37 清々しい朝だった。 カーテンの隙間から射し込む眩しい光は、今日という日がとても良い天気だという事を知らしめている。 今日は久しぶりの休みだし、シーツや枕カバーは全部剥がして洗って、布団とマットレスも干そう。 それから、朝からシチューを煮込んで、本屋に行って、帰りにケーキを買って、それから、…――― 「ん……」 仄かに感じる気だるさに負けそうになる瞼をぼんやりと開け、エドワードは違和感に首を傾げた。 見慣れた自室だ。 見上げた天井にも部屋の中にも変わったところはない。 ベッドだって、この部屋に引っ越してくる前から使っているものだし、寝心地が違うという事も……いや、ある。 なんだ、この腹の上に感じる圧迫感は。 身を捩ろうとすると押さえつけられるような、腹の上のこれは何だ。 未だ寝呆けたままのエドワードは、ふと、耳元で空気の抜けるような音がする事に気付いて、視線を横へ向け―――息を呑んだ。 「っ!?」 自分の真横で黒髪の男が眠っている。 初めて出会った時からあまり年を重ねたようには見えない端正な童顔の男が、無防備な寝顔を晒しているのだ。 「うわあああああっ!」 「うぉ…っ!?」 漸く覚醒したエドワードは慌てて飛び起き、男をベッドの下に突き落とした。 「ななな…っ、なんでアンタが……!?」 一体何がどうしてこうなったのか。 腹の上に感じた圧迫感は男の腕で、どうやら自分は男に抱きしめられて眠っていたらしい。 そう気付いたエドワードの顔からは血の気が一気に引いた。 何しろ恐ろしい事に、エドワードには昨夜の記憶が一切なかったのだ。 「あああアンタ!俺に一体何をした!?」 「イタタタ……人聞きの悪い事は言わないでくれよ。褒められこそすれ、非難されるような事は一切してないぞ」 「じゃあ、なんでここにいるんだよ!?」 「そもそも手を離してくれなかったのは君の方だ」 「え」 そう言われて改めて男の姿を見れば、特に乱れたところがないにも関わらずワイシャツの袖口だけが不自然によれている。 そこには、力任せに掴まれたような、無遠慮に握りしめられたような、いっそグシャグシャとも言える皺がしっかりと残っていた。 当然というか何というか、エドワード自身は昨夜の格好のままだ。 「え?え?」 「君はそろそろ飲酒に於ける弊害を自覚すべきだ。前にも言ったはずだぞ……酒は飲むな、と」 「う……」 そう言ったロイの眉間には、ワイシャツの皺にも負けずとも劣らない皺が刻まれていた。 これはどうやら本気で怒っているらしいとエドワードは首を竦める。 「え、と……それ、俺が?」 「そうだよ」 「ぐ……っ」 それは、今まで何度となく忠告されていた事だった。 初めてお酒を飲ませてもらった後にはロイに、その後もアルフォンスやホークアイ、果てはジュリエッタやデビーにまで「酒は控えるように(というか、むしろ飲むな)」と言われた。 どうやら自分は酒に弱いらしい、と彼らの忠告から漠然と理解したのだが、だからといって自分自身で自覚していた訳ではない。 だから、昨夜も酔っ払ってやろうと思っていたのではなく、どちらかというと話し合いを円滑にする為の手段として考えていたのだが……どうも失敗したらしい。 とはいえ何も覚えていないので、何をどう失敗したのか分からないのが困る。 「…ところで。素面の君から改めて聞きたいのだが」 「な…っ、何を……?」 「君の気持ちだよ。君が私に対して抱いている正直な気持ちを、だね」 てっきりこっぴどく叱られるものだと思っていたら、何やらよく分からない事を言われた。 「は!?何言ってんだ…んなもん、何もねーよ!」 噛み付く勢いで否定しながら、エドワードは必死で昨夜の出来事を思い出そうと頑張っていた。 自分は一体何をした(もしくは言った)のだろうか、と。 だが、どれほど必死に脳内を検索しても、一切の記憶は得られそうもない。 全くもってお手上げ状態で泣きたくなる。 「冷たいなぁ、君は。まさか昨夜のアレは……私を弄んだという事かね?」 「弄ぶ!?」 「昨夜、君は私を好きだと言ってくれたし、思いを通わせた私達はキスを交わしたではないか」 ニヤニヤしながらそう言われ、エドワードはポカンと口を開けて固まった。 何を言われたのか理解が追い付いていないのだろう、どこか無防備な表情で。 だが次の瞬間、頬を真っ赤に染め上げると、そわそわと視線を彷徨わせた。 「嘘だ!!」 「嘘なものか」 「だって……っ」 更に言い募ろうとするエドワードを指先で黙らせ、ロイはそっとその華奢な身体を抱き寄せた。 目と目が合い、互いの目の中に映った互いの姿はひどく頼りなげに見える。 「昨夜の事は覚えていないようだから、もう一度言うが……私は君が好きだよ」 「え……?」 