Carpe diem | ナノ
04:雨あがりの虹を待つ

 誰かに名前を呼ばれた気がして、目が覚めた。
 雨音にかき消されたそれはいったい誰の声だったのだろう。私は息をしているのか。大きく息を吸い込もうとして、胸の痛みに咳き込んだ。消毒液の匂いがつんと鼻をつく。やっぱり、こんな怪我程度では一緒に連れて行ってはくれなかったのかと本当に最低な事を思った。


「いっ…、…」


 起き上がろうと肘をついた身体がぎしぎしと悲鳴をあげた。なんとか身体を反転させて、両腕を突っぱねるようにして身体を持ち上げた。一瞬くらりと視界がブレたが、なんとかその場におしとどまる。


「……ダーク、」


 私の馬は無事だろうか。リヴァイはちゃんと私の訴えをきいてくれたのだろうか。意識を失う前にもう黙れと言われた気がするのだけれど。開けられたままの窓を見れば空はどんよりと曇っていた。しとしとと降り続く雨が地面や建物、草木を叩く音がする。


「…えーと、」


 人にきこうにも何故か医務室には一人も人がいない。何かあって皆出払っているのだろうか。足は包帯がぐるぐる巻きにされて固定されているためか、床に足をつけてもあまりいたくなかった。壁に寄りかかって身体を支える。伝い歩きをするようにして廊下を覗いてみるが、やはり人がいない。どういう事だろう。


「………行くか」


 自分で厩舎に確かめに行けばいい事か。歩いているうちに誰かと会うかもしれない。少し遠いのが起き抜けの身体に辛いけれど、彼が歩いてくれた距離なんかに比べれば。静かすぎる廊下に、やっぱり私はまだ寝ているのだろうかと思った。たしかにふわふわと意識がおぼろげな気がする。


「…はぁ、」


 夢ならば、どこまでが夢なのだろう。全部だったらいい。起きたらまだ皆は生きていて、また寝坊したのかと呆れられたい。その声をききたい。少し歩いただけで悲鳴をあげだした足を、それでも一歩一歩踏み出した。この痛みが証拠だった。


「…はぁ…」


 立って歩くというだけなのに、どうしてこの身体はこんなにも重いのだろう。辿り着いた渡り廊下から外に出る。厩舎は中庭を横切った方が早い。一歩踏み出した途端、風がさわさわと草木を揺らすと同時に、その匂いを運んでくる。草の匂い。雨の匂い、土の匂い。外と同じだ。ずきりと胸が痛む。


「…っい…!」


 濡れた芝生に足を滑らせて、そのままべしゃりと前のめりに転がった。…デジャブ。いやあの時は泥だらけになったからまだ草の上に溜まった水で濡れる程度でよかった。ごろりと仰向けになれば、暗い空から降り注ぐ水が私に降りかかるのが見えた。風に揺られて、まるで歌うように草木が一斉に音を立てる。世界は綺麗だ。そして残酷だ。もう笑う元気なんてなかった。その必要もない。私は生き残った。帰ってきた。


「………ああ、」


 もう、泣くのを我慢しなくていいのか。
 ダムが決壊したかのように次から次に、感情が溢れ出して視界を埋め尽くした。こぼれてもこぼれても、足りない。生きていると、失うばかりだ。こぼれないように、おとさないように、なくさないように。そうやって、びくびくしながら生きていくのだろう。


「おい、」


 突然降ってきた声に視線を巡らせる。渡り廊下に立っているのが私が会いたかった人物だと気付いて身体を起こした。まばたきをすると、目に溜まっていたものが零れて少し視界がクリアになる。またすぐに埋め尽くされる。私を見下ろす姿はひどく不機嫌だったけれどそんなことはどうでもいい。


「何してやがる」
「リヴァイ…私の馬は?」


 ぼろぼろと流れるものは止まってくれない。リヴァイが盛大に舌打ちをしたけれど、醜くてもみっともなくても私も止め方が分からないのだ。こんな時慰めて一緒に泣いてくれた人がもういないのだから。


「少しは、」


 私の方へ一歩踏み出したリヴァイの肩が、目の前へ来て地面に付かれた膝が、みるみる雨が沁みて、濡れた色に変わってゆく。いつの間にこんなに雨脚が強くなっていたのか。伸びてきた力強い手が私の肩を掴んだ。


「自分の心配もしろ!」


 突然怒鳴られて、ぽかんとリヴァイを見つめる目からまたひとつ零れた。壁の外や訓練以外で、声を荒げる彼をはじめて見た気がする。


「でも、」


 そんなこと言われても、私はダークの方が大事だ。心配なものは心配だ。


「馬は無事だ。飯食ってピンピンしてやがる。傷が酷いのはてめぇの方だ」
「…そっか、」


 ならよかった。ぽつりと零れた声はリヴァイの溜息にかき消された。途端に力が抜けて崩れそうになる身体を、彼の腕によって押しとどめられる。


「アイナ」
「ダークまで失ってしまったら、どうしようかと思った」


 ダークは彼等との思い出の一部だ。分隊長からあの馬をもらった時、皆で祝って、皆で奪い合うようにかわいがり、世話をした。人懐っこい彼はすぐに我が班のアイドルになった。名前をつけていなかったのは彼等と候補を出し合い、意見を押し付け合って喧嘩になり決まらなかったからだ。


「皆で死のうって私が言ったのに」


   ごめん皆、私と一緒に死んでくれる?

