芝が青く見えた件
 とある日のことだった。
 大学の今日の分の講義を全て終え、バイトの時間にポアロに行って、いつものように外を掃除していた……はずだったのに。

「お姉さん、ここの店の店員でしょー?」
「ええ」

 手を止め、顔を上げてみる。私が会った覚えのない男性客が、店に入るわけでもなく外にいる私に話しかけてきた。

「こないだ来たんだけど、あれ美味かったよ。ハムサンドと、なんだっけ……あ、ミルクトマト煮」
「それは……ありがとうございます、後で伝えておきます」

 最後の一言は客には聞こえなかったらしい。感想を言う相手が間違ってる、残念ながらそれは全部安室さん発案のレシピだ。この人もどうやら安室さんに胃袋を掴まれてしまったらしいけど、まだそれに気が付いていないみたいだ。
 ……それにしてもこの客、歩道を塞ぐように立っていて少し邪魔のような。店入ったら入ったでずっと話しかけてきそうだし、ここで話すのをやめた方が良さそう。
 目線を客から箒へと完全に移し、完全に愛想笑いを止めて掃除を再開した。

「あの、今忙しいんで」
「いつ暇になるのー」
「当分ありません、出直してきて下さ……」

 男の、手。
 何故か私の手越しに客が箒を掴みにきた。掴むだけなら振り払えばいい。箒を強く振ろうと力を籠めると、客の男は手の力を一層強めてきた。

「ちょ、い、痛っ」
「冷たいなーお兄さん傷ついたよ」
「は、離して……」

 どうしよう、よりによって今日、こんな客かどうかすら疑わしい男と出くわすなんて……!

「……何を、してるんです?」

 私と客の間に突然割って入ってきた手は、いとも簡単に掴んできた手を剥がすように私から離させた。
 声の主の方へ顔を上げる。眼鏡をかけた褐色の男性が、あの客に鋭い目線を送り続けていた。
 服部君……じゃない、声全然違うし、身体も彼より一回りは大きい。

 次の瞬間、ばきりと折れた音が近くで小さく鳴る。褐色の男性に目をやる客の顔は何故か真っ青に染まっていき、奇声を上げながら走り出す。よろけながら走る客の後ろ姿が完全に見えなくなった頃、褐色の男性は我に返った顔をして私に頭を深く下げてきた。
 
「すみません!」
「え?」
「つい力を入れてしまって」
「……あ!」

 最近下ろしたばっかりの箒の柄が、見事に折れ曲がっていた……木って握っただけで折れる素材だっけ。

「・・・」

 目の前で起こっていた出来事から理解し終え、どっと冷や汗が額から溢れ出た。この人はきっと、蘭ちゃんばりに怒らせたらやばいポジションの人だ……!

「?肩が震えていますね、それほど怖かったんでしょう」
「い、いえ、箒だけで済んで、ほ、ほんとよかったです」

 それでも、この男性が偶然通りかかってくれて助かったのは事実だ。安室さんとシフトが被っていれば助けを呼べたはずなのに、今日に限って安室さんは非番。他に頼れる人がいないことはないけど、残念なことに遅刻の連絡が入っていて出勤していなかった。
 この人が来なかったら、いつ手が解放されるか分からなかったかもしれない……そして箒が折られることは、蘭ちゃんがここに帰ってくる以外では起こらなかっただろう。

 ……そういえばこの人、どこかで見たことがあるような。

「どの国にも、ああいう連中はいるんですね……」
「……く、国?」
「出迎えてくれたのね、真さーんっ!」
「……園子ちゃん」
「園子さんっ」

 制服姿の園子ちゃんが、大きく手を振りながらこちらへ駆け寄ってきた。授業が終わった後なのに、今日もまだ元気が有り余ってるみたい。
 減速する様子もなく、園子ちゃんはそのまま褐色の男性に向かって飛びついた。通り過ぎる人達の目線に気づいた男性は、困り顔になりつつも胴回りをホールドする園子ちゃんを剥がすわけでもなく、ただ恥ずかしそうに園子ちゃんを見下ろすだけ。
 この様子を見るに、この男性は園子ちゃんの彼氏さん、かな。そういえばいるのは知ってたけど会ったことはなかったかも。

 ……“まこと”さん?