「あの時は確かに酔っていた。だが、君をちゃんと君だと認識した上で、君に好きだと言ったんだ。…君を誰かと見間違えるなんてあり得ないよ」 「少将……」 「だから君も……君の正直な気持ちを聞かせてくれないか?」 互いに見つめ合えば、漆黒の夜空を思わせる彼の目の中に吸い込まれてしまいそうで、蜂蜜を思わせる彼女の目に溶かされてしまいそうで、胸が痛いほどに高鳴る。 それが互いに怖くて、けれど、互いにそれを望んでいるのだと、今この瞬間気付いてしまった。 ―――あぁ、吸い込まれる…溶かされる。 「俺も……アンタの事、好き」 「鋼の……エドワード……」 抱きしめられ唇を奪われて、ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。 こんなにも心を預けてしまって、怖いのに、信じられないくらい幸せで。 「…愛してる」 その言葉は、今まで聞いたどんな言葉よりも胸を疼かせた。 「あ、エドワードくん。おめでとう」 「……え?」 昼食の弁当を持って向かった中央司令部にて。 いつものように受付の前までやってくると、いきなりジュリエッタにそう言われ、エドワードは首を傾げた。 見れば、何やらそわそわと落ち着かない様子の軍人達がいっぱいいる。 「何が?」 「ばっくれてんじゃないわよ。アンタ達、婚約したんでしょ?」 「な…っ、なんでそれを!?」 「昨日、大総統閣下に報告したそうじゃない。アンタ水臭いわ」 「大総統に……報告?」 「だから、ばっくれんじゃないわよ!今朝からその話題で持ちきりなんだから!」 「…んの野郎……っ」 エドワードは低く唸り声を上げると、弁当を振り回しながら駆け出した。 目指すはロイ・マスタング少将の執務室。 いくつかの曲がり角を曲がり、階段を駆け上がり、ひたすら走る。 やがて見えてきた重厚なドアを蹴り開ければ、諸悪の根源の童顔男が1人――― 「やぁ、エドワード。随分慌てて……そんなに私に会いたかったのかい?」 「アンタ、俺が休みの間に何勝手に報告してんだ!早速みんなに知られてんじゃねーか!」 「あぁ。善は急げというじゃないか。せっかくだから早めにと思ったのだが、いけなかったか?」 「昨日の今日でバカかアンタ!もう恥ずかしくてここには来れないだろ!…道理で、研究所のじいちゃん達の様子がおかしいと思ったんだ!」 「ならば仕事を辞めて専業主婦になりたまえ」 エドワードの剣幕にたじろぐかと思われた男は、何故かニッコリと上機嫌でそう言うと、エドワードの手を取り指先に口付ける。 「アルフォンス君の学費なら私が全額負担するから安心したまえ。何しろ彼は私の義弟になるのだからな。学費も生活費も遊興費も全て任せて、君は仕事を辞めなさい」 「……何だよ、いきなり?」 「不安なんだよ」 「は?…て、え?ちょっと…!」 ロイは不意を突いてエドワードを抱き上げると、そっとソファに下ろし、自分も隣に座る。 その顔に浮かぶのは苦笑ともいえる表情だ。 「近々、研究所に若い研究員が入るらしい」 「うん……?」 「君を信用していない訳ではないが……それでも不安なんだ。出来れば他の男の目に触れないように閉じ込めてしまいたいくらいに」 そう言って胸元に懐いてくる男に、思わずキュンとした。 いつだって余裕綽々な一回り以上年上の男が、まるで駄々を捏ねるようにしがみ付いて離れないなんて。 「だけどさ、いきなり辞めろと言われても…」 「分かっている…それは分かっているんだ……だが、」 「うん……じゃあ、俺の夢叶えてくれるなら、仕事辞めても良いよ」 「え?」 「実は俺さ、家族の為に家を守る、っての…夢だったんだ」 エドワードは、カラリと笑うとロイの首にぎゅっと抱きついた。 ロイのびっくりした顔がおかしくて、愛しくて、幸せで、涙が出る。 今改めてロイが好きだと思った。 「掃除して洗濯してご飯作って……アンタや子供達を笑顔で迎えられるような、そんな温かくて幸せな家を守りたい」 それは、子供の頃から胸の奥に大切にしまっていた夢。 まさか叶うとは思っていなかったから、口に出して言った事はなかったけれど。 「それは……頑張って子作りに励まなくてはいかんな」 「そっちかよ。…つか、アンタ顔がエロい」 「君は真っ赤だ」 「も、黙れバァカ」 クスクスと笑い合って、どちらからともなく唇を重ね合う。 ずっと夢見た幸せは、きっともうそこまで近付いてる。 「俺の夢、ちゃんと叶えてくれよな」 「任せておきたまえ。子作りなら自信がある」 「だから、そっちかよ」 そうして、2人の下に可愛い天使が訪れるのは、それからしばらくしての事。 〜 END 〜 2011/04/11 完結 長らくのお付き合いありがとうございました。 back |