彼は本気で心配していたD
 6月の早朝は、夏にしてみては比較的涼しい時間帯。綾小路は洗顔だけを済ませると、普段のスーツはクローゼットにしまい、Yシャツに袖を通すと自宅を出た。本日、彼は丸1日公休だ。
「この時間の散歩は欠かせまへんなぁ」
 Yシャツの胸ポケットからシマリスが顔を出す。周りを忙しなくきょろきょろと見回すシマリスの頭を、人差し指の腹で優しくひと撫でして正面を向く。恒例の散歩コースには、観光客はおろか商い中の店もまだなかった。
「今日はいつもの鯛茶漬け屋を予約したんです。やっぱり新しい店より馴染みの店がええなぁ。あんさんがおっても店のもんは顔色ひとつ……」
 シマリスをもうひと撫でしようとしたところで、綾小路の足が止まった。シマリスに触れるはずの指先は、何故か何度も空ぶっていたのだ。
 恐る恐る胸ポケットを摘んで引っ張る。ポケットにシマリスの姿がなくなっていた。少し目を離した隙にはぐれてしまったことに気が付いた。
「ちょっと、どこ行きはったん?」
 自身の周囲をくまなく見回すが、シマリスらしい姿は見当たらない。綾小路はその場から離れて捜索範囲を2,3メートルずつずらし、シマリスを探し続ける。あの小さい歩幅なら、まだそこまで遠くには行っていないだろう。時折自分自身に言い聞かせ、すぐに見つかることを期待するものの、それは川に架かる橋を前にしたところでできなくなった。
「……ほんま」
 ほんまどないしょ。顔面蒼白とは現在の綾小路を指すのだろう。力ない声で不安を吐き出すと、何の意味もなく空を仰いだ。

「……」
 綾小路が散歩に出て数時間が経った。本来なら既に帰宅して朝食を済ませているはずが、未だに散歩コースの途中にある公園の東屋でベンチに深く座り続けていた。
 左腕の腕時計は9時を指そうとしている。人力車が定位置につき、車夫が通りかかった観光客らしき2人組の男女に声を掛ける。例年通りなら、これから観光客は更に増えるだろう。
 朝よりも蒸し暑さが酷くなっている。汗がじわりと額に浮かぶ。Yシャツ越しにインナーシャツを摘んで引っ張る。背中から剥がれる感覚が不快で早く帰って取り換えたいが、シマリスがこんな過酷な環境下でアスファルトを歩いていると思うと気が気でなかった。ましてや車に轢かれ──
「は……あかんあかん」
 許された時間は有限。いい加減に見つけないといけない。しかし1人では限界がある。
 近所の住民には頼めない。こんな炎天下の中、高齢者をこき使うなんて酷な願いだ。体力がある顔見知りの車夫は見ての通り仕事の時間だ。シマリス探しに時間を割いてはくれないだろう。
 ちょうどよく、仕事のような縛りがない、体力がある若い人が都合よく通らないだろうか……
「あ゛〜!京都あ゛っづ!!」
 その時、4人組の女子が横1列になってこちらに向かって歩いていた。
「まあ山みたいなもんだからねー」
「なんで観光地って山とかにやたらあるんだろうね?」
「そういえばそうだねぇ」
「もう、さっさと涼みたいぃ……!」
 短い丈のプリーツスカート、衣替えをしたであろう半袖に薄い生地のセーラー服。ここから1番近い阪急電鉄の駅で手に入る3つ折りの観光ガイドを、揃って団扇替わりにしている。
 今日は平日。彼女達の制服が京都の学校で指定されているものであれば、綾小路は既に補導の為に行動に移っている……はずだった。

「……カモが来はった」

 手で思わず歪めてしまった自身の口を覆う。好条件が揃っていることに気付き、4人を目にしながら口にしてしまっていた。
 むくりと立ち上がり、シャツの裾を入れ直す。顔や首の汗をハンカチで軽く拭うと、東屋を出て、橋の前で立ち止まる4人の元へ急いだ。空腹と焦燥感による判断力の低下で、彼はもう見知らぬ女学生に縋るほどだった。
「すんまへん、よろしいどすか?」
 綾小路は髪を2つに分けて結わえた女生徒に声を掛けた。
 彼女が3年後に会うことになる毛利親子の親族ということを、当時の綾小路は勿論知らなかった。
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