彼を追いかけて、烏野高校に行くことを早々に決めた。
小学3年の時、親の転勤で引っ越してきた私に優しくしてくれたのが、近所に住むひとつ上のお兄さん、菅原孝支先輩だった。
「デカ女」や「男女」と近所のチビの悪ガキにからかわれて怒る私を宥めてくれた。テストの点が悪くて落ち込む私に勉強を教えてくれたし、親と喧嘩して家を飛び出した私を一番に見つけて、手を引いて帰ってくれたりした。どうしようもなく好きになってしまうのに、時間はかからなかった。
思えば、バレーをはじめたのも先輩を真似しての事だった。バレーに夢中の彼に少しでも近づきたかったから。たった一学年、誕生日にして十ヶ月。なのにその遠く離れた埋まらない距離を少しでも何かで埋めたかった。
バレーにおいて、私のコンプレックスは武器になった。どうせなら、プロ選手になれるぐらいの身長でもよかったとすら思えるようになった。中学で成長が止まった168センチは、バレー選手にとってまだまだ小さい。
必死にバレーに打ち込めば打ち込むほど、身長みたいに劣等感を消せる気がした。そうしていればいつか、背中を追いかけてばかりいる先輩に追いつけるかもしれない。振り向いてもらえるかもしれない。
…私のその幸せな夢は、ある日突然変わってしまった。
あの日は確か、他校との練習試合の最中だった。スパイクの着地に失敗し、膝からバキンという派手な音がして崩れ落ちた。近くの病院では酷い捻挫だと診断されたけれど、いつまで経っても膝の痛みと違和感が取れない。
まともに走れない、うまく立ち回れない。腫れて足が動かせない。痛みでうまく眠れない夜もあった。膝の力が抜けて、がくんと崩れ落ちてしまうことが何回もあった。右をかばうせいで左足まで痛めてしまうことも多かった。自分の足なのにいつまで経っても、私の言うことを聞いてくれない。痛みと疲労は重く蓄積していった。それでも私は休む方が怖かった。中学最後の年、私はキャプテンに選ばれたのだ。
訝しんだコーチが、有名な先生のいる大きな病院を勧めてきた。…けれど今の私にそんな暇はない。勉強もテストも頑張らなければいけない時期で、後輩の指導に練習、試合だってある。私が皆を引っ張っていかなきゃいけない。それにもう近所の病院では、骨も靭帯も異常ないと言われた。そう拒絶し続けた私を、母親が無理矢理その病院へと連れて行った。医師の診察を得て、MRI検査で突きつけられた診断結果は無惨なものだった。
右膝前十字靭帯断裂、両側半月板損傷、離断性骨軟骨炎。それが診断名だった。
診断を付けた先生はなぜもっと早くこなかったのかと叱った。私だって薄々分かっていた。スポーツをしている人間にとってはありふれた名前だろう。それでも現実を突きつけられるのが怖かったのだ。自分に限ってそんな怪我をしないという過信さえしていた。それほどまでに、どうしようもなく怖かった。
スポーツを続けるには再建手術が必要だと言われ、まずは散々酷使して腫れ上がった膝のリハビリからだった。手術前のリハビリで2週間。手術のための入院で更に2週間。辛く苦しい手術後の痛みに耐え、更にリハビリを延々と繰り返す日々。手術が終わっても、普通に運動できるようになるまで途方もない時間がかかった。
スパイクやブロック、サーブと、バレーの要であるジャンプの動作において、右足を庇うくせがついてしまっていた。何度も直そうとして、フォームが崩れた。その結果が、今度は左足の靭帯損傷だった。また運動ができるようになるための手術だった筈なのに、先生は私の足を見て表情を硬くする。バレーはもう諦めた方がいい。そう呟かれた言葉を、俄かには受け入れられなかった。
「君の膝の骨は深く削れて抉れている。軟骨は消耗品だから、自然には元に戻らない。激しい運動を控えて膝を保存しなければ、このままだと…歩けなくなる。」
もっと自分の身体を労わりなさい。まだ若いのだから、道はたくさんある。その言葉に、私ではなく付き添っていた母が泣き崩れた。