 悪天候で馬の速度が落ちていた。視界が悪く、索敵が上手く動いていなかった。逃げているばかりでは背中から食われていく。どうせ死ぬのなら、ひとりでも多く生かしたい。ここで巨人を食い止めると言った私に、彼らはついてきてくれた。喜んで、と答える声。仲間と共に戦って死ねるなら本望だという声。共に生き抜こうぐらい言いやがれという声。俺たち全員で帰るんですからね。そう笑う彼らに一緒に生きて帰ろうと言い直した。


「なのに私ひとりだけ生き残ってしまった」


 その声を、何一つとして叶えてあげられなかった。どうしてひとり助かってしまったんだろう。どこでなにを間違えたのだろう。どうすれば皆で帰ってこれたのだろう。どうしてもっとうまくできなかったんだ。彼等の声が、姿が、まだ私の身体に焼き付いているのに。どうして私ひとりだけが。…どうして私が生きているんだ。どうして一緒に死ななかったんだ。どうして私ひとりだけを置いて、逝ってしまったんだ。どうして連れて行ってくれなかったんだ。どうして、どうして、


「いつから腑抜けに成り下がった」


 胸ぐらをつかまれて、無理矢理引っ張りあげられる。力強いそれに、服のどこかが裂けた音がした。射抜くような黒い瞳が私を映している。選んだ道を悔いてればやつらは帰ってくるのか、と諭す声はとても静かだった。


「自分で自分を責めるのは結構だがな、その判断に従ったのはあいつらの意志じゃねぇのか。その意志はあいつらのもんだろうが。お前自身がそれを無下にしてどうする」


 そうなのかもしれない、と納得した。あの出来事が夢だったらいい、と思った。どこかからひょっこり彼らが現れてくれればいい。そしてそれは彼等の死をきちんと受け入れていない証拠だ。彼らの最期を見届けたのは、あの森に彼らを置いてきたのは、私のくせに。


「お前がすべき事はなんだ。お前はあいつらに何をしてやれる」


 許さない。最初に浮かんできたのはそれだった。私をおいていって許さない。私をひとりにして許さない。私を泣かせるなんて許さない。いつか向こうで会ったらぶん殴って文句を言ってやる。嗚咽が漏れて、やっと私は本当に泣けた気がした。


「……生きるっ」
「それだけか」
「もっと、強くなる」


 巨人共を許さない。もっともっと強くなって、そして全部殺してやる。根絶やしにしてやる。あの森を、土地を巨人から奪いとって、彼らがきちんと静かに眠れるようにしたい。


「忘れない、」


 そしてその日まで、私は私を許さない。弱い私を、愚かな私を。重ねた日々を忘れる事を。疑う事を。くじける事を。絶望する事を。諦める事を。そうして死ぬ事を。


「…誓う…っ」


 壁を乗り越えて、どれだけ哀しくても、どれだけ悔しくても、その全てを抱えて飛ぶ。何度でも何度でも、翼が折れるまで。命が尽きるまで。この羽は、私だけのものじゃない。


「また下らねぇ事言い出すようなら、その根性叩きなおしてやる」


 縋るものを探した手がリヴァイにしがみついて、やっと私ははじめて声を上げて泣いた。










 + + + + + + + + + +










「…すびばせんれした」
「気は済んだか」
「あい」


 鼻が詰まってるわ声が枯れてるわで変な喋りになってしまった。泣いて泣いて、思いっきり泣いて、枯れるまで泣いて。泣きやむ頃にはすっかり二人ともびしょ濡れになっていた。特に私のせいでリヴァイのシャツが酷い事になってる。身体に張り付いて気持ち悪いだろうに、あのリヴァイが嫌な顔一つしないのはどうしてだろう。


「っぶし!」
「汚ぇな」


 涙はいいけどくしゃみはアウトなのか。唾のせいか。でももう鼻み……やっぱりいいや黙っておこう。


「ぶ、」


 ふいに懐から取り出した布で、リヴァイが私の顔を拭った。潔癖症の彼がいつも何か汚れを拭くときに使うやつだ。私の顔面は汚れか。…否、間違ってはいないか。「やる」という短い言葉にありがたく鼻をかんだ。


「……さぶい」
「ならさっさと立て」
「足動かない」
「………」
「おんぶ」


 ふざけたらあからさまに舌打ちをされた。冗談だよ怒んないでよ。おかげで冗談言えるほど元気になったんだよ。…足が動かないのは本当だけど。暫く黙って人を見下ろしていた彼が諦めたように私に背を向けて膝をついた。…この雨明日になったら槍に変わったりしないのだろうか。


「早くしろ」
「ふお、はい」


 何事も言ってみるものだと感心してしまう。急かす声に、彼の気が変わらないうちに背中に覆い被さった。ぎゅうと首に腕を回すと殺す気かと怒られる。言動や態度や目つきが悪いだけで、実際彼は誰よりも仲間思いでやさしい。


「ありがとうリヴァイ」


リヴァイがいてくれてよかった。万感の思いで、その言葉を紡いだ。



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