた。彼のどんな言葉も行動も、私の心は動かされない。悲しいけれどそれが事実だ。

「しかもその玉座には、貴方が座るわけじゃない。私は戦利品でも、海に眠った宝物でも、優勝カップでもない。それとも貴方が暇つぶしに遊んでいるゲームの駒かな。」
「そのどれだとも思ったことなどありませんよ」
「でもそれに似た何かだと思ってるんでしょう?」
「信じていただけなくて残念です」

 わざとらしい困った顔をして、彼は離れていった。その場に膝をついて、深く頭を垂れる。

「駒というのであれば、私自身が貴女様の駒です。駒であり、手足であり、貴女様をお支えできる事が私の喜びです。」

 ここまで、言葉が届かないのか、かみ合わないのかと落胆してしまった。彼の言葉が私に響かないように、きっと私の言葉を彼に届けることも叶わないのだろう。永遠に平行線で、きっとすれ違ったままなのだろう。

「… …ごめんなさいヴィル。少し疲れたわ。寝かせてもらっていいかしら」
「それは申し訳ありません、どうぞゆっくりお休みください」
「おやすみ」

 深々とお辞儀をする彼が、素直に踵を返すのを見てふと、ひとつ思い出した事があった。

「もうひとつ、訊きたいんだけど」
「何でしょう」
「オッタビオと連絡を取りたいんだけど、話せると思う?」
「勿論、貴女様が呼びつければすぐ来ますよ。使いをやりましょうか。但し、身体の具合がよくなってからで」
「うん、ありがとう」
「では失礼いたします」

 扉が閉まりやっと晴れて一人になれて、思わずひとつ溜め息を零してしまった。鎮痛剤を水で流し込む。深く布団を被り直して、冬眠する動物のように潜り込み、とにかく寝てしまうことにした。全力で休んで、英気を養わなければ。また力いっぱい、動き出せるように。

(23.04.04)


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