もうバレーはやめなさい。次の日の夜、単身赴任から一時帰宅した父と母は、私に今後バレーをやることを禁じた。閉ざされた重い扉に、更に私の力では到底開けられない錠をかける音がした。
私はただ、大好きなバレーをしたかっただけなのに。私という人間の中心は、間違いなくバレーだった。人間関係や、将来の夢、全てがバレーによって繋がっていた。少なくとも、バレーをしている自分が好きだった。必死に練習に打ち込んで、仲間と一緒に切磋琢磨し、大会でいろんな学校とぶつかり、自分の実力を知って。勝っては泣いて。負けては泣いて。…そしてその気持ちを、先輩と共有できた。
もう、私の好きな私にはなれない。もう私は私じゃなくなってしまったようだった。バレーを失くした私に、これほどまでに頑張れる何かがあると到底思えない。どうしてこうなってしまったのだろう。どこから間違えたのだろう。悔しくて、悔しくて、誰にも何も言えなかった。口に出してしまえば、それこそ全てが終わる気がした。
二度目の怪我は焦ってリハビリをやりすぎ、膝を更に悪くしてしまった。入院や通院で勉強だって遅れてしまっていた。
結局中学最後の部活には、試合どころか練習にすらほとんど出られなかった。かつて私の仲間であったはずの部活のメンバーは、私を哀れむ反面、席の空いたエースの座を喜んで奪い合っているように見えた。私の被害妄想だとわかっていても、悔しくてしかたなかった。いきいきと走り、飛び回る彼女たちを見ているのが、一番虚しかった。
先輩がいる烏野へ行く。どうしてもそれだけは諦められなくて、怪我への、バレーへの後悔を振り払うようにリハビリに打ち込み、授業の遅れを取り戻すように勉強に打ち込んだ。それだけが希望だった。縋るように受けた受験で、私は無事に合格した。…それでも、素直に100パーセント喜べない自分が悔しかった。
「紫乃、あんた孝支君に怪我のこと言ってなかったの?」
ある日の夕方、買い物から帰るなり、母がそう私の部屋へとやってきた。
言うも何も、彼が高校へ進学してから会えていない。生活の時間が違うのか、前のように行き帰りや近所のコンビニで会うこともなかった。たまに携帯で連絡は取り合っているけれど、誰より先輩にわざわざそんな重たい話を伝えられる筈がない。それこそ「そういえば受験どうだった?」という先輩の連絡に「春からまたよろしくお願いします」と送って、労いとお祝いの言葉を貰ったのが久しぶりの連絡だった。
「さっきそこで会って…真っ青な顔してたわよ。お母さん、紫乃がもう無茶しないように見ててやってねって言っちゃったじゃない」
「先輩忙しそうだったし、バレーやってる人に言えないよ。慰めてくださいってねだってるみたい。…そんなの、余計に自分が惨めになる。」
抱えるように掴んだ自分の腕に爪を立てた。そうしなければ何かから耐えられなかった。母は気まずそうにもうそれ以上何も言わず、もうすぐごはんだからねと扉を閉めた。私はやりかけの宿題に戻る。ひとつの英単語の訳に苦戦しているところだった。参考になるかと辞書を開いて、その意味合いの多さにまた静かに閉じた。言葉はいつも、難しい。
ずっと傍にいてくれたその背中は、いつも一歩先にいて私をリードしてくれていたのだ。いつもいつもついつい甘えてしまう自分が嫌だった。私は先輩の隣に立てる人間になるのが夢だった。先輩を支えられるような人間になりたかった。怪我によって、その夢という理想は打ち砕かれたように思えた。
先輩はやさしいから、余計に私はいつもそれに甘えてしまうのだ。困った時にはいつでも飛んできて、ふわりと包み込むような優しさで慰めてくれる。わざとふざけたりして、笑わせてくれる。先輩はそういう人だ。わかってるからこそ、私は誰でもなく先輩に甘えたくて、そしてそれをしてはいけないと言い聞かせた。これ以上、自分を嫌いになりたくなかった。