「あ、莉乃さんじゃん、今日バイトだったんだー」
「園子ちゃん、あの、さっきこの人のこと“まこと”さんって……」
「あれ、莉乃さん会ったことないんだっけ?まー、わたしがどこかで名前言ったのかもね。
 ……この人は京極真さん、空手で今のところ負けなしのかっこいーわたしの彼氏!」
「きょ、京極真!?」

「……園子さん、この人は何故突然手を僕に合わせたんでしょう」
「きっと真さんを神様レベルに尊敬してるのよ」



「そー、名前は園子ちゃんからもう何っ回も聞いてたから覚えてて、たまに海外のチャンネルで空手の試合やってるの見てたんだけど」

 数時間後、シフトの時間を過ぎた私はポアロに残っていた2人の元に近づき、同じテーブルにお邪魔することになった。
 京極さんは海外に武者修行中で、なんでも今週末に国内の大会があるから日本に帰国して米花町に訪れたらしい。大会までの間はこの辺で安い宿借りるんだとか。(園子ちゃんははウチに泊ってもいいのにって誘ってたけど、精神統一したいからと断られていた)

「その時の試合がちょうど京極さんの試合でね。相手の名前は覚えてないけど、国は確かロシアだったかな。京極さんより2周りも大きい人だったから印象的で」
「ああ、体重別とはいえ身長差はどうしても生まれてしまいます」
「……」
「それに極真空手って寸止めしないんだったかな、頭蹴り飛ばされたら失神するとか頸椎がずれるとか聞いてたから大丈夫かなあって心配してたんだけど、試合が始まると対格差とか私が心配してたこと無用ってレベルで攻めてきてて」
「選手が担架で運ばれていく光景は僕も直接見たことがあります……テレビにも映ってしまうんですね」
「……」
「……まあ、京極さんの試合は素人が観ても気持ちがいい試合でした」
「アンタどんだけ真さん推してるのよ」
「お恥ずかしいです」
「真さんも褒められてるんだから恥ずかしがらないの!」

 頬を掻きながら目をこちらから反らす京極さんの背中を、園子ちゃんの手が軽く叩く。その動作すらもなんだか嬉しそうに受け入れている図は、なんだか私にとっては微笑ましい光景で、ある意味では、隣の芝の青さを見ている気分だった。

「うん……こんな感じに、謙虚さを忘れてないところがいいの」
「昴さんは謙虚じゃないの?」

 まさか園子ちゃん、初対面の昴さんに何を言われたか忘れたなんて言うの?

「……園子ちゃん、あの人をそんな風に思ったこと……ある?」
「え!?うーん……あ、ごめーん、イケメンだけど謙虚さはちょっとなかったわ」
「やっぱり……」
「あの、昴さんとは」
「あー、昴さんはこの人の旦那」
「旦那じゃない」
「結果的には間違ってないでしょー?一緒の家に暮らしてるんだから」
「い……一緒の家?」
「そー、なんか色々あって、2人とも新一君の家を仮住まいにしてるの。でもいいなあ、好きな人と朝から晩まで一緒かー」
「ある程度ルールは作っておかないといけないけどね」
「園子さんと、毎日……」

 かたかたと小さな音がテーブルからする。私も園子ちゃんも自分のグラスを持っている……音の出所は京極さんだ、コーヒーカップを掴む京極さんの手が震え、底を満たしているコーヒーがいくつも波紋を生み続けていた。
 一体何に、こんな動揺しているのか。

「……あの、京極さん?」

「駄目です、そんなことは僕達には早すぎます!」

「え?」
「真さーん、わたしは真さんと同棲するのいつでもオッケーだから」
「こうしてたまに園子さんと会うだけでも胸がいっぱいだというのに、ま、毎日朝から晩まで顔を合わせるなんて高度なことはまだ早いですよ!」
「ちょっとー!……じゃあ今度から、電話する時はビデオ通話にする!」
「ダメです、それもまだ早いです!」
「じゃあ何時ならいいのよ!?」
「……あれね、京極さん思ってた以上にあれだね」
「ちょっと、なによニヤけた顔しちゃって」
「いや……やっぱりそれくらい可愛げあった方がいいよなって、改めて思っただけ」

 でも、昴さんがこんな感じだったら……うん、色々知ってしまった後だけに、すごく嫌だな!

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昴さんが謙虚だったらこの話成り立たないだろうに。